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癒された人々(2020.1.19)

宣教題 「癒された人々」         宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章29~39節

 イエスと弟子の一行は、カファルナウムに着くと安息日に会堂で教え、汚れた霊を追い出した。その目的は、宣教である。(38節)

1. シモンのしゅうとめの癒し(29節~31節)
 一行は会堂で教え終わると、すぐ近くのシモン(後にペトロ)とアンデレの家に行った。そこでは、シモンのしゅうとめが熱を出して寝込んでいた。イエスをもてなすという、神の子との喜ばしい関係を、この熱は阻害していた。しゅうとめはイエスに癒されると、よろこんで一同をもてなし、神との喜ばしい関係を回復した。

2.町中の人々の癒し(32節~34節)
 日が暮れて安息日が終わると、町中の病人や悪霊に取りつかれた人々がイエスのもとに連れて来られた。人々は癒され、悪霊は追い出された。人々の目を神からそらすものは、快楽による誘惑ばかりではない。目の前の病、無知、困難は、神への信頼から遠ざけ、罪に陥れようとする。イエスは人々からそれらを取り除き、神との関係を修復しようとされた。悪霊にいうことを許されなかったのは、悪霊はイエスのことを、人々と神との関係を修復するようには伝えないからである。

3.宣教の拡大(35節~39節)
 イエスはカファルナウムから出掛けて行き、宣教する範囲を拡大された。宣教の目的は、罪を取り除き、神との喜ばしい関係を修復し、神への信頼を確立することである。イエスは祈りをもって神との関係を確立されてから出掛けられた(35節)。私たちも、祈りをもって神の前に出て、「悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)というイエスの教えに従い、神との喜ばしい関係を回復させていただこう。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(15MB)

ついて来なさい(2019.10.13)

宣教題 「ついて来なさい」      宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章16~20節

イエスは福音を宣べ伝えている地で、漁師たちに声を掛けられた。

1.主は御覧になっている 16,19節
 神である主は、弟子にする前、信仰を持つ前の漁師たちを御覧になっていた。神は全ての人を御覧になっている。そこから漏れる人は一人もいない。

2.主は招いておられる  17,20a節
 主は宣教されている地で、人を招かれた。ガリラヤからはじまった宣教は、日本の私達のところにまで来た。今や私達のいる所も宣教の地となっている。主は宣教の地で人を呼ばれ、「わたしについて来なさい。」と言って招いておられる。それに従う者には、「人間をとる漁師にしよう」と約束されている。

3.主の後について行った 18,20b節
 呼ばれた四人の漁師は、仕事を残してイエスに従った。私達もまた、主に、ついて来なさいと呼ばれている。あなたはそれを聞いて、どうされるだろうか。
 主は従うものを、人間をとる漁師にされる。人間をとる漁師となり、主の弟子となるのに必要なことは、主に従う事だけである。従う人を、主は責任をもって弟子とされる。私達は主と出会ったとき、漁がうまく行くように、天候が守られ、たくさん収穫があるようにして下さいと願う。しかしそれは、主に従うのではなく、主を従わせる事になっている。主に従うとは、私の目的を主に達成させることではなく、主の目的を私が達成することに他ならない。

 主に従った4人の漁師は、段階を経て成長し、使徒となり、イエスの目的である宣教を受け継ぎ、私達のところまで福音を届けた。今主は、あなたにどのように従うように、呼びかけられているでしょうか。

聖書朗読(0.3MG)

メッセージ(10MB)

地の果てに至るまで(2019.6.23)

宣教題 「地の果てに至るまで」      宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 使徒言行録1章6~11節

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」私たちは、信仰を持つと同時に、宣教する事が神の命令であると言われ、努力してきたのではないでしょうか。

1.聖霊が降るとき
 しかし、イエスは宣教に行く前に、する事があると言われます。それは、聖霊が降るのを待ち、聖霊によって力を受けることです。宣教には、困難が待ち受けています。それは、異教との闘いであり、文化との闘いであります。海外宣教は更に多くの困難があります。気候や病気、食べ物、言葉の壁、経済的な事、クリスチャンの仲間、命の危険、人手不足等々、上げればキリがありません。その様な中で、失敗し挫折し、自分を見失ってしまう事があります。
 聖霊が降るとき、自分が罪人であることがはっきり分り、イエスが救い主であることが分かり、自分が救われていることが分かります。それは、自分が何者であるかが分かる事です。宣教(doing)をする前に、自分が何者(being)であるかが分かっていなければ、困難にあったとき、踏みとどまる事ができません。

