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神の愛の奇跡(2015.12.20)

宣教題  「神の愛の奇跡」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ7章10~14節 マタイ1章21~23節

神の御子の誕生が告げられた「インマヌエル」の出来事こそが、クリスマスの奇跡であり、神の愛の奇跡です。そのことはすでに、イザヤを通して預言されていたことでした。「神は我々と共におられる」とは、どういうことなのでしょうか。
1.「神が共に」との救いが起こった  イザヤ7章14節
イザヤが預言した紀元前735年頃は、ユダの王アハズがアラムとエフライム連合と大国アッスリアとの狭間にあって危機的な状態にありました。その時イザヤは、不信仰に陥っていたユダの王と民に対して、神への信頼を持つように勧めました(7章1~9節)。続いて、神は「しるしを求めよ」と言われましたが、王は現実問題にとらわれたままでした(同10~13節)。そのような状態の王と民に対して、神自らが、一人のおとめが身ごもり男の子を産むという「しるしを与えられる」のです。それによって、「神が共におられる」ことを明らかにされ、勝利をもたらすとの約束をされたのです。
病気がなおった、敵が打ち破られた、困難に際して祈りが答えられたなども救いですが、確かな救いは、いかなる時にも「神が共におられる」という事実です。
2.罪からの救い主となられた  マタイ1章23節
イザヤの預言が成就したのは、イエス・キリストの誕生においてでした。「インマヌエル」とは、真の神と真の人が主イエスにおいて全く一つになったということであり、この主イエスによって、人が神と共にいることができる恵みが実現したのです。本来、聖なる神と罪人とが一緒にいることができないので、「罪から救う」ことを主イエスが十字架の身代わりの死を通して成し遂げてくださったことにより、人は神と共にいることができるようになったのです(マタイ1章21節)。
私たちは、インマヌエルの救いを信じ受け入れることによって、永遠の滅亡から「神は我々と共におられる」という永遠の命の中に導かれるのです(マタイ28章20節)。クリスマスは、そのような神と共にある歩みを新たに踏み出す時です。

神はわたしたちの味方(2013.6.16)

宣教題  : 「神はわたしたちの味方」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章7~16節 ローマ8章31節b
もともと神と敵対していた私たちを、神は惜しみなく愛し、イエス・キリストの十字架の死を通して和解の道を開いてくださいました(ローマ5章10節)。それゆえに、神が私たちの味方となっていてくださるのです。神が私たちの側に立っていてくださることの実例を、本日の使徒言行録の箇所に見ることができます。

1.厳かな使命に立つ中に
ここに見るパウロは、死を覚悟して使命に生きる強い姿勢があります(13節)。
パウロは、異邦人教会からエルサレム教会に感謝の献金を届けるとともに、両教会の信仰の一致が見られることを祈り願って、エルサレムに向かったのでした。パウロは、ルカたちと共に、ティルスからプトレマイス、さらにカイサリアと航海を続けました。カイサリアのフィリボの家で泊まっていた彼らの所に、あのアガポが訪れ(11章27~28節)、エルサレムでパウロが苦難を受けることを予告しました。それを聞いたルカたちは、しきりにパウロのエルサレム行きを反対したのです。
それに対してパウロは、動揺しながらも、祈り、確信し、覚悟した信仰を貫きました。その根底には、神は私たちの側に立っていてくださるとの信仰があったからです。

2.豊かな愛の交わりの中に
教会は、使命に立って進む厳かな部分と、愛の共同体としての豊かな交わりに生きる部分の両輪があり、それをしっかりと持ってこそ健全な歩みが展開されます。
パウロ一行は、プトレマイスで兄弟たちと(7節)、カイサリアのフィリボの家の者たちと(8節)、互いの交わりを深めています(ヘブライ13章1節参照)。さらに、カイサリアの弟子たちと一緒にエルサレムへ行く途中、ムナソンの家に泊まっています。そこでは、くつろぎ、やすらぎの時を過ごしたことでしょう。死という危機を分かち合う覚悟を持った彼らには、驚きとともに慰められます。このような愛に満ちた交わりを通して、神は私たちの側に立っていてくださるという恵みを体験させていただけるのです。

いま、共にいます主(2011.1.1)

宣教題  : 「いま、共にいます主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録18章9節~10節
神が聖書を通して私たちに語っておられることは、「あなたは恐れるな」、「あなたを愛している」、「あなたと共にいる」と要約できるでしょう。新年の朝に、「わたしがあなたと共にいる」と語る聖書のメッセ-ジを聴き、その恵みにあずかる年としていきましょう。

1.ここに救いがある
主イエス・キリストはいま、どこにおられるのでしょう。このお方は、私たちの救いのために、十字架に死んで復活され、その後昇天され神の右に座しておられます。神の右におられるということは、そのことによって常に私たちと共にいてくださるということです(マタイ28章20節)。
キリストが共におられるとの信仰は、それを自覚して生きることです。それは、聖書に登場する聖徒たちが、神に対して常に願い求めていたことでした。そのひとりダビデは、この世における最高の生き方を「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがない」(詩編16編8節)と言い表しています。私たちは、主の臨在が救いである(使徒言行録2章24~25節)ことを自覚した信仰の歩みをしたいものです。

2.ここに勝利がある
人は、ありもしない迷信からくる恐れ、人の顔や評価への恐れ、良心の呵責や罪からくる恐れ、死への恐れを持っています。また、教会の歩みにおいても、様々な恐れを経験します。主の臨在を自覚する歩みは、そうした恐れを乗り越えさせてくださる豊かなものです。
そのためには、常に臨在してくださる主イエス・キリストを、寝ても覚めても四六時中信頼し、いかなる時でも主を仰ぐことです。過去に対してはキリストの血潮を、現在に対しては主の不断の臨在を、将来に対しては主の約束の御言葉を信頼していくところに勝利があります。