月別アーカイブ: 2014年12月

礼拝のご案内・行事予定(2015.1)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び    1階集会室にて
お話は毎回完結します。いつでもお入りください。
1日(木) 元旦礼拝
「キリストの愛を知って」
1ヨハネ3章16節
 
4日(日) 第1聖日 新年礼拝
「真実な愛を生きる」
ヨハネ15章13~15節
雄々しくあれ
ヨシュア1:1~9
鎌野 健一
11日(日) 第2聖日 成人祝福礼拝
「約束の地の保証」
ヨシュア3:1∼17、エフェソ1:13∼14
祈りと証し
18日(日) 第3聖日 礼拝
「試練の中での喜び」
1ペトロ1章6~9節
エリコの城壁
ヨシュア6:1~20
佐藤 正雄
25日(日) 第4聖日 伝道礼拝
「仰ぎ見て生きる」
ヨハネ21章15~23節
神に仕える決心
ヨシュア24:14~15
増永 茂

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)   AM 10:30 ~12:00、PM  7:00 ~  8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

1月行事予定

1日  元旦礼拝
4日 (第1聖日)礼拝 聖餐式 1月誕生者祝福
11日(第2聖日) 成人祝福礼拝 成人祝福式  役員会
18日(第3聖日) 礼拝 ダイヤモンド婚式・金婚式  教師研修4
25日(第4聖日)伝道礼拝  質問受付会

天地が共にほめたたえる(2014.12.28)

宣教題 「天地が共にほめたたえる」    宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書 詩編148編、ルカ2章20節

教会暦によると、クリスマスを祝う季節はクリスマスから公現節(1月6日)である。年越しでクリスマスを祝う方法のひとつに主を賛美することがある。事実、ルカによる降誕の記事は、天の賛美(2:13-14)からはじまり、地での羊飼いたちの賛美(2:20)で終わっている。これは決して偶然ではない。

1. 天地のあらゆるものが賛美する
詩編148編においては、まず、神の領域である天の被造物が主を賛美するように招かれている(2~4節)。続いて、人が住む領域である地に置かれている被造物が賛美へと招かれている(7~12節)。最後に招かれているのが人である(11~12節)。だから、この世界で賛美しているのは人だけではない。天地の被造物がすべて主を賛美している。そして、それに声を合わせないでいるのが、実は人である。
天地の被造物が賛美するのは、主がことばをもってすべてを創造し、秩序が崩れることなく堅く支え、そこを正しく治めているからであり(5~6節)、被造物が他でもなく主によって治められることを喜んで受け入れているからである(13節)。つまり、賛美するとは、単に「主は素晴らしい」と歌うことではない。イスラエルの神である創造者を主として受け入れ、それによって自分のいのちを再構成することである。この方以上に大切な存在はないと信じて、生かされつつ、生きていくことである。

2. 共に賛美することを可能とする方
天地の被造物が主を共に賛美することを乱しているのは人である。人がこの賛美に加わることができるように、主はイスラエルを選ばれた(14節)。そして、これを実現したのは、イエスである。だからこそ、天と地が、イエスの誕生の場面で共に賛美をし、詩編148編が現実となり始めたのだ。天地を結びつけ(エフェソ1章10節)、人にいのちをあたえ、共に賛美ができるようにしてくださった方への信頼から、本当の意味での賛美、いのちの再構成は始まる。
人を含めた天地が共に賛美できるようにされた方は、分断されているあらゆるもの(ユダヤ人と異邦人、夫婦、親子、奴隷と主人)が共に賛美できるように願っておられる。イエスを信頼する私たちには、イエスのわざをこの地上で行う使命が与えられている。家族の年を終えるに当たって、この一年の自らの歩みをふり返りつつ、ビジョンと勇気をいただこうではないか。

大いなる慰めの日(2014.12.21)

題   :「大いなる慰めの日」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ2章25~35節

私たちは、クリスマスを祝う人から、クリスマスの主イエス・キリストとその出来事に感謝する人になりたいものです。
ここに、大いなる慰めを経験したシメオンが登場します。彼の頭上には神がおられ、そのくちびるには賛美があり、その腕には幼子イエスがおられ、その目は天国を仰いでいます。

1.慰めを待ち望む
人の慰めの言葉は、寂しさや悲しみを抱いている人を励まし、勇気づけ、希望を与えます。そうすることによって、その人々と同じ位置にたって、一緒に悲しみを担うのです。しかし、その慰めの言葉には限界があります。
シメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望」(25節)んでいました。この慰めは、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に」(37節)とあるように、救いを意味しています。慰めの最も根源的なものは救いであり、救いなしに本当の慰めは与えられません(イザヤ40章1~2節参照)。そして、この本当の慰めは、救い主イエス・キリストを受け入れることでしか得られません。私たちは、イスラエルの真の慰めを待ち望んだシメオンのように、静かに真の慰めを待ち望む者となりましょう。

