月別アーカイブ: 2014年11月

あわれみの王である神(2014.11.30)

題   :「あわれみの王である神」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖書  : 出エジプト34章1~9節 ローマ5章8節

王である神が私たちのところに来られることを覚える季節がアドベントである。それでは、頑なな私たちのところに来て、共に歩まれる王とはどのような方なのだろうか。

1.力ある王
出エジプト記に登場するイスラエルの神である主は、巨大国エジプトの王であるファラオと戦われ、その軍隊に完全な勝利を取られた、力ある神である。しかし、頑ななイスラエルは、王である神が守るようにと伝えたことばに従わず、結果的に、神はイスラエルの敵となられた(32章)。イスラエルはかつてのエジプトの立場に置かれ、主はイスラエルと共に歩まないと言い切った(33:1?3)。しかし、モーセは、主が民と共に歩むことなしに、民はその使命を果たせないことを知っていたので、主がモーセ自身、そしてイスラエルの民と共に行くことを求め(33:15~16)、そのことの保証として、「あなたの栄光をお示しください」(33:18)、つまり神の本性を現してくださるように求めた。

2.あわれみの王
一人でシナイの山に上ったモーセ(34:1?4)に主は「主の御名」(34:5)を示された。イスラエルの信仰告白ともいえる34:6-7に主の姿が見事に描かれている。二つの特徴がある。まず、王である神はあわれみ深く、ゆるされる方。頑ななイスラエルに耐え忍び、彼らの罪と背きと過ちという重荷をすぐに罰することはない。むしろご自身がその重荷を負い、それをゆるす。もう一つの特徴は、王である神は罰すべき者を必ず罰する方。頑なであることが生む罪の責任を神は問われる。この二つの特徴のゆえに、あわれみと公平な神は信頼に足るお方である。そして、この神のゆえに、希望がなくなることはない。頑なな罪人、神の敵のためにも道を開いて下さったのがイスラエルの神であり、クリスマスにその誕生を祝うイエスである(ローマ5:8)。
イエスがあわれみの王であるからこそ、頑なな私たちも神の民として継続して歩むことができる。そして、頑なな私たちも変えられ、「主の嗣業」(34:9)となる使命を果たすようになる。他とは異なる、特別な存在として、あわれみの王イエスを証し続ける者へと変えられる。

礼拝のご案内・行事予定(2014.12)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム(毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び     1階集会室にて
お話は毎回完結します。いつでもお入りください。
7日(日) 第1聖日 第二待降節礼拝
「大いなる憐れみの日」
ルカ1:46~56
 祈りと証し
14日(日) 第2聖日 第三待降節礼拝
「大いなる喜びの日」
ルカ2:8~20
ヨセフの告知
マタイ1:18~25
鎌野 健一
21日(日) 第3聖日 クリスマス感謝礼拝
「大いなる慰めの日」
ルカ2:25~35
休会
28日(日) 第4聖日 年末感謝礼拝
「天地が共にほめたたえる」
詩編148、ルカ2:20
信じて見上げる
詩篇118:1~6
大塚 章信

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

12月行事予定

7日(第1聖日) 待降節礼拝 聖餐式 12月誕生者祝福
14日(第2聖日) 待降節・伝道礼拝 各CSクリスマス会 Happy Sheep 役員会
21日(第3聖日) クリスマス感謝礼拝 洗礼式 CS合同礼拝 クリスマス祝会 キャロリング
23日 JYクリスマス祝会
24日 クリスマスイブ礼拝
28日(第4聖日) 年末感謝礼拝 元旦礼拝準備

豊かに備えてくださる神(2014.11.23)

題   :「豊かに備えてくださる神」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ヨハネ21章1~14節 1テモテ6章17節b

私たちは、日用の糧となる収穫を喜び、感謝する生活を送っています。さらに、「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置」いて生きていくように招かれています。私たちが信じる神は、どのようなお方なのでしょうか。

