月別アーカイブ: 2009年7月

人格から人格に(2009.7.26)

題   : 「人格から人格に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 3章1節~10節
主なる神は、ペトロのように弱い器を取り上げて、ご自身の栄光と福音の前進のために用いられます。ペトロは、キリストを「持っている」という明確な経験をしていましたので、聖霊によってキリストを「あげよう」と提供しました。これが、「人格から人格に」なされるキリストの救いの御業です。

1.自覚的なキリスト経験
施しを乞う男と二人の使徒との間には、関心を向けられることを必要とする男の視線と、その男の存在に関心を向け、その痛みに関わろうとする使徒たちの視線とが交差しています(3~5節)。それに続いてペトロは、キリストを信じる者は新たに自立する道を歩ませていただき、神を当てにする生き方に変えられることを語り導いています(6~8)。
キリストを「持っている」とは(ヘブライ4章14節)、キリストこそが私の救い主であり、私の主であることを自覚し、私の全てを支配しておられるのは内住のキリストであることを自覚していることを言います。そして、生きることがキリストであることを体験的に知っていることなのです。

2.自覚的な聖霊経験
使徒たちは、男にとって最も必要とされ、根本的な解決を与えるキリストの救いを「あげよう」と提供しました。彼らに、聖霊によって神の愛が注がれていたからです。キリストの救いとは、キリストに対する真実な悔い改めと主体的な信仰によって、男がキリストに結びつけられることでした(16節、19節)。この御業は、全て聖霊によることでした。
男は、このキリストの御業のゆえに歓喜し、神を賛美し、神に栄光を帰しています。そして、キリストの証人となったのです(8~9節)。
私たちは、主イエスからいただいて持っているものを他者に与えることができます。「わたしたちを見なさい」との聖霊の一致をもって、自覚的なキリスト経験、自覚的な聖霊経験をしていくのです。

仰ぎ見る日々(2009.7.19)

題   : 「仰ぎ見る日々」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章2節~13節
信仰とは、主なる神を仰ぎ見ることです。人は、罪を犯した時、また苦難の中に置かれた時など、目を伏せ、自分の周囲にしか目が向かなくなり、現実を見て失望したりします。また、他者を見てうらやみ、自分を見て一層惨めになったりします。
主イエスの変貌の出来事は、主を仰ぎ見る者にどういう意味があるのでしょうか。

1.永遠の救いの保証
主イエスが「高い山」に登られたのは、「祈るため」でした。そして、祈っておられるうちに、そのお姿が変えられたのでした(ルカ9章28~29節)。そこにおいて、主イエスがモ-セとエリヤと語っておられたことは、ご自身が「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」であり(同31節)、主の栄光が最も現された十字架と復活の出来事についてでした(9~13節)。
主イエスの十字架と復活なくして、私たちの救いとその完成はありません。主イエスの変貌の出来事は、十字架と復活による永遠の救いの保証を意味しており、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント3章18節)いく栄化の先駆けとなったのです。私たちは、栄光の主イエスを仰ぐのみです。

2.輝く生涯の動力
主イエスの変貌の出来事は、信仰者の地上の生涯を姿変わりさせる力を与え続けてきました(ロ-マ12章2節)。その恵みは、礼拝を中心とした信仰生活を輝きあるものにし続けてきました。
私たちのうちに、このような姿変わりさせられることを嫌っているところがないでしょうか。そうならないために、私たちは、主イエスが語られている御言葉に聴き従い続けることが大切です(7節)。また、いかなる時も、私たちと共におられる主イエスを仰ぎ見ることが大切です(8節)。そうするならば、主イエスといつも共にいる自分の姿が見えてきます。そして、人を見る目も変ってきますし、自分の周囲を見る目も変ってくるのです。
主を仰ぎ見る日々の連続が、主を仰ぎ見る生涯となるのです。

主を畏れる心(2009.7.12)

