月別アーカイブ: 2015年6月

安心しなさい(2015.6.28)

宣教題  「安心しなさい」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ14章22~33節

主イエスとペトロとの出会いは、ペトロが主イエスに出会いに行く前に、主イエスがペトロに出会いに来てくださっています。その出会いは、繰り返され、深められていっています。この出会いの恵みは、主イエスと私たち一人一人の出会いおいても同じなのです。

1. 主イエスが来てくださるから  25節
ペトロたちは、夜の暗闇に舟を漕ぎ出しましたが、波と逆風に悩まされています。主イエスは舟に乗っておられなかったのです。この時、ペトロたちが主イエスに助けを求めることはなく、主イエスの方から彼らの所に行かれて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語られ、ご自身を現しなさいました。
人が恐れを経験するものに、次のようなことがあります。迷信に脅えるということです。人の顔色や評判を恐れることです(箴言29章25~26節参照)。良心の呵責からくる恐れです。そして、死の恐れです(ヘブライ9章27節参照)。十字架に死んで復活された主イエスは、今も「恐れることはない」と解放の道を開いていてくださいます。恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配されているところに安心があるのです。

2. 主イエスのところに行くことによって  28節
「行かせてください」と願うペトロに対して、「来なさい」と主イエスは招かれています。しかし、再度ペトロは、風を見て怖くなり、逆巻く水を見て恐れています。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロを主イエスは諭し、同舟されました。こうして、ペトロたちは、繰り返し主イエスの招きを受ける中から、「本当に、あなたは神の子です」と信仰を言い表わしました。
私たちは、恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配される中で、信仰を言い表わすのです。共に居り続けてくださる主イエスのもとに居り続けるのです。主イエスの方から招いていてくださる確かさに、私たちは身を置くのです。

礼拝ご案内・行事予定(2015.7)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日) 第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15 第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00 第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00 ○成人科プログラム (毎週日曜日) AM9:30 ~ 10:15 楽しい聖書の学び    1階集会室にて お話は毎回完結します。いつでもお入りください。
5日(日) 第1聖日 礼拝 「美しい生き方」 1ペトロ2章11~12節  「安息への招き」 マタイ11:28~30 鎌野 健一
12日(日) 第2聖日 礼拝 「解き放たれて」 ルカ8章26~39節 祈りと証し
19日(日) 第3聖日 教団創立記念礼拝 「賢明な計略」ヨシュア9:16-26、1コリント3:18 「従順の祝福」 サムエル上15:10~23 大塚 章信
26日(日) 第4聖日 伝道礼拝 「命を生きる」マタイ16章13~28節 「ダビデの油そそぎ サムエル上16:6~13 佐藤 正雄

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)   AM 10:30 ~12:00、PM  7:00 ~  8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

7月行事予定

5日(第1聖日)礼拝 聖餐式 7月誕生者祝福 エノク会例会 教会員の御言葉の学び1
12日(第2聖日)礼拝 役員会
19日(第3聖日)教団創立記念日礼拝 婦人会例会  JC&YC 押部谷教会との交流会
26日(第4聖日)伝道礼拝

8月行事予定

2日(第1聖日)平和聖日礼拝 聖餐式 8月誕生者祝福  教会員の御言葉の学び2
9日(第2聖日)礼拝 役員会
16日(第3聖日)礼拝  壮年会例会
23日(第4聖日)伝道礼拝  バルナバ・ミッション祈り会  青年会さんび集会
30日(第5聖日)礼拝  振起日合同礼拝

礼拝の一大原則(2015.6.21)

宣教題  「礼拝の一大原則」            宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア7章1~15節、ローマ1章25節

1. 主の憤り
エリコの攻略(6章)を終えたイスラエルの民は、荒野を上ってアイへと侵攻を進めようとした。大きな町を滅ぼした安心からだろうか、全軍が出撃する必要などないと彼らは考えた。そして、三千の兵で攻め上った所、イスラエルは敗北し、敵に打ち殺される者もあった(2~5節)。この現実に直面したイスラエルは嘆き、ヨシュアは神に祈った(6~9節)。しかし、この敗北はイスラエルに対する主の憤りの現れであった(1節)。この憤りは、イスラエルの民の油断と見事なまでの敗北に現れていた。

2. 滅ぼし尽くしてささるべきものへの不誠実
敗北の原因は、滅ぼし尽くして献げるべきものに対して、イスラエルが不誠実であったことである(1節, 11~12節)。本来は火で焼き尽くされるべきもの(6章24節)が主から盗み取られ、アカンが所持していた(22節)。彼は、主が命じた契約を破り(11節)、むしろ、「見て、欲しくなって」それを取った(21節)。彼は、主よりも、自らの欲望をより重んじてしまったのだ。皮肉にも、滅ぼし尽くすべきものを自分のものとしたアカンが、その全所有物が火で焼かれ(25節)、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。そして、滅ぼし尽くされるべきものが滅ぼされて初めて、イスラエルの民は、アイと戦い、勝利を得ることができた(8章)。