2.慰め主にお会いする
慰めを持っているということと、慰め主にお会いすることとは別のようです。イスラエルの人々は、救い主がダビデの子孫から現れるという期待をもって、その来臨を待望していました。ところが、イエスが降誕された時、多くの人々は受け入れませんでした(ヨハネ1章9~11節)。
そうした中にあって、シメオンがイエスにお会いできて、救い主がもたらされる慰めが分かったのには理由がありました。彼には、神を畏れ敬う信仰とその生き方や生活との間に食い違いがなかったからです(25節)。そして、聖霊によって神が語られることを受け取り、聖霊の導きを日常生活のただ中で受け取っていたからです(26~27節)。このようにして、救い主に出会い、この方の十字架の死によって救いが成し遂げられることを見い出したのです(30~35節)。
このように慰め主にお会いした者は、日々の生活の中で、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」(29節)と証しし続けていくのです。

大いなる喜びの日(2014.12.14)

題   :「大いなる喜びの日」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ2章8~20節

神が人となられた出来事がクリスマスです。それは、イエス・キリストが飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子として誕生されたことによって、神の方から人に近づいてくださったのです。このことを通して、人は神との出会いを経験できるようになったのです。

1.「恐れ」を伴なう出会い
クリスマスの出来事に登場する人々は、何らかの形で不安や恐れを持っていました(ルカ1章12節、1章30節、マタイ1章20節、2章3節)。ここに登場する羊飼いたちも「非常に恐れた」(9節)のでした。これらの不安や恐れは、個人的な事情というよりも、神ご自身が彼らに近づき、彼らの生そのものに介入されたことにより生じたものでした。それは、恐怖といった恐れであったり、畏敬の念の恐れであったりしました。こうした不安や恐れは、神が私たちに近づかれて語りかけられ、それに対して信仰の決断を促されるなど、何らかの形で神が私たちと関わりを持たれる時に覚えるものです。
イエス・キリストは、私たちの人生の生き方を中断させ、変更を求められます。そうすることによって、私たちの人生の主が私たち自身ではなくて、イエス・キリストであることを明らかにされるのです。

2.「喜び」に変えられる出会い
恐れを抱いた羊飼いに「大きな喜び」が告げられました(10~11節)。しかも、聞かされただけでなく、救い主を見せていただいた喜びでした(12節)。これは、不安や恐れを抱くすべての人に与えられる喜びです。このようにして、初めは恐れを引き起こす神の接近が、実はすべての人にとっての大きな喜びの接近であったことを明らかにされたのです。
羊飼いたちは、「今日」救い主がお生まれになった出来事を見るために、急いで出かけ、探し当て、他の人にも知らせています(15~17節)。こうして、彼らは救い主を受け入れる喜びを経験したのでした(20節)。「今日」との招きは、ザアカイも(ルカ19章9節)、十字架上の犯罪人も(同23章43節)経験しました。同じ喜びは、私たち一人一人が「今日」イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる時に経験するのです。クリスマスこそ、この決断をする新しい出発の時なのです。

大いなる憐れみの日(2014.12.7)

題   :「大いなる憐れみの日」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ1章46~56節

受胎告知を受けたマリアは、神を賛美しています。神が自分の全存在、全生涯に大きなお方となり、人の思いでは測り知ることのできないことをされる神だからです(46~47節)。なお、マリアは一人でこの賛美をしたのではなくて、エリサベトと共にいて、共に歌ったのでした(39~45節)。ここに、教会の姿があるといえるでしょう。

1.憐れみを注がれる神
このマリアの賛歌は、内容が豊かです。その主題を表す御言葉が「憐れみ」です。神の憐れみは一時のことで終わりません(50節)。どこまでも「お忘れに」ならずに真実に心に留めてくださり(54節)、約束されたことは「とこしえ」までも真実に成し遂げられます(55節)。その憐れみは、多くの人が注目し、目を見張るような輝きや豊かさを持ち合わせない「身分の低い」貧しい者に注がれるのです(48節)。
神は、自分自身の中に自分を救いうるものは何一つないことを知らせ、人間的な誇りや力が砕かれて救われるように憐れみの眼差しを向けておられます(51~53節)。このように、神の憐れみは、私たちの弱さ、無力さ、惨めさ、醜さに対して向けられています。その憐れみの極致が、主イエスの十字架の救いの御業でした。神の憐れみは、本来それを受けるに値しない者に注がれるのです。

2.憐れみの器として用いてくださる神
神は、マリアを憐れみの器として用いられました。神が彼女に目を留めて救い主を宿す器としてくださったことを通して、全人類に神が目を留めてくださることとなったのです。このようにして、神は御自身の救いの計画を進めていかれたのです。同じように、神は私たちに目を留めてくださり、神の憐れみの器として人々の救いのために用いてくださるのです。
マリアの賛歌は、パウロを通して語られた御言葉に受け継がれています(2コリント12章9~10節)。弱いときにこそ私たちに目を留めて心をかけてくださる神の憐れみのしるしが、へりくだるマリアを通してのイエス・キリストの誕生の出来事として現されました。私たちがへりくだる前に、私たちのもとにまでへりくだって降りて来てくださったクリスマスの主に、心からの賛美をささげましょう。