題   : 「主を畏れる心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 2章37節~47節
教会は、主を畏れつつ前進して来ました(9章31節)。
主を畏れる心が、恐れることを失った鈍感さから解き放ち、恐怖に対しては勝利させてくれます。そして、主を畏れる心は、生き生きとした信仰生活を生み出していきます(43節)。

1.真の回心へと導く  37~41節
神に対する恐怖の恐れは、神から離れようとしたり、神抜きで生きていこうと願ったりするようになります(創世記3章10節)。その結果、罪の責任転嫁が起こり、神への信頼、神の御心を知ろうとすることがなくなります。
しかし、神を畏れる心は、他に責任転嫁することなく、被害者意識を持つことなく、愛の神に近づかせます。ペトロを通して福音が語られたとき、人々は誠実に応答しました。「大いに心を打たれ」て罪の自覚が生まれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と切実な求道心が生まれました(37節)。そして、福音を受け入れて回心し、主イエスに対する悔い改めと信仰による洗礼の恵みに与かったのです(38~41節)。
このように、主なる神への畏れの心は、私たちを救いの喜びに変えるのです(ルカ23章40~43節)。

2.生きた信仰生活へと導く  42~47節
神に対する恐怖の恐れは、信仰生活を息苦しくし、愛、喜び、感謝、平安といった信仰生活の活力を奪います。
しかし、神を畏れる心は、主への賛美、感謝、喜びを本物にします。そして、私たちを主に引き寄せ、信仰生活の中心である礼拝生活と教会生活を生き生きとしたものにします(詩編111編)。それは、福音に聴き従うことによって(42節a)、福音を共有する交わりによって(42節b、44~45節、46節b)、神への全き信頼を通して(42c、46節a)培われます。
神は、このような信仰生活を歩む聖徒の群を信頼されて、神の宣教を進められます(47節)。私たちが主を畏れる心であり続けることによって、生きた信仰生活が展開されていくのです。

「アーメン」の生涯(2009.7.5)

題   : 「『アーメン』の生涯」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 8章27節~9章1節
主イエスは、ご自分が何者であるかを弟子たちに問いかけ、十字架と復活の事実を公然と語られています。私たちは、主イエスが弟子たちや群衆に求められたように、真実なキリストに対する信仰をもって、「ア-メン」の生涯を全うしたいものです。

1.「ア-メン」とキリストを告白する  27~32節a
主イエスが、「わたしを何者と言うか」と問いかけられたことに対して、人々は預言者の一人と言いました。それに対して、弟子を代表してペトロは、「あなたは、メシア」、油注がれた救い主と明確な告白をしました(29節)。そして、主イエスは、ご自身の十字架と復活による真剣な救いの御業に対して、弟子たちに真剣な信仰告白を求められたのです(31~32節a)。
主イエスは、私たちの家庭で、職場で、学び舎で、また病に伏せる中で、様々な人生の戦いの場で、「あなたは、わたしを何者だと言うか」と問いかけておられます。そのような中で、私たちがキリストを告白していくとき、福音は力を発揮し、罪と死から解放されている恵みを経験していくのです。

2.「ア-メン」とキリストに生きる  32節b~9章1節
主イエスは、ご自身をいさめたペトロを叱られました。「サタン、引き下がれ」とは、十字架を避けさせようと背後で働くサタンの誘惑を言われたのです(33節)。
さて、十字架の道を歩まれた主イエスは、弟子たちだけではなく全ての人に対して、「わたしに従いなさい」と語っておられます。そのためには、自分にしがみつかないで「自分を捨て」、「自分の十字架を背負って」自分に死に、キリストに生きていただくのです。そして、キリストのため、福音のために、自分の全てを主イエスに任せていくなら、神の命に与かり続けるのです(34~37節)。
私たちは、自分を中心に据えれば据えるほど、自分のことしか見えなくなり、隣人を愛するゆとりもなくなり、いよいよ不安になります。主イエスに従ってこそ、主イエスが見えてくるのです。今この時、主イエスと御言葉を恥じることなく、「ア-メン」とキリストを告白し、キリストに生きる者とさせていただきましょう。