日別アーカイブ: 2011.04.17

主の宝の民となる(2011.4.7)

宣教題  : 「主の宝の民となる」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト記    19章1節~9節
主がなして下さった罪からの解放のわざを経験し続けることこそ、主と共に歩むキリスト者生涯の「型」に欠くことができない土台である。解放された民は、主の宝となる道を進む。

1.主の宝の民となる条件
主の宝の民となるための条件は、主の声に聞き従い、その契約を守ることである(19章5節)。これはその生き方において、これまでとは異なる、新しい型を学ぶことを意味する。意識的に選ばなくても、難しい訓練をしなくても、ガラテヤ5章19~21節に描かれている肉のわざを行うことができる。しかし、主の所有とされたキリスト者は、ガラテヤ5章22~23節に描かれている聖霊の実という「新しい型」を学ぶように招かれている。意識的に選びつづける訓練なしに、新しいこの型を身につけることはできない。
なぜ、このような型を学び、訓練する必要があるのだろうか。それは、主ご自身が「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」をもってご自身が創造された世界に関わり続けておられるからである。武道の型と同様に、主が働かれるその動線に従って、主の民はこの世界でからだを動かす。その結果、宝の民として主の働きに参加するという召命(19章5節)に応えることができるのだ。

2.律法主義?
この条件はいわゆる「律法主義」だろうか。そうではない。主が罪の奴隷から解放して下さっためぐみが私たちの内なるものを変え、それゆえに、聖霊の実という新しい生き方の型が私たちのからだに生み出されていく。あれができなかった、という減点主義で恐れおののく必要はない。解放という主のめぐみに応えて、喜んで、新しい生き方の型を選び続け、前にからだを伸ばすべきだ。
生き方の新しい型を選び続けていくとき、主の所有物であるこの全世界のまん中で主のわざに参加している、主の宝の民と成長する。きよめの生涯の成長をここに見いだすことができる。