1.動揺されない神  1~8節
復活された主イエスは、ティベリアス湖畔でもシモン・ペトロたちに御自身を現されました。彼らは漁に出て一晩中働きましたが、何の収穫もありませんでした。これは、彼らの知識や経験からして受け入れがたいことでしたので、肉体的な疲労だけでなく、精神的な疲労を覚え、空しさと苛立ちの中に立たされました。主イエスは、そんな彼らに収穫の術を指導されたところ、大漁を経験したのでした。このことを通して彼らは、岸にたっておられた主イエスのところに戻ったのでした。このようにして、彼らの目が開かれ、主イエスを深く知ることとなったのです。
私たちは、心身共に疲れ果て、途方に暮れたり、苛立ちを覚えたりするときに、主イエスに対する信仰を持ち続けることができるのだろうかと尻込みをします。しかし、罪と死に対して絶対的な勝利を握っておられる主イエスは、私たちの状態によって動揺されるお方ではありません。主イエスは、大地のようなお方ですから、キリストの愛の中に自分を委ねていけばよいのです。

2.大切にしてくださる神  9~14節
主イエスは、陸に上がった弟子たちに魚とパンの食事を整えてくださっていました。さらに、彼らが収穫した魚も用いて、彼らの疲れをいやし空腹を満たされました。このようにして主イエスは、彼らを大切にされ、日々の生活を備えられたのです。
「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」は、私たちを胸迫る思いで愛を注いで大切にしてくださるお方です。神は私たちのために、日常の必要を備え(マタイ6章33節)、試練の時には逃れる道をも備え(1コリント10章13節)、善い業をあらかじめ備えていてくださるのです(エフェソ2章10節)。私たちの思いをはるかに超えて豊かに備えていてくださる主イエスに信頼を置いて歩んでいきましょう。

神さまを知る(2014.11.16)

題   :「神さまを知る」   宣教:   河村 従彦 師
聖書  : イザヤ49章13~21節 ヨハネ20章24~29節

1.旧約聖書・預言書の意味
預言者たちは現代的テーマを語るコメンテーターです。預言者たちは現実の不条理を前にして悩みました。神さまは無力ではないのか。その問いに対して神さまは反論されました。確かに力を示す時代もあったかもしれない。しかしこの時代は預言者にみことばを託した。さらには、わたしたち人間は神さまにとって重要な存在、愛の対象である、これが神さまの反論でした。

2.人間が問い続けている問い
神さまはご自分の栄光のためにみわざを行われると書かれてあります(48:11)。しかしわたしたち問いかけます。私の人生は、神さまの栄光が表されればどうでもよいのですか。そして、最後にはこう尋ねます。あなたにとってわたしはどのような存在なのですか。

3.神さまの答え 49:15~16
神さまはそれに対して、あなたは手のひらに刻むほど大切な存在だと答えられました。この「刻む」ということばは、彫り込んでしまうというような強いことばです。わたしたちは神さまの手のひらに彫り込まれるような存在だということです。
ところが、もしわたしたちが神さまの手のひらに刻まれたら、わたしたちはイエスさまを道連れにして十字架に追いやってしまうような、罪深く、情けない存在です。復活の主が示してくださった手のひらは、わたしたちがイエスさまに何をしたかを思い起こさせます。そのような私であるにもかかわらず、神さまは私をご自分の手のひらに刻んでくださったということです。
わたしたちは、神さまが、「あなたは私を信じなさい、そうすれば私はあなたを祝福する」と言われるだろうと考えます。しかし神さまは、わたしたちが神さまを信じ、愛するために、まず神さまのほうがわたしたちを信じてくださった、だから、わたしたちが神さまを信じることができる可能性があるというのです。人間は、神さまから信頼してもらえるような人生を生きたら神さまに信じてもらえるのではありません。わたしたちは、今すでに、神さまから信頼されている神さまの愛する子です。そのような神さまであることを受け止めて行きたいと思います。

