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礼拝メッセージ

忘れるな(2011.2.20)

宣教題  : 「忘れるな」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章22節~26節
主イエスは、過越の祝いの席において、聖餐の制定をされました。これを通して、主イエスは、私たちが主ご自身とその恵みの深さを忘れずに日々を過ごすことを教えられたのです。

1.主ご自身を忘れるな
過越の食事のテ-ブルマスタ-は、家長でした。ここでは、途中から主イエスがそれをされています。「イエスはパンを取り・・・杯を取り」とあるように、明らかに「主」が備えてくださった「晩餐」でした。ですから、主イエスが「取りなさい。これはわたしの体である。・・・わたしの血である」と言われたとき、弟子たちは主イエスから受け取ったのです。
さて、パウロが「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(1コリント11章23節)と語っているように、主イエスは、聖餐の場に特別に臨在しておられるのです。ですから、今日も聖餐のパンとぶどう汁を司式者を通して受け取ることは、主イエスから受け取るとの信仰が必要なのです。そうするならば、主イエスを忘れることはないのです。

2.主の恵みを忘れるな
「これはわたしの体である」とパンを裂かれたことは、私たちのためになされたことでした(1コリント11章24節)。また、手渡された「杯から飲んだ」ぶどう汁は、私たちを罪から解き放つ完全な救いを成し遂げてくださった十字架の血潮を意味します(ヘブライ9章12節)。主イエスが、賛美と感謝の祈りを唱えて執り行われたことは、そこに救いの恵みがあるからです。
パウロが「わたしの記念として行いなさい」と二度繰り返したのは(1コリント11章24~25節)、主の救いの恵みを、主のご再臨まで忘れずに語り続けるためでした(同26節)。
このようにして私たちは、聖餐の恵みに与かる度ごとに、罪を赦し、それを祝福の転機としてくださる主イエスの恵みを受け取り続けていくのです。

御言葉がなくては(2011.2.13)

宣教題  : 「御言葉がなくては」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  13章4節~12節
「聖霊によって送り出された」とある力強い聖霊の働きは、神の御言葉が宣教の中心であったことを教えています(5節、7節、12節)。その結果、ひとりの人が「信仰に入った」のでした。

1.御言葉を伝える  5節
バルナバとサウロが、アンティオキア教会から遣わされた最初の地はキプロス島でした。彼らは、その島最大の都市サラミスに着くと、「ユダヤ人の諸会堂で神を告げ知らせた」のでした。
二人が語った神の御言葉とは、旧約聖書からでしたが、それを基にして、十字架に死んで復活されたイエス・キリストとその救いが伝えられたのです。宣教の業の基礎は、「御言葉をあなたがたに余すところなく伝える」(コロサイ1章25節)ことなのです。

2.御言葉を渇望する  7節
バルナバとサウロは、島の西端の都市パフォスにおいて、その地方総督セルギウス・パウルスに招かれました。彼には、魔術などでは満足できないものがあり、「神の言葉を聞こう」という強い渇望がありました。これは、人が持つ渇望の中でも、最も崇高なものと言えるでしょう。
宣教の働きは、ひとり一人にこの渇望を起こさせ、それに答えるものでなければならないのです。

3.御言葉に動かされる  12節
サウロは聖霊に満たされ、聖霊の助けをいただいて、魔術師の目が見えなくなるという不思議な業を行いました。総督は、その不思議な業を見たことがきっかけになったのですが、何よりも伝えられた神の御言葉に驚嘆して動かされ、イエス・キリストを主と信じたのでした。
御言葉こそが、人の魂を動かします(1テサロニケ1章13節)。この御言葉の宣教こそが、私たちに与えられている使命なのです。

御前を去らじ(2011.2.6)

宣教題  : 「御前を去らじ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章10節~21節
この箇所は、主イエスと12人の弟子が、横になって過越の祝いの食事をしている場面です。ここには、主の弟子たちが誰一人として主の御前から去っていくことがないようにとの、主の御心が明らかにされています。

