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聖なる者

聖なる者とされている(2023.9.17)

聖 書

あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされたのです。(1コリント 6章11節)

礼拝音源(31.0MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 イザヤ書60章2節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
賛  美 464 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編55編
会衆祈祷 一  同
聖  書 1コリント 6章1〜11節
使徒信条 93-4 1A 一  同
牧会祈祷 仁科共子牧師
宣  教 「聖なる者とされている」 仁科共子牧師
祈  祷
賛  美 518 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 仁科共子牧師
後  奏

宣教要旨

キリストが過越の小羊としてすでに屠られたので、そのキリストによる贖いによって神の恵みに与っている者とされている、だから古いパン種を取り除いて新しい生き方をするようにとパウロは教えました。(5章7節)
1.キリスト共に世を裁く者
キリストを信じたものは聖なる者とされており、終わりの時にキリストが世を裁かれる時、一緒にこの世を裁く者とされています。それで、教会内の争いを裁くことができるのに、それをしようとしていないことをパウロは責めています。

2.兄弟の間の争いを仲裁する者
「きょうだいたち」とパウロが言っている教会のクリスチャンたちの間に争いがあることを指摘します。それは大きな争いではなく、日常の生活をめぐる争いでした。そのような争いを仲裁する者がいないことを責め、クリスチャンではない人たちに争いを裁かせようとしていることを嘆いています。

3.聖なる者とされ、義とされている
5章11節に述べたような不正を行う者は「神の国を受け継ぐことはできない」ことを再び取り上げます。そして、「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、・・・」と、そのような者であったが、すでに「聖なる者とされ、義とされた」と受けている恵みを確認させます。それは、「主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって」であり、人の知恵や努力によるのではありません。「洗われ」て聖められ、それによって神に「義と」認められました。聖なる者としての歩みを導いていただきましょう。

恵みにふさわしい生活(2015.3.1)

宣教題  「恵みにふさわしい生活」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章13~16節
 
これまで主の恵みを力説してきたペトロは、それを深く味わい(詩編34編9節参照)、その上にしっかりと立ち、それにふさわしい歩みをするようにと勧めています。主の恵みをひたすら待ち望むことと、聖なる者となることとは、私たちの立ち位置です。

1.ひたすら待ち望みなさい  13節
 信仰者は、終わりの時の大いなる救いの完成を(5~9節)、いささかも疑わずにひたすら待ち望んでいます。その望みの根拠は、キリストの十字架と復活に現された過去にあります(21節)。
 この望みが、日々の信仰の歩みにおいて生き生きと現されるために、「いつでも心を引き締め、身を慎んで」いることが求められます。このように語るペトロは、自分を制することのできなかった苦い経験を思い起こしたことでしょう(ルカ22章54~62節)。私たちは、望みの根拠であるキリストの救いを疑わせたり、曖昧にさせたり、またその恵みの豊さを見失わせたり、その恵みに正しく応答することを鈍らせたりすることのないように、ひたすらに恵みの主キリストに望みを置き続けることが大切なのです。

2.聖なる者となりなさい  14~16節
 信仰者は、救いの恵みに与って「聖なる者」とされたのですから、これまでの自分勝手な思いや生き方でなく、「聖なる者」であり続けることが求められます。聖なる者とは、恵みによって神のものとされたことであり、その在り方や生き方の「生活のすべての面で」神のものとして生きる者なのです。
 そのためには、恵みに対し「無知であったころの欲望」に支配されるのではなく、聖なるキリストに倣って「従順な子」として形づくられていくことが大切です。その従順さは、神の御心が最上、最善、最高のものとして受け入れる在り方また生き方となって現れます。私たちは、従順な子として御言葉に聴き従い続けることによって、聖なる者とされたことを軽んじない歩みをしていくのです。

いよいよ聖なる者と(2009.2.8)

題   : 「いよいよ聖なる者と」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネの黙示録 22章8節~11節
世界の動きが人々の不安をかき立てていますが、私たちはその延長線上に、キリストの再臨があることを知っています。そして聖書は、その時に備えて、目を覚ましているようにと勧めています。
ヨハネの黙示録においては、「聖なる者は、なお聖なる者とならせよ」と励ましに満ちた御言葉を語っています。

1.聖なる者とされている
「聖なる者」とは、「イエス・キリストは主である」と告白する聖徒のことであり(1コリント1章2節)、聖なる神に召され、神のものとされているキリスト者の総称です(同9節)。
「なお聖なる者」とありますが、幾つかの意味合いがあります。まず、聖なる者であることにとどまり続けなさい、ということです。「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15章4節)と言われたイエス・キリストから離れないことです。さらに、聖なる者とされた者は、その時から聖くされることに向かって前進を始めることです。
そして、「汚れた者は、なお汚れるままにしておけ」とあるように、この世はますます罪に傾き、聖なる者はいよいよ聖なる者とされるなら、その隔たりは大きくなっていくことを知ることです。

2.聖なる者であり続ける
「聖なる者とならせよ」とは、聖なる神のものとして、聖なる者とされ続けているようにということです。まず、聖なる者は、この世の汚れから離れることです(1テサロニケ4章3~4節)。そして、イエス・キリストの十字架の血によって、内も外も聖くされ続けていることです(1ヨハネ1章7節~2章1節)。
さらに、聖なる者は、聖なる者として生き続ける生活をすることです。その生活は、自分だけでなく、家庭にも、教会にも、社会にもその影響を与えていきます。その意味で、一人の生き方の力は軽視できません。一人の真実な生き方は必ず周りに影響を与え、周りを変えていくのです。
主の再臨を待望する者として、聖なる者であり続け、生き続ける者とさせていただきましょう。神ご自身が可能としてくださいます(1テサロニケ5章23~24節)。