宣教題 「試練の効用」 宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章1~4節
キリストの復活の証人であり(1コリント15章7節)、ペンテコステ後のエルサレム教会の指導者の一人として奉仕した(使徒言行録15章13節)ヤコブは、迫害下にあった各地の教会の人々に手紙を送りました(1節)。この手紙には、キリスト信仰に生きる人々に心の在り方また生活や行いについて具体的に語られています。
Ⅰ.試練は一様ではない 2節
迫害を受けるという困難にあった人々に、まず「試練」について筆を執っています。信仰を持てば、試練がなくなるというのではありません。聖書が教える信仰は、その信仰の結果として、「いろいろな試練に出会う」という経験をするのです。
試練には、健康面で弱さを覚えたり、経済的に困難を覚えたり、人間関係で難儀することもあり、信仰の迫害にも会います。若いときの試みがあり、老年特有の戦いもあります。だれの目にも明らかな困難があるかと思えば、人知れず悩むこともあります。困難が重なることもあったりと、一様でない試練です。
Ⅱ.試練を喜びとする 2~4節
人の生まれながらの性質からすれば、試練を喜ぶことはできません。ところが、その試練を「この上ない喜びと思いなさい」というのです。
試練を通されることによって、信仰が本物に近づけられます。そのように「信仰が試される」者となる喜びです。その試練を通して「忍耐が生じ」、その忍耐という品性が与えられるゆえに、試練が喜びとなります。そして、あらゆることにおいて、神の御心を正しく捉え、それに全力を注いで歩む「完全で申し分」のない者とされていくという喜びが生まれます。
試練、信仰の試し、忍耐、完全な者にされるのは、深められていく恵みです。
今日の宣教要旨
宣教題 「信仰による再出発」 宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 創世記22章1~14節 ヘブライ11章17節
アブラハムを祝福される神は(創世記12章2節)、全能の神(17章1節)であり、永遠の神(21章33節)であられます。ところが、それを覆すかのように、彼に信仰の試練を与えられました(ヘブライ11章17節)。彼にとっては、神が約束されたことと(17章19節)矛盾する要求をされたことが理解できなかったでしょう。
1.説明はできないが
アブラハムは、約束の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられたことに対して、自らも納得できない、人にも説明して語る言葉を持たないままで「その場所」に来たのでした。これは、神を信じているのになぜ、神は約束されたのになぜ、といった信仰の土台が揺さぶられるようなことでした。
神の前に試され、扱われ、訓練されつつ前進できるのは、「信仰によって」です。人には説明出来ないことであっても神は何もかも分かっておられます。神はある必要からこのようにされるのです。神は必ず備えてくださるのです。神は後で、試練の中にある者にも他の人にも説明してくださるのです(ヨハネ13章7節参照)。
2.二人は一緒に
「二人一緒に歩いて行った」(22章6節、8節)とは、何と幸いな父と子でしょうか。試練の中で、二人が一緒でないことがあるからであり、一緒であっても前進しないことがあるからです。しかし、二人のうちどちらかが欠けても成り立たない中を歩き続けることができたのは、父の信仰に子が従い、子の信頼に父が励まされていたからです。神は、そのような二人を守り続け、導き、備えられたのです(11~14節)。
私たちは、信仰者としての様々な関わりの中で、アブラハムとイサクであることを知る必要があります。このような神の試みの中あって、なお神を信頼し、神に従うことを通して、神は祝福され、勝利を与えてくださるのです(22章16~18節)。
宣教題 「試練の中での喜び」 宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 1ペトロ1章6~9節
聖書は、試練は逃れるべきものではなく、積極的に受けとめ、それを生かし、そこから希望を見つめていくことを勧めています。ペトロは、試練を経験している人たちと喜びにおいて一つとなり、喜びに支えられていることを語っています(6節、8節)。その喜びは、どこから生まれてくるのでしょうか。
1.神の栄光にあずからせていただいているから 6~7節
ペトロは、神からの生き生きとした希望、天に蓄えられている財産、準備されている救いの恵みの偉大さに圧倒されています(3~5節)。彼は、それにあずかっている喜びを人々と分かち合いたいと願っています(6節a)。
一方、ペトロは、必然としての、今しばらく間の、色々な試練という現実にも人々の目を向けさせています(6節b)。その試練は、決して不必要であり、無駄であるというものではありません。なぜなら、その試練のただ中にあって、信仰が試されることによって純粋な信仰が残こり、キリストの再臨のときに神の栄光にあずからせていただけるからです(7節)。
試練と悩みは切り離すことができません。しかし、キリストご自身が私たちの悩みを共感してくださり、私たちの傍らで支えていてくださるのです(ヘブライ4章15節)。
2. 魂の救いを受けているから 8~9節
このようにペトロは、キリストが再臨されるときに神の栄光にあずからせていただけるという救いが、いかに確かなものであるかを知っていました。さらにペトロは、キリストを直接に見ていない人々が彼と同じようにキリストの確かな救いにあずかって、キリストを愛し、キリストを信じ、歓喜していることに感動しています(8節)。それは、彼らがキリストによる全人格的な救いをいただいていたからであって、彼らの信仰の実りによるのです(9節)。
このように、試練の中にあっても、キリストに自分の全存在をゆだねることによって歓喜が生まれてきます。私たちの教会は、試練の中で、喜びに満ちあふれた力ある信仰者の群れであらせていただきましょう。
宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録25章1~27節 フィリピ1章29節
聖書は、キリスト信仰を持っていても、試練や苦しみを経験することを少しも否定していません。むしろ、そうした経験の必要と貴さを明らかにしています (フィリピ1章29節)。パウロは、その宣教活動において、神の御計画の中にあって「キリストのために苦しむ」ことを経験し、そこに自分の生きざまを見い 出していました。
1.神の恵みの深さを知ることを 1~12節、23~27節
パウロはカイサリアの慰留所に2年間監禁されていましたが、その間ユダヤの最高権力者たちの彼に対する憎しみは消えていませんでした。彼らは、なおパウ ロを違法者として訴え続けますが、誰もそれを立証できませんでした。そこで、パウロは、ローマ市民権を用いて「私は皇帝に上訴します」と発言したのでした (11節)。この道こそ、神の最高の摂理の道であり、最も安全かつ合法的な形でローマに行ける道でした。神のくすしい恵みによって、このように神の導きが なされていくのです。
その後、フェストゥス総督やアグリッパ王たちは、パウロと会見しました。前者のこの世の栄光と野心に満ちた姿と、後者の神の恵みに与って黙し毅然として いる姿とは対照的です。神の恵みによって私たちの特権となるものがあります。キリストを救い主として受け入れる信頼と、苦しみの学校によって鍛えられる試 練です。
2.復活のキリストを証しすることを 13~22節
繰り返されるパウロへの審問には、大切な真理、パウロが命を賭けた真理が証しされています。それは、「このイエスが生きている」との力強い証言であり(19節)、これこそ神の恵みの証しです。
十字架に死なれたキリストは、復活されて今も生きておられ、罪と死と滅びの中に死んでいた私たちを生かし続けていてくださいます。それによって、価値観も 人生観も変えられて、いかなる試練や苦しみを経験しても、復活の命と永遠の希望の中を歩み続けることができるのです。私たちは、神の霊に満たされて、今も 「このイエスが生きている」とパウロと共に証しし、歩み続けたいものです。