1.主イエスと一緒にいるゆえに   10~17節
主イエスの一行が過越の祝いの食事をするために準備された場所は、「ニ階の広間」でした。「イエスは12人と一緒にそこへ行かれた」のでした。
この場所こそ、復活された主を信じられないでいた弟子たちが集まっていた所であり(ヨハネ20章19~23節)、主の昇天後に弟子たちが集まって祈っていた所であり(使徒言行録1章13~14節)、エルサレム教会危機の時に弟子たちが祈っていた所でした(同12章12節)。そうした度ごとに、主の弟子たちは、主の最後の晩餐の出来事を何度も繰り返し思い起こしたことでしょう。
同じように、私たちは、主イエスと一緒の教会の交わりに加えられています。どうして、一緒におられる主の御前を去ることができるでしょうか。

2.主イエスの愛にとどまり続けるゆえに  18~21節
そこは、ただ楽しい思い出だけでなく、主イエスの弟子の一人が裏切るという深い痛みを思い起こす場所でした。彼らは、そのことを主から聞かされて心を痛め、「まさかわたしのことでは」と次々に尋ねています。
しかし、彼ら以上に深い痛みを覚えられたのは主イエスであり、最後の最後までイスカリオテのユダを愛し抜かれ、その愛にとどまり続けるように招かれています(マタイ26章50節)。それに対してユダは、主の愛の外に出て行ったのでした(ヨハネ13章30節)。
私たちは、主の御心を受けとめて担おうとするよりも、自分の思いを優先させて押し通そうとすることがあります。そんな時こそ、私たちが主の愛にとどまり続け、主の御前に堅く立つことが大切なのです。

柔和な者の幸い(2011.1.30)

宣教題  : 「柔和な者の幸い」   宣教:   光田 隆代
聖    書  : マタイ  5章1節~11節
山上の説教は私たちを主と共にすがすがしい山の上に導き、平明な言葉で私たちを真理に導いてくれます。この有名な八福の教えで、今朝も新鮮な恵みを主よりいただきましょう。

1.幸いな人
聖書の神はシャローム、満月のような祝福を私たちの与えることを望まれます。その神が「ああ、なんとさいわいなのだろう」と感嘆して語られる言葉の中にこそ、真の幸福が映し出されています。この幸いを得させるお方が私たちの神です。

2.柔和な人
旧約聖書に登場するモ-セは「その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と記されています(口語訳民数記12章3節)。彼はエジプトからカナンの地へ導く道中、イスラエルの民の不信仰と不従順に何度も悩まされました。しかし彼は忍耐深くとりなした人物です。「柔和」の特徴は、現実に目に見えてくる反抗、反逆などに対して、ストレートな反応を返しません。むしろ、その相手が将来必ず回復することを望む愛の心です。つまり、相手の態度に一喜一憂したりすぐ失望したりすることのない、本当に強い心を言うようです。
今の時代人間関係を作り上げることの難しい人たちが増えてきました。言葉で自分を伝えたり、相手を理解したりすることが困難になりつつあります。教会の交わりが健全になるために、お互いの言葉の使い方、理解の仕方に成長が必要でしょう。そして互いの関係を深めるためにも「柔和」が必要ではないでしょうか。
主イエスは罪深い私たちに対してさえ諦められません。むしろ十字架と聖霊によって必ず人があるべき姿に回復されることを信じられました。それは私たち一人一人にも当てはめられています。キリストの柔和は私たちの期待すべき望みの姿です。上からの知恵が必要なこの時代に、私たちも聖霊により頼み、キリストにある柔和で、前向きなお互いの関係に成長させていただきましょう。

祝福の基となる教会(2011.1.23)

