神の祝福」タグアーカイブ

霊的な祝福(2019.5.12)

宣教題 「霊的な祝福」       宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 エフェソ1章1~6節

 神は、「天のあらゆる霊的な祝福」のフルコースを用意して、それをキリストにおいて完全に与えていてくださり、聖なる者を祝福していてくださいます。キリストにおいて「霊的な祝福」が与えられているとは、どういうことなのでしょうか。

1.神をほめたたえるものとされる  3節
 エフェソの信徒への手紙が語りかけるキリスト者の信仰のあり方と生き方は、今日の私たち一人ひとりと教会で分かち合い、確信させていただくことです。
 パウロは、キリストを信じる者が、初めに何をするかを教えています。神をほめたたえることです(3節a)。それは、義務ではなく、最大の特権であり、喜びです。
 なぜ、私たちが何よりもまず神をほめたたえるのでしょうか。神は、「天のあらゆる霊的な祝福で満たして」いてくださるからです(3節b)。

2.神の選びをいただいている  4~6節
 神の霊的な祝福に満たされることができたのは、「キリストにおいて」神に選ばれたという以外に理由はありません。しかも、天地創造の前に選んでいてくださったのです(1コリント1章27~28節、ガラテヤ1章15節参照)。それは、神の前に立つ時、罪が赦され「聖なる者、汚れのない者」されるためであり、「神の子」にされるためでした。ただ、神の愛ゆえに選ばれたのです。

 このように、究極的には、神が私たちの救いに責任を負っておられのですから、私たちは神に自らを委ねる信仰に生きるのです。そして、神がキリストによって与えてくださった恵みをたたえるのです。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10.5MB)

晩年に神の祝福を(2018.9.9)

宣教題  「晩年に神の祝福を」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  フィレモン8~25節

 パウロにも「年老いて」と思う時が来ました(9節)。この手紙とパウロが死の直前に書いた「テモテへの手紙二」から、晩年のパウロの信仰と心情を学んでみましょう。そこには、キリストに結ばれた者への神の祝福があります(20節)。

1.キリストによって安息を与えられて
 パウロには、このとき置かれていた状況がもたらした孤独感がありました。それは、監禁中にあったために、狭い世界に閉じ込められた思いです。また、晩年の寂しさや悲しみがありました(2テモテ4章9節、10節、14節)。
 そのパウロが、「キリストによって、わたしの心を元気づけてください」と願っています。私たちは、パウロと同じように、神の御前にひとり立つものとされています。その時に、キリストによって(ヨハネ15章5節、2コリント5章17節)、安息をいただいていることが大切なのです(マタイ11章28節)。

2.キリストによって力づけられて
 パウロは、最後まで伝道のスピリットに満たされていました。『監禁中にもうけたわたしの子オネシモ』が与えられています(10節)。また、パウロは配慮と気遣いの人でした。彼は、生まれ変わったオネシモを「役立つ者」(10節)、「愛する兄弟」(16節)、「わたしの心である」(12節)と推薦し、信頼するフィレモンがオネシモを受け入れてくれるように期待しています(17節)。このような魂への配慮ができるのは、キリストによって力づけられていたからです。
大切なことは、誰もが「年老いて」という言葉の後に、どういう言葉が続く生き方をするかということです。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(10.3MB)

祝福としての沈黙(2012.1.22)

宣教題  : 「祝福としての沈黙」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  1章5節~25節

バプテスマのヨハネの誕生は、喜びの知らせでした(14節、19節)。後に彼が、主イエスに先立って罪の悔い改めを迫り、人々を主の救いに巻き込んでいったからです(15~17節)。神は、ザカリアがこのことを受け入れられるようになるために、口が利けなくさせられました(20節)。この沈黙は祝福となりました。

1.神の御言葉を聴く祝福
ザカリアは、老夫婦に子どもが与えられるという思いがけない知らせを受けましたが、その事実を受け入れることができない不信仰に陥りました(18節)。すると、ザカリアは、ものが言えなくなり、ヨハネが生まれるまで約10カ月の間、何が起こったかを誰にも語ることができなくなったのです(19~22節)。ところが、口が開かれるや神を讃えています(64節、68節)。彼にとっては、その一生にまたとない、沈黙の時だったのです(詩編62編1節)。
主イエスは、いかなる時も静かに父なる神の御心を聴き、それを成し遂げようとされました。とりわけ、十字架のご受難に際しては沈黙されています(1ペトロ2章22~25節)。私たちは、神の御言葉を聴くために沈黙し、神の御言葉を聴きつつ祈ることが大切なのです。

2.神の再創造にあずかる祝福
神は、ザカリアの不信仰を審こうとされたのではありません。この沈黙の間は、神の力が彼ら夫婦に働いています。彼らが事の次第を語ったのではなく、エリサベトが身ごもった事実が事の次第を明らかにしました(23~25節)。このようにして、彼ら夫婦は、神のご計画を受け入れることのできる者に変えられていったのです。
私たちは、信仰を持ちつつ、個々の問題や課題に対して疑いを抱き、信じ抜くことにおいて揺れ動きやすいものです。そうした時、主イエスが私たちの生活と人生の中に入り込んできてくださり、心を神に向けさせ、信仰による再創造の御業を成してくださいます(詩編62編8~9節)。
神は、決して沈黙の時を無駄に用いられるお方ではないのです。

