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真に柔和であるために(2011.5.15)

宣教題  : 「真に柔和であるために」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 14章53節~65節、1ペトロ2章23節
主イエスが捕えられて裁判を受けられた場面は、主の十字架のクライマックスに至る途中の出来事です。実はこのところに、キリストの柔和さが表れています(マタイ11章28~30節参照)。

1.キリストの沈黙の御姿に   53節~61節前
最高法院での裁判は、最初から主イエスの死刑ありきのもので、多くの者たちがした偽証はことごとく崩壊していきました(55節)。この時主イエスは、終始沈黙しておられました(60節~61節前)。
主イエスは、その地上の歩みの中で沈黙された時が幾つかあります。意味のない議論に挑発された時(ヨハネ8章4~6節)、相手の信仰を試し励ます時(マタイ15章22~23節)、単なる好奇心や興味からくる求めの時(ルカ23章8~9節)、この箇所で見るように、ののしられ苦しめられた時でした。究極には、十字架上で徹底して沈黙されました(マルコ15章29~32節)。
主イエスは、相手がどのような態度であっても、愛のゆえに沈黙されました。ここに、キリストの柔和さがあります。

2.キリストの忍従の御姿に   61節後~63節
主イエスは、大祭司の問いかけに対して、ご自身が救い主であり神であることを大胆に語られました(61節後~62節)。偽証においては弁明されずに沈黙された主イエスは、ご自分の使命と身分に関しては言明されたのです。それに対する最高法院の決定を受けた人々は、主イエスに三重の侮辱を加えています(65節)。主イエスは、それに黙々と耐えられたのです。そうされたのは、
父なる神に対する信頼と、その救いの御計画に忠実であられたからです(1ペトロ2章22~24節)。ここにもキリストの柔和さがあります。
キリストの沈黙と忍従に表わされた柔和さを思う時に、私たちは自らの何であるかを知らされるとともに、あわせてキリストの柔和さをもって生きているかが問われるのです。

柔らかな心(2009.11.1)

題   : 「柔らかな心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章13節~16節
ここには、主イエスが、上から高圧的に力を及ぼすのではなく、同じレベルに立って、ご自分も同じ経験をしつつ引っ張っていかれているお姿があります。このように、主イエスは、柔和で、柔らかな心をお持ちでした。

1.広い心  13~14節
人々は、主イエスの祝福を子どもたちに受けさせたいと願って連れてきました。それに対して、偏狭な考えを持っていた弟子たちは、人々を叱りました。主イエスは、そのような弟子たちを見て憤られ、子どもたちを受け入れ、彼らを抱き上げて祝福されました。祝福しようとされる主イエスが、その祝福がさえぎられた時に、思わず憤られたのです。このように、主イエスの見方と、弟子たちの見方は違っていました。
「神の国はこのような者たちのものである」とは、小さな者、価値がないと見なされている者、また弱さ、無力、未熟さを持ち合わせている者が招かれ、受け入れられるということです。ここに、主イエスが柔らかな心、すなわち広い心を持っておられたお姿を見ます。私たちは、主イエスの祝福をさえぎって、子どもを含む多くの人を退けていないかと問いかけられています。広い心は、キリストからのものです。

2.貧しい心  15節
「子供のように」とは、子どもっぽいとか、子どものようにわがままでもよいという意味ではありません。「神の国を受け入れる人々」です。それは、「心の貧しい人々」であり(マタイ5章3節)、神のみに頼って生きる人です。すなわち、神抜きで生きていける、自分で自分の罪や死の問題を解決できると思いあがっているのではなくて、これらのことはイエス・キリストの十字架と復活の救いに頼るしかない、そこに身を置くしかないという貧しい心を持っていることです。
私たちは、子どもたちを絶えず主イエスのもとに連れてきて、祝福に与からせたいものです。そのためには、私たち自身が、主イエスの祝福の中に身を置き、謙って、ひざまずくことが大切です。この柔らかな心をもって、子どもたちのところに、家族のところに、共に生きる者のところに遣わされて行くのです。