2.わたしの証人となる
 地の果てには、頼りになるものがあまりありません。支えになってくれる家族、友人、頼れる医者、慣れ親しんだ食事、本や漫画、教師。それらは遥か遠くにあります。遠くにありますが、それらの支えがなければ、証人としてその地に立ち続ける事はできません。使徒たちが地の果てに宣教に出て行ったとき、エルサレムでそれを支援する使徒もいました。宣教は、出て行く人と残って支える人のチームです。どちらも主の証人であり、聖霊による力でする事が必要です。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10.3MB)

この喜びを地の果てまで(2014.6.18)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ24章44~53節

キリストは、十字架に死んで3日目に復活され、その後40日目に昇天されました。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(51節)とありま す。これは、キリストが弟子たちと一緒におられた地上の生活とは異なる在り方になられて、いつでも、どこでも私たちと共にいてくださるということです(マ タイ28章20節b)。

1.それで十分なのか  50~53節
「ルカによる福音書」を締めくくる記述は、この福音書の続編とも言うべき「使徒言行録」に受け継がれています。ここには、弟子たちがキリストから祝福を受け、「大喜び」で神殿の境内で神をほめたたえていた幸いが語られています。
キリストは、「祝福しながら」共にいてくださるお方です。弟子たちは、そのキリストのご支配にあることを覚えて伏し拝みました。そして、故郷のガリラヤ ではなく、いかなる困難が待ち受けていても「大喜びでエルサレムに帰り」、いかなる時にも「神をたたえていた」のです。
ここに、キリストの福音の喜びに与かっている人々の姿があります。では、これでもう十分であり、この上何も必要ないのでしょうか。

2.なお必要を  47~49節
キリストは、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節、使徒言行録1章3~5節)と命令されています。ペンテコステの日に、聖霊が降り、聖霊に満たされる必要があったのです(使徒言行録2章1~4節)。
確かに、弟子たちは、神をほめたたえていましたが、その信仰は個人的な領域にとどまっていたものでした。神の計画は、彼らが教会を形成し、地の果てまで 福音を宣べ伝えるキリストの証人となることでした。その意味で、信仰が個人の幸せにとどまっていてはならないのです。そのためには、困難をも乗り越えさせ る聖霊の力が必要だったのです(使徒言行録1章8節)。
私たちは、救いの喜びを与えられています。しかし、ルカによる福音書で終わらずに、今もなお、使徒言行録に生きる必要があるのです。

遣わされる人(2013.9.15)

宣教題  : 「遣わされる人」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録22章6~21節
使徒言行録には、パウロの回心の経験が3回記されています。これは、パウロが自分を誇っているのではなくて、福音の出来事に巻き込まれている自分を実例として語らざるをえなかった恵みなのです。そこには、遣わされて生きる者の生き方が証しされています。

1.恵みによって変えられる 6~11節
パウロの回心の経験は、彼がキリスト者を迫害していた時に、神によってもたらされた突然の出来事でした(6節)。パウロは、復活の主が彼と問答されたことを通して、主が教会とご自身とを同一視しておられることを知りました(7~8節)。そして、パウロは、自分がこれから何をしたらよいのか、今までの自分の生き方が間違いではなかったのかと自問自答するようになったのです(10節)。
それに対して、主は、パウロがどこへ行って、何をすべきかを明らかにされました。そのために、彼の目を見えなくさせることによって、彼を弱い者とされたのです(11節)。
私たちの信仰体験は、個々に異なりますが、復活の主の恵みによって変えられるという共通の経験をさせていただけるのです。