宣教題  : 「祝福の基となる教会」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 13章1節~3節
神の新たな御業が展開される時には、アブラハム以来の神の祝福が世界大に拡がっていきます(創世記12章1~4節)。パウロ一行が世界宣教に出発した際に、アンティオキア教会が共有していた恵みがありました。それを通して、神の祝福が拡がっていったのです。

1.信仰を共有する  1節
ここに、教会を構成していた指導的な人物が五人紹介されています。彼らは、人種も異なり、社会的立場も異なり、性格も賜物も異なる人々でした。
そんな彼らに共通するものは、イエス・キリストを信じる信仰によって結び合わされていたということです(2コリント5章17節)。
教会の魅力は、さまざまな壁を越えて、信仰を共有し、福音の素晴らしさと力に生きるところにあるのです。

2.礼拝を共有する  2節
人々が神を礼拝し、御言葉のメッセ-ジに聴従していく中から、聖霊が宣教の業を発案・計画され、人を宣教の道へと召し出されます。この時、宣教の業は、聖霊の業であると同時に教会全体の業となります。このことは、宣教の業に召された者にとって、どんなに大きな力、また慰めとなることでしょうか。
私たちは、礼拝を共有することによって、宣教のための資金のサポ-トをはじめ、祈りのサポ-ト、霊的なサポ-トを進めていきたいものです。

3.宣教を共有する  3節
教会の会衆は、宣教に遣わされる者と一体となって、断食し祈っています。教会全体が一つとなって、宣教者を「出発させた」のでした。これは、送り出す会衆も、送り出される宣教者も聖霊に満たされ、一体となって宣教を共有している姿です。
私たちが、キリストの救いの福音をたずさえて出発させていただくなら、様々な危険に遭遇しつつも宣教は前進していきます。教会は、主なる神の臨在の支えと導きとをいただきつつ、宣教を共有するところだからです。

美しい人生(2011.1.16)

宣教題  : 「美しい人生」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章1節~9節
主イエスは、一人の女がナルドの香油を自分の頭に注ぎかけたことを称賛して、「わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃいました(6節)。後にペトロは、この出来事を思い起こして、人々の心を引きつける美しい「立派な行い」と語っています(1ペトロ2章12節)。何が、美しい良いことだったのでしょうか 。

1.キリストの愛に捕えられている
この出来事の背景には、出エジプトという神の救いの御業を祝っている最中に、神の御子を殺害する人間の罪が現れています(1~2節、10~11節)。
この時になされた一人の女の行為は、主イエスの十字架と復活の「福音」と結びついています(9節)。これは、彼女が主イエスの十字架に現わされる愛に捕えられていることを証しするものでした。
今日の私たちは、主イエスの十字架によって現わされた神の憐れみによって、すべて赦され、受け入れられ、神のものとされ、礼拝者とされています(ロ-マ12章1節)。この神の愛に捕えられ、神にすべてを任せて、神に身を投げかける人生は、素晴らしいのです。

2.キリストの愛に応えている
ナルドの香油は、死体の葬りや礼拝における任職の油として用いられました。一人の女は、その高価な香油を一気に「イエスの頭に注ぎかけた」のでした。主イエスは、その行為に憤慨した人々に、彼女がこの時にしかできない、しかも彼女のできる限りのことをしたと弁護されました(4~8節)。
彼女のした良いことを無駄と言うのであれば、主イエスが十字架上で最後の一滴までも流された贖いの血は、世界最大の偉大な無駄と言わざるをえません。私たちは、主イエスに対してへりくだる時に、キリストの御姿と御業が見えてくるのです。
私たちは、いかなるものを、ナルドの香油として主イエスに注ぐことができるのでしょうか。一筋に、キリストの愛に捕えられ、その愛に応える者の心と存在は美しいのです。

ヨセフの骨(2011.1.9)