世界への祝福となる民(2011.8.21)

宣教題  : 「世界への祝福となる民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 創世記  12章1節~3節
アブラハムに対する「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という主のことばこそが福音である、とパウロは語っている(ガラテヤ3:8)。信仰によってアブラハムの子孫とされた私たちにもこの福音を宣教する使命が与えられている。

1.神の祝福
アブラムに与えられた使命は「祝福となる」こと(創世記12:2)、つまり彼を通して世界の諸国民が神の祝福をいただく事である(12:3)。この神の祝福は、天地創造の初めに神が世界中を満たす被造物へと与えられたいのちの祝福を指す(1:28)。人はそれを自分たちの力で獲得しようとするが(バベルの塔)、神は造られたものすべてにこの祝福を与えようと願っておられる。神の祝福は賜物である。

2.すべての国民
神はすべての民(異邦人)がこの祝福を経験することを願っている(12:3)。一部の人だけ(たとえばイスラエルの民)に閉じられてはおらず、ノアの子孫として世界中に散り、広がっていった(10章)「地上の氏族すべて」がその対象である。すべての国民と出会うためにアブラムはカナンの地へと出ていったことを忘れてはいけない。まわりにクリスチャンがいないことは嘆くべき事ではない。祝福が「すべての国民」に与えられるチャンスを生み出す場にあなたは置かれている。

3.あなたによって
アブラムは他者のために選ばれた。聖書における選びとは、神の祝福が広がるという宣教を目的としている。だからこそ、選ばれたアブラムにとって、「離れ、行きなさい」(12:1)という主の命令に対する積極的な応答、歓びに満ちた従順が大切となってくる。主が私たちに求めておられるのも、主への従順である。主の招きに従って、安住の地から一歩進み、人々と関わることによって、祝福とならせていただきたい。

実を結ぶ若木(2010.11.14)

題   : 「実を結ぶ若木」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記   49章22節~26節
ヤコブは、その臨終に際してヨセフに祝福の言葉を述べています。ヨセフの生涯は波瀾万丈に満ちていましたが、神への信仰によって「実を結ぶ若木」となって祝福されたのです。

1.いのちを得させる神によって
幼かったヨセフは、父ヤコブと伯父ラバンとの不仲な関係を知ったことによる不安(創世記31章)、ヤコブと神との格闘やエサウとの和解を通して知った強烈な印象(同32~33章)、兄たちが報復の殺害をしたことによる恐れ(同34章)、ヤコブの一夫多妻がもたらした家庭悲劇などを経験して心を痛めたことでしょう。さらに、若い時のヨセフが、兄たちの妬みによってエジプトに奴隷として売られるという悲惨な経験をしました(同37章)。
そんなヨセフが、「泉のほとりの実を結ぶ若木」となったのです(詩編1編3節)。それはちょうど、神のいのちのない世界に生きていた者が、恵みによって神の世界に移されて、神のいのちに生きる者となったことを意味しています。それは、ただ信仰によって受け取るものなのです。

2.共に歩まれる神によって
ヨセフは、「主が共におられたので」幸運な人となり、人からの信用も勝ち取りました。また、誘惑に際しても勝利し、言われなき訴えにも主の支えがありました(創世記39章)。境遇は変わっても、ヨセフと共におられた神は変わらないお方です。続いての失望と孤独の中で信仰が萎える時にも、神に励まされて神に祈ることは衰えませんでした(同40章、イザヤ62章6節)。
ヨセフは、エジプトの責任者となった時も、永遠に変わらない全能の神の前を歩み、自らも他者もすべて神の御手にあることを覚えて、人を恨まず、さばかず、常に神から与えられた立場と使命に生きたのです。主が共に歩んでくださってこそ、「その枝は石垣を超えて伸びる」生涯となるのです。

神の祝福に与かる(2009.11.8)

題   : 「神の祝福に与かる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 27章18節~29節

イサクの生涯の最大の出来事は、モリヤの事件でもなければ結婚のことでもありません。彼が信仰によって二人の子を祝福したことです(ヘブライ11章20節)。今日の私たちは、イエス・キリストの救いの恵みを体験した者として、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の愛と、聖霊の交わりの確かな祝福に与かっています。

1.霊的な祝福である
イサク家の家族画を見ていくと、夫婦・親子・子どもたちは、神の御心に適わないことをしました(25~27章)。アブラハムが神から与えられた祝福は、その子イサクに受け継がれましたが(26章2~5節)、イサクは自分の身を守るために妻リベカを犠牲にしようとする失敗がありました(同6~11節)。彼らの間に与えられた双子のエサウとヤコブには、神の祝福を奪い合うということが起こりました。兄のエサウが長子の権利を弟ヤコブに譲り渡したことを皮切りに(25章27~34節)、ヤコブは母リベカの欺きの手段を用いた策略によって、イサクから神の祝福に与かりました(27章1~29節)。
ともかくヤコブは、神の祝福に与かりたいとの切なる願望がありました。それに対して、イサクは「どうか神が」(27章28~29節)と、神からの霊的な祝福をヤコブに受け継がせたのです。