2.恵みのもとで命じられる  12~21節
アナニアを通してパウロの目を見えるようにされた主は、彼に主の御心を悟らせ、主と会わせ、主の御言葉を聴かせることにより、復活の主の証人とされました(14~16節)。
続いて、エルサレムに帰って来たパウロは、主との交わりを通して主の導きを仰ぎました。その導きは、これまでのようにエルサレムに行くということではなくて、エルサレムから急いで出て行き、行って異邦人のために遣わされるということでした(17~21節)。彼が、この二つの板挟みから解放されるただ一つの道は、主の命令に従うことでした。それによって、彼はさらなる世界宣教へと遣わされていくこととなったのです。

私たちは、「急げ」「出て行け」「行け」と主が命じられることに従うときに、御言葉の深い意味と主の御計画が開かれていくのです。

宣教に生きる(2013.2.3)

宣教題  : 「宣教に生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章17~24節
初代教会から今日に至るまで、宣教は試練の中で前進してきました。そうした試練の中にあってパウロは、エフェソ教会の指導者たちをミレトスに呼び寄せ、決別説教をしています。そこで語られたエフェソ教会のモデルは、あらゆる教会のモデルです。今回は、パウロ自身の生きた証言をとおして、宣教に生きるとはどういうことかを明らかにします。

1.主にお仕えして 
パウロのエフェソにおける三年間の宣教は、エフェソの人々と共に、彼らの前での裏表のない模範的なものでした(18節)。その宣教は、教会内外から批判されたり、また賞賛されたりしましたが、彼はいかなる時も、喜びと感謝をもって主にお仕えしています。パウロは、自らが取るに足りない者であるとの自覚をもって、滅びゆく魂に対して、労を惜しまず、愛を尽くして、喜んで犠牲を払って主にお仕えしたのです(19節)。
これは、私たちの宣教に対する基本姿勢です。

2.主体的な信仰を抱いて
パウロは、公の場や施設で福音を語り、個人的な交わりの場にあっても福音を伝え教えました(20節)。そして、伝えた福音の内容は、主体的に神に対する悔い改めをなし、主イエスへの信仰を言い表わすことでした(21節)。このことが不明確であると、福音を伝えることに確信がもてないのです。
私たちは、主イエスの愛の迫りをいただいて救いの福音を伝えるのです。

3.聖霊に促がされて
パウロの前途には、苦難や迫害が待ち構えていました。そうした中にあっても彼は、宣教の前進のために、不退転の決意と、固い献身の意志をもっていました。そのような力は、聖霊に促がされるところから生じるものでした(22~23節)。
喜びをもって、走るべき宣教の業のコ-スを走り終えるという使命は、主なる神が私たちに与えてくださいます(24節)。それを成し遂げることができるのは、聖霊の促がしによるのです。

福音を宣べ伝える民(2012.7.29)

宣教題  : 「福音を宣べ伝える民」   宣教:   鎌野 直人協力牧師
聖    書  : イザヤ 52章7節~10節  マルコ 1章15節

すべてが順調に行っている時に福音は必要ないかもしれません。しかし、最悪としか思えない現実の直面している時、良い知らせは必要です。

1.神は王になった
歴史の中でも最悪の状況に陥っていたイスラエルが聞いたのは、「シオンよ、あなたの神は王となられた」(イザヤ52:7)という知らせでした。すべてを分裂と争いへと仕向ける存在が支配していた世界に、主が王として即位されました。勝利をとられた主を中心に据えて、世界が再編成されるのです。そして主はシオンへと帰還されます(52:8)。
主によって救いと平和が、イスラエルを奴隷から解放し、ひずみ、破れ、とげとげしくなったあらゆる関係の修復がもたらされました(52:7)。ご自身が特別に選んだ民に対して果たすべき責任であったわざを主が実行されたからです(52:9)。そして、イスラエルに主がなされたわざとそのインパクトをすべての民は目の当たりにします(52:10)。

2.福音を宣べ伝える
「神は王となった」という福音を宣べ伝える召命を私たちはいただいています。福音とは、徹頭徹尾、神のわざについての良い知らせです。イスラエルの神である主が世界の王となったのも、目で見ず、耳で聞くことができなかった民が福音を知ることができようになったのも、すべて神がなされたからです。さらに、私たちだけが福音の宣教者ではありません。様々な方法を用いて、神ご自身がこの福音を宣べ伝えておられます。主の恵みのわざのゆえに新たに造り変えられた者として、どのような状況の中にあっても喜びの賛美の声を世界中にあげることこそわたしたちがもっと励むべきことではないでしょうか(52:9)。
イエスご自身、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とこの福音を宣べ伝えました。イエスのわざを通して、神は王となり、シオンに帰り、世界は再編成されたのです。ですから、わたしたちがおかれている現実が最悪であったとしても、「神は王」です。そのことを確信しつつ、どのような中でも、喜びの讃美の声をあげましょう。神のすばらしいわざの知らせを世界は心待ちにしているのですから。

