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永遠の命に生きる道(2019.5.5)

宣教題 「永遠の命に生きる道」    宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ18章18~23節

ここに、金持ちの議員と主イエスとの出会いが語られています。そこでは、突っ込んだ話し合いがなされたのですが、結果この人は「悲しみながら立ち去った」のでした。ここから、「永遠の命を受け継」いで永遠の命に生きるとは、どういう信仰の歩みなのかを教えられます。

1.何をすれば 
 金持ちの議員は、神の掟を守っているということに満足し、この世の冨に依存していました。そんな彼が、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができる」のかと主イエスに尋ねました。
彼は、永遠の命を受け継いで、神の国に入ることができるとの確信がなかったのです(18章17節)。そのために、不安がありました。さらに、正しい生活を生きているという自負を抱いていましたが、死に打ち勝つ確信を持つことができなかったのです。

2.何であれば 
 金持ちの議員が「何をすれば」と尋ねたことに対して、主イエスは、永遠の命を受け継いでいないのは、何かが足りないからであると切り込まれました(22節)。それに対して彼は、主イエスのところに来たにもかかわらず、主イエスに背を向けてしまったのです(23節)。

 この話しに先立って、主イエスと出会った子供がいます(15~17節)。そこには、神の恵みの力に全てを明け渡している者の姿があります。ここでは、永遠の命に生きる道は、「何をしたら」ではなく、「何であれば」よいのかを明らかにされたのです。永遠の命を受け継ぐには、ただ主イエスを受け入れるのみです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(11.2MB)

渇くことのない水とは(2012.10.4)

宣教題  : 「渇くことのない水とは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 4章7~19節
肉体の渇きや心の渇きのいやしは、繰り返しなされます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とは、繰り返すことがないものです。これは、イエス・キリストとの関わりを通して受け取らせていただくのです。

1.キリストに出会う
キリストは、サマリアの女が水を汲みに来た際に声をかけられ、一杯の水を所望されました。「水を飲ませてください」と、水を受け取ることから始まる出会いを求められています。そこでキリストは、水を飲む器を共有することを何の妨げとも思われないで、彼女との人格と人格の交わりを求められたのです。このことをきっかけとして、キリストは、渇くことのない「永遠の命」を与えることに全力を注がれました。
キリストは、私たちにもご自身の方から出会いを求められるお方です。

2.キリストの救いに招かれている
サマリアの女は、肉体は生きていても、その魂は罪と過ちのために死んでいる状態でした。彼女が、そのままの状態を続けるとしたら、永遠の死を味わうことになります。
しかし、キリストの目には、彼女はかけがえのない存在であり、「わたしが与える水」は永遠の滅びから永遠の栄光に招き入れる救いであることを明らかにされました。
それは、キリストが十字架の身代わりの死をもって罪を全く赦し、復活されて死に勝利された救いで、人が再び神の愛のふところに帰れる道をつけてくださったのです。
これこそ、神が私たちのために打つべき手を打ち尽くしてくださった愛の御業です。

3.キリストを信じ受け入れる
キリストを信じ受け入れるとは、ちょうど人が自分で水を飲むことが必要であるように、一人ひとりが極めて個人的にすることなのです。このように、愛の神のところに身を委ねる素直さが、私たちに真の幸いをもたらすのです。
キリストを信じ受け入れて歩み出す人生は、日々に望みに満ちた新しさがあり、困難にもめげず前進する力があり、死への勝利の保証を与えられた強さがあります。キリストは、私たちに永遠の命の泉となってくださり、わき出る豊さに導いてくださいます。

喜びが満ち溢れて(2011.12.4)

宣教題  : 「喜びが満ち溢れて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一  1章1節~4節
神が人に近づかれ、その人生に介入される時、人は不安や恐れを覚えることがあります。とともに、それが大きな喜びに変わり、新たな出発となる経験をします。それは、最初のクリスマスの出来事においても見られました(ルカ2章8~11節)。本日の聖書箇所には、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と証言しています。

1.永遠の命に与かる喜び  1~2節
イエス・キリストは、天地が創造された時すでに存在しておられた永遠の神であり、永遠の命そのものであり、私たちに永遠の命を与えるために現れてくださったのです。そして、人の言葉をもってご自分の意志・考え・計画を私たちが分かるように語りかけてくださいました。
使徒たちが経験したように、私たちは、信仰の耳をもってキリストの言葉を聞き、信仰の目を開いていただいてキリストを見、信仰の手を差しのべてキリストに触れることができるのです。そうすることによって、私たちは永遠の命に与かり、魂の深みにおいてキリストによって慰めを受けるのです。そして、最初のクリスマスの出来事に出会った人々と同じように、私たちは恐れではなくて喜びに溢れるようになるのです。

2.交わりを持つ喜び
永遠の命であるイエス・キリストを証しし、伝えることが教会の使命です。そうするのは、人々が「わたしたちとの交わりを持つようになるため」なのです。罪と死は、人と人を引き離し、交わりを削ぎます。しかし、命は人と人をつなぎ、交わりをもたらします。わたしたちの人と人の交わりを支え、守るのが、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」なのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰と、それによって与えられる永遠の命を共有する交わりです。このような神との交わりに生きる人々の交わりが拡大され、強められていくのが生きた教会です。
私たちは、永遠の命に与かる者たちの交わりに加えられていることを喜びましょう。さらに私たちは、喜びが満ち溢れる交わりを与えてくださるイエス・キリストを喜びをもって証しし、伝えていきましょう。

永遠の命に生きる(2009.11.22)

題   : 「永遠の命に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章17節~31節
私たちの地上の生涯は、永遠という観点から見れば、一時のことです。この時に、私たちは、「永遠の命を受け継ぐ」こと、すなわち永遠の命を受け取って、それに生きることが何よりも大切です。

1.キリストに愛されているから  17~27節
「ある人」とは、富も地位もある青年でしたが、自分の中に何か足りないものがあることを自覚していました。彼は、誠実に、熱心に、真剣に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と主イエスに尋ねています。それに対して、主イエスは、彼が神の御言葉である戒めに完全に生きていないことを指摘され、人の努力や信心や善い行いで永遠の命を受け継ぐことができないことを教えようとされました。
私たちが「神の国に入る」との救いに与かるには、人の努力では不可能であり、全能の神による以外にありません(23~27節)。ですから、「何をすればよいのでしょうか」と問うのではなくて、何であればよいのでしょうか、と問いかけることが大切なのです。「イエスは彼を見つめ、慈しんで」と、鈍い私たちを愛し抜いておられます。この主イエスの愛の招きに応答して、その愛の懐に陥る者であることが大切なのです。

2.キリストを愛するから  28~31節
私たちが、キリストに愛されていることを体験的に知るなら、その愛に応えたいと自発的に願うようになり、永遠の命に生きる者の新しい生き方が生まれてきます。  主イエスは、「わたしのためまた福音のために・・・捨てた者はだれでも・・・百倍を受け、後の世では永遠の命を受ける」と語られました。このように、永遠の命に生きる者には、今この時に神が備えてくださる祝福があり、さらに永遠につながる祝福があるのです。
私たちは、今も注がれているキリストのまなざしを覚えながら(21節、27節)、これほどまでにキリストに愛されていることを知って、キリストを愛する者にならせていただきましょう。