日別アーカイブ: 2012.06.17

主の証人である民(2012.6.17)

宣教題  : 「主の証人である民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ  43章8節~13節

捕らえられていくイエスを置いて逃げ去っていく時ほど、イエスの弟子たちが自らの失敗者であることを味わった時はなかったでしょう。旧約聖書のイスラエルが自らの失敗者であることを痛感したのは、ユダ王国が滅び、エルサレムの神殿が崩壊し、王位に就くものがいなくなったバビロン捕囚の時代でした。自らが見えず、聞くことができなかったことに気がつき、主を知らず、偶像を神とする諸国の中に散らされたのですから。

1.主が選んだ主の僕
主はイスラエルを捨てたのでしょうか。そうではありません。「わたしが選んだわたしの僕だ」(43:10)と主はイスラエルを呼んでいます。主の声を聞くことができなかったために失敗者となったイスラエルさえも主は捨てず、むしろ彼らを捕囚から救い出そうとしておられます。そして、捕囚から救いのわざを通して、神は彼らの耳を開き、「聞こえぬ民」(43:8)にこの方こそが神であることを知らせます。彼らは主を知り、信じ、理解するようになります(43:10)。恵みによってイスラエルを選んだからこそ、主は彼らを造りかえ、再び用いようとしておられるのです。

2.諸国のための主の証人
主の救いのわざゆえに、イスラエルは主を知り、信じるようになり、この方以外に神は、救い主はないことを経験し、理解します(43:11)。そして、イスラエルは諸国に主を示す証人となります(43:10)。失敗者である自分たちをあえて選び、造りかえてくださった神を、その恵みの証拠である自らの姿をもって指し示すのです。その結果、諸国はイスラエルを通して主のような神は他にはいないことに気がつきます(43:9)。
失敗者であったイエスの弟子たちも、十字架と復活という神の偉大なわざによって、その目と耳が開かれ、イエスを通してなされた神のわざを示す証人となりました。立派な自分を指し示す証人ではありません。失敗者であった者をも造りかえてくださる神とそのわざを指し示すことこそ、主の証人として人々に仕える道なのです。