2.永遠に至る祝福である
神の祝福は、単なる一時的なこの世にある間だけのものではなく、「将来のこと」も含む永遠に至る祝福でした。この祝福が本当に分かると、私たちの人生の用い方、価値判断の基準が変わってきます。
このことは、私たちにとって大いなる福音です。神は、どんなに陰険で罪深く、失敗の多い者であっても、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、それを赦し、きよめてくださり、神の祝福に与からせてくださるからです。
私たちが知ってほしいと願うものは、イエス・キリストの救いに現わされた神の愛であり、受け継いでほしいと願うものは、その神の祝福に与かる信仰です。

受け継がれる祝福(2009.8.16)

題   : 「受け継がれる祝福」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 26章15節~25節
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3章6節)と表現されていることは、神と人との関わりは代々続いていくことを証言しています。神の祝福は一代限りではなく、引き継がれ、受け継がれていくものなのです。

1.神の祝福は受け継がれていく
イサクは、敵意に囲まれた危険な地で神の祝福を受けましたが、その地のぺリシテ人に妬まれ、迫害されました(12~16節)。柔和で謙遜なイサクは、彼らと争うことをしないで、父アブラハムの時代に掘られた井戸を掘り返しては手放すことを繰り返しました(17~21節)。そして、平安が支配する広い場所を得ることとなったのです(22節)。
このようにイサクは、与えつつ獲得し、退きつつ前進していったのです。柔和は報われ、謙遜は価値あることを教えています。
そのイサクが、最終的に行き着いた地は「ベエル・シェバ」でした。その地は、父アブラハムが神に守られたことを感謝して礼拝を献げた意義深い場所でした(21章25~34節)。イサクは、感謝を込めてその地に上り、臨在の主と出会いました。そして、父アブラハムのゆえに、神の祝福を受け継いだのです(23~24節)。

2.神の祝福は機械的に受け継ぐのではない
イサクは、礼拝を献げ、家庭と生活を整えて、受け継いだ神の祝福を自分のものにしていきます(25節)。
ところで、父アブラハムの死後塞がれていた井戸が、イサクによって再び掘られていきました。それらの井戸の地下水の水脈は、変わらずに流れていたからです。同じように、私たちが受け継ぐ神の祝福は、塞がれたままにしておいてはいけないのです。自らの信仰と祈りで掘り起こし、自分の手で開拓し、新しい意味づけをしていくことが必要です(33節)。
私たち一人ひとりは、アブラハムであり、またイサクでもあります。そのためには、自分の信仰に目覚め、自分の信仰の手を差し伸ばして、神の救いと祝福を受け継いでいくことが求められているのです。

祝福の庭(2008.2.17)

題   : 「祝福の庭」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 35章1節~10節
預言者イザヤは、前章で神に従わない者に対する徹底した神のさばきを語っていますが、一転本章では、神に従う者に対する祝福のすばらしさを語っています。
先の章では、悲しみと苦しみうめきが聞こえるような悲惨さが描かれていますが、ここでは、はじめから美しい花が咲き乱れる祝福一杯の庭を見せられるようです。

1.砂漠に花が咲く
神から離れ、潤いのない砂漠のような心にも神様の恵みと哀れみが戻ってくる時、まるで砂漠に花が咲くように、乾いた土地に雨が降り植物が一斉に芽を出し花を咲かせるように神様を喜びたたえるのです。
ここにある「野ばらの花」とは、口語訳聖書ではサフランとなっています。別名「秋咲きのクロッカス」とも呼ばれ、一般的にクロッカスは春に咲き、白、黄色、ピンク、青など様々な色を持ちますが、サフランは秋に咲く花で、青紫が多いようです。この花からすばらしい香料も採取でき、多くの人々に愛されていました。
砂漠のような荒れた土地から、葉より先に花を咲かせるサフランは神様の恵みをあらわすようです。

2.雄々しくあれ
様々な困難が次々と襲い、不安や恐れをもっていた人々に、人間の常識や力ではなく神様の祝福が働かれると、病のいやしも起こり、神様の奇跡的な働きが展開されます。
日本の歴史の中でも、ながい、ながい鎖国の時代にはクリスチャンはものすごい迫害がありました。しかし、江戸時代が終わり、自由な国家が誕生した時、冬が終わると、一番に咲くクロッカス(春サフラン)のように見事に花が咲いたのです。

3.祝福の庭に帰る
神様の裁きの業が終了すると、そこには大きな道が設けられます。この道は神の都に通じていて、主に贖われ、聖なる者とされた人だけが通ることができるので「聖なる道」と呼ばれています。
わたしたちは本来そこに入ることのできない者でしたが、イエス様の十字架と復活の贖いによって神の子供として、帰って来ることを許されているのです。