主の道を守る民(2011.10.9)

宣教題  : 「主の道を守る民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 創世記 18章16節~22節
教会の宣教のわざは、決してきれいごとですむようなものではない。教会にはソドムやゴモラのような世界に祝福を届ける使命が与えられているからだ。

1.ソドムとゴモラの現実
ソドムとゴモラは邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた(13章13節)。そして、町から天に上る公正な審判を求める叫び声は大きい(18章20節)。正義が行われず、立場の弱い人々が食い物にされていたからだ。主はそこに行かれ、現実を知り、介入される(18章21節)。ソドムとゴモラは現代日本を映している。

2.主の道を守る民
主はアブラハムを選ばれた。ソドムとゴモラと無縁ではない場所で、彼自身がソドムや他の神々の道ではなく、主の道を守るためである。さらに、彼の子孫たちも主の道を守って正義に生きるよう、彼らに命令し、教えることを主は彼に求めた(19節)。宣教のために、主への従順に生きる人々が継続して起こされ、主の道を守ることが伝統として引き継がれる必要がある。つまり、イエスの命令のすべてを守るように教えることによってイエスの弟子を養成することは、教会の宣教に必須である(マタイ28章18~19節)。

3.主の祝福を届ける
宣教のゴールは、アブラハムとその子孫たちが主に従って歩むことではなく、主が結ばれた約束、つまり世界の民の祝福の実現だ(18章19節)。そして、ソドムへの宣教を願っておられたからこそ、主はアブラハムに介入の機会を与えた(18章17節)。そして、アブラハムは大胆にソドムの民のために主ににじり寄り、主はその交渉に応じられた(18章23~32節)。
神の恵みによって選ばれた私たちは、神の宣教のわざが教会によって実現するため、主に従うよう招かれている。だから、主がソドムへ下って行かれたように(18章21節)主の道を守る者として積極的にこの地に関わっていこう。

御言葉がなくては(2011.2.13)

宣教題  : 「御言葉がなくては」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  13章4節~12節
「聖霊によって送り出された」とある力強い聖霊の働きは、神の御言葉が宣教の中心であったことを教えています(5節、7節、12節)。その結果、ひとりの人が「信仰に入った」のでした。

1.御言葉を伝える  5節
バルナバとサウロが、アンティオキア教会から遣わされた最初の地はキプロス島でした。彼らは、その島最大の都市サラミスに着くと、「ユダヤ人の諸会堂で神を告げ知らせた」のでした。
二人が語った神の御言葉とは、旧約聖書からでしたが、それを基にして、十字架に死んで復活されたイエス・キリストとその救いが伝えられたのです。宣教の業の基礎は、「御言葉をあなたがたに余すところなく伝える」(コロサイ1章25節)ことなのです。

2.御言葉を渇望する  7節
バルナバとサウロは、島の西端の都市パフォスにおいて、その地方総督セルギウス・パウルスに招かれました。彼には、魔術などでは満足できないものがあり、「神の言葉を聞こう」という強い渇望がありました。これは、人が持つ渇望の中でも、最も崇高なものと言えるでしょう。
宣教の働きは、ひとり一人にこの渇望を起こさせ、それに答えるものでなければならないのです。

3.御言葉に動かされる  12節
サウロは聖霊に満たされ、聖霊の助けをいただいて、魔術師の目が見えなくなるという不思議な業を行いました。総督は、その不思議な業を見たことがきっかけになったのですが、何よりも伝えられた神の御言葉に驚嘆して動かされ、イエス・キリストを主と信じたのでした。
御言葉こそが、人の魂を動かします(1テサロニケ1章13節)。この御言葉の宣教こそが、私たちに与えられている使命なのです。