福音のために生きる(2014.11.9)

宣教題   :「福音のために生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ7章24~35節
明確で永続する生きがいを持たない人が多い中にあって、私たちは、神の国のため、福音のために生きるという素晴らしい生きがいが与えられています。このような生き方をした良い見本が洗礼者ヨハネでした。なぜ、こうした生き方をすることが大切なのでしょうか。

1.心棒のない生き方から  30~35節
洗礼者ヨハネが生きた「今の時代」は、乱れ混乱した時代でした。ファリサイ派や律法の専門家たちは、主イエスやヨハネの言うことを聞かずに、無視して「自分に対する神の御心を拒んだ」のでした(30~32節)。彼らは、真剣に聞かずに、聞き流して、自分勝手な生き方をしていたのです(33~34節)。
これは、私たちが生きている「今の時代」も同じです。自分さえよければよいと、自分勝手に、自分の価値判断で生活する傾向は、世界中に、世代を問わずにあります。その結果、乱れ混乱した不道徳な結果が生まれています。それは、心棒のない、流されてしまっている歩みです。
このように、福音のために生きる生き方を逃したら、救われる道はなく、破滅に至る人生が待っているのです。

2.一本筋が通った生き方に  24~29節
洗礼者ヨハネのように、福音のために生きることは、一本筋の通った生き方であり、人生のいのちです。彼は、確信ある生き方をし(24節)、簡素な生活をしていました(25節)。しかし、彼をして偉大ならしめたのは、主イエスを直接人々に紹介したことでした(26~28節a)。
主イエスは、『しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である』(28節b)と言われました。これは、主イエスを信じ受け入れた者は、ヨハネよりも優れているということです。その人たちは、主イエスの救いを経験して神の恵みに生きる者とされているので、それを人々に語り伝えるようになったからです。
主イエスのみが、私たち一人一人を救い、新たに生かしてくださるお方です。この福音のために生きることが、真に価値あることなのです。

生ける望み(2014.11.2)

宣教題  :「生ける望み」   宣教:  川原﨑 晃 牧師
聖書  : 1ペトロ1章3~5節
私たちの信仰の歩みは、「ほめたたえられますように」とあるように、最初に神への賛美があり、その中に招き入れられています(3節a)。その賛美は、生ける望みから溢れてくるのです。この望みは、死んだ望みではなく、「生き生きとした希望」です。どこからそのような望みが生まれてくるのでしょうか。

1.新たに生まれさせられたゆえに 
神の救いの動機は、「神の豊かな憐れみにより」ました。その現われが、独り子イエスの十字架の死とその復活でした。それによって、「わたしたちを新たに生まれさせ」てくださったのです(3節b)。私たちは、新しく生まれ変わらせていただいたことによって、天に蓄えられている神からの相続財産を受け継ぐ者とされ(4節)、「終わりの時に現される」大いなる救いに与る者とされているのです(5節)。
今や私はたちは、復活されて今も生きておられる主イエスと切り離して、生きることも、死を迎えることも考えられません。私たちは、主イエスの復活ゆえに、生ける望みに向かって救われているのです。

2.神の力に守られているゆえに 
「終わりの時」とは、もうこれが最後ではないかと思われるほどの危機の時という意味も持っています。かつてペトロは、主イエスの十字架を前にして主イエスを否んだことに見るように、自分で自分を守ろうとして幾度となく失敗をしました。それゆえに彼は、神の力に守られることがどんなに必要であるかを、復活された主イエスにしがみつく信仰によって歩む以外にないことを知ったのです。
私たちは、自分の歩みに自信が持てなくなる、無駄な労苦の日々と思える、自分が孤独に思われる、死の恐れを覚えるなどの試練を経験します。また、神から見捨てられた、身放されたと思ってしまう危機の時を経験することもあります。そのような時にこそ、私たちは「神の力により、信仰によって守られている」との生ける望みに立ち続け、歩み続けるのです。