3. 礼拝の一大原則
礼拝とは、私たちにとって何が一番大切なのかを表す行為である。アカンは、上着と銀と金の延べ板を主よりも大切なのとした。エリコの分捕りもの、すなわち滅ぼし尽くすべきものを礼拝したのだ。そして、滅ぼし尽くすべきものを礼拝したアカンは、滅ぼし尽くすべきものとなってしまった。造り主の替わりに、造られたものを礼拝し、そのようになって滅んでいくのか。それとも、造り主を礼拝し、その結果、神のかたちにある、本物の人間になっていくのか(ローマ1章25節)。私たちは問われている。
神でないものを礼拝することが偶像崇拝である。そして、偶像崇拝の罪の本当の恐ろしさは、最もなりたくないと思っている自分になってしまうことである。だからこそ、毎週の礼拝を通して、造り主を礼拝する者として整えていただき、与えられた使命を全うできる、本物の人間にならせていただこうではないか。

驚くべき光の中に(2015.6.14)

宣教題  「驚くべき光の中に」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章9~10節

この手紙が執筆された当時は、迫害などによる混乱が教会にも影響をあたえかねない状況にありました。そこでペトロは、周囲の状況に左右されるのではなく、周囲に福音の感化を与え、「かつて」の「暗闇の中から」、「驚くべき光の中へと招き入れ」られている「今」を自覚して生きるように勧めているのです。

1.神のものとされている
神の憐れみを受けた神の民とは、主イエスの十字架と復活に表された救いに与った信仰者の群れのことです。それは、ちょうど旧約の出エジプトという神の救いに与った神の民たちに通じるものです(出エジプト記19章5~6節、申命記7章6~8節)。主イエスの贖いの目的は、神の所有とするためでした。そして、そのように神に選ばれ、祭司としての使命に生きるところの聖なる者とされるためでした。
私たちは、神に背を向けて罪と死との暗闇の望みのないところから、主イエスの愛のゆえに選ばれ、神のものとされて神を礼拝するものとなり、神に仕え、他者の救いのために執り成す使命を託されています。このような驚くべき光の中に招き入れられているのですから、その歩みを最後まで全うさせていただくのです。

2.神の救いを証しする
神の所有の民とされた聖徒とその群れである教会は、神の救いの御業を広く伝えるために、神のものとされたのです。その伝える福音の内容は、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」にほかなりません。
私たちは、主イエスによって神のものとされた新しい立場にどれだけ感謝し、世に対する証しの使命を果たしているかを問い直してみることが必要です。そのためには、普段から祈りを通して神との交わりをさせていただき、神の語りかけを聴き、神御自身とその御心を知ることから始めるのです。そうする中から、驚くべき主イエスの御業を証しさせていただくことができ、救いを届けることができるのです。

起き上がるキリスト(2015.6.7)

宣教題  「起き上がるキリスト」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章22~25節

眠ることと目覚めることとは、私たちの人生の重要なことがらです。それを主なる神が支えていてくださるとの自覚は大切なことです(詩編3編6節参照)。主イエスと弟子たちが一緒に舟に乗っておられたとき、途中突風が起こり、今にも舟は沈みそうになりましたが、主イエスは熟睡しておられました。弟子たちは、どうだったでしょうか。

1.主イエスに向かって叫ぶ
弟子たちは、突然の突風に不安を抱きました。それだけではなく、主イエスが眠ってしまわれて何もしてくださらないことに、より一層の不安がつのりました。弟子たちは、「私たちはおぼれて死にそうです」(新改訳聖書)と信仰のない叫びをしました。その叫びに答えられた主イエスが、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になったのです。このように信仰を失った者の叫びに、主イエスは耳を傾けてくださるのです。
天地の創造主であり、自然界を治められる主なる神は、苦難に際して助けを求めて叫ぶとお答えくださいます(詩編107編28~31節参照)。この主イエスを体験的に知る者は幸いです。そして、このお方に叫び求めることができる人は幸いです。

2.主イエスを深く信頼する
起き上がってくださった主イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と弟子たちの信仰を目覚めさせようとされました。それに対して弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろうか。命じれば風も波も従うではないか」と語り合うほどに、主イエスを深く信頼するよう導かれました。
主イエスと共に舟に乗る姿は、聖徒たちの人生と彼らが集められた教会が歩んでいく象徴的な姿と受けとめられています。その歩みの途上において、多くの荒波や問題の中を通されますが、絶えず共におられる主イエスから目を離さないで信頼する歩みを形づくっていくことが大切です。主イエスに対する深い信頼は、主イエスが持たれている静けさの支配をいただく歩みとなるのです。