宣教題  : 「ヨセフの骨」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 50章22節~26節
聖書に登場する人物の多くは、信仰をもって神の深いご計画の中を歩んでいます。ヨセフに関しては、その信仰の生涯を総括して、『信仰によって・・・自分の遺骨について指示を与えました』(ヘブライ11章22節)と証言しています。これは、今日の私たちに何を語っているのでしょうか。

1.継承される信仰
ヨセフの骨は、出エジプトに際して、モ-セによって携えられていき(出エジプト13章19節)、ヨシュアによって約束の地が平定されたときに埋葬されました(ヨシュア24章32節)。これは、神の民が神の約束の地に導き入れられるまで、ヨセフの生涯を通してなされた神の御業に対する信仰の証しとメッセ-ジが彼らを導くことを明らかにしたのでした。
ヨセフの骨は、過去から現在、そして将来に受け継がれていく信仰の伝統を意味しています。私たちは、信仰の伝統から信仰のいのちを受け継ぐことが求められています。ですから、私たちは、受け継いでいる信仰の遺産を無視したり、変質させたり、無駄にしてしまうことのないようにすることが大切なのです。

2.生きた信仰
ヨセフは、波乱万丈の信仰の歩みをしました。その結果ヨセフは、出エジプトという大きな神の救いの計画につながる大切な役割を果たしたのです。
ヨセフを支えたものは、いかなる時にも主が彼と共におられたことでした(39章)。主の臨在信仰は、あらゆる不安、不公正、試練に耐える力を与えるのです。さらに、真実な神は、人の意図や画策や悪意すらもすべて最善に導かれました(45章5節、50章19~21節)。真実な神への摂理信仰は、人を神の器としてに用いるのです。
生きた信仰とは、何をしたかではなく、何を信じたか、いかに信じたか、いかに生きてその信仰を証ししたかです。生きた信仰が受け継がれていくとき、その信仰は偶像化されることはないのです。

だから、恐れるな(2011.1.2)

宣教題  : 「だから、恐れるな」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録18章5節~11節

パウロは、コリント伝道において、御言葉の宣教に専念しました。ところが、復活されたキリストは、なぜ「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と言われたのでしょうか。パウロは、多くの人々が救われた時に何を恐れたのでしょうか。そして、キリストが語られたことに対して、彼はどう応答したのでしょうか。

1.主の御言葉に立つ
パウロは、福音に対して反抗するユダヤ人に無理やり語り続けることをしないで、福音に対して心を開いている異邦人に伝えていきました(5~6節)。その結果、神をあがめる異邦人の家が用いられ、ユダヤ教会堂長一家が信仰に導かれました。それだけでなく、コリントにいた異邦人の多くが救われて洗礼を受けたのです(7~8節)。パウロは、こうしたことがユダヤ人の迫害をますます強くすることを知っていたので恐れたのです。そして、コリント教会の将来を案じて恐れたのです。
その時、キリストはパウロに、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と、励まし、命じられたのです(9~10節)。それに応えたパウロは、主の御言葉によって再び強くされて、コリント伝道をやり遂げたのでした(11節)。
要するに、私たちにとって、主の御言葉に立つかどうかが分かれ目となります。

2.主の臨在信仰に立つ
パウロと同じように、私たちは気弱になって恐れを経験すると、自分が持っているものや置かれている状況に心が奪われがちになります。しかし、そのような中から、あらゆる恵みに満ちておられるキリストを見上げるならば、このお方との深い交わりに引き戻していただけるのです。
その時私たちは、「わたしがあなたと共にいる」との主の臨在の約束を新鮮な思いで見い出させていただき、慰められ、励まされ、力づけられるのです(2テモテ4章16~18節)。
私たちは、主の臨在信仰に立ち続け、キリストが生きて働いておられることを体験的に知るものとならせていただきましょう。

いま、共にいます主(2011.1.1)

宣教題  : 「いま、共にいます主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録18章9節~10節
神が聖書を通して私たちに語っておられることは、「あなたは恐れるな」、「あなたを愛している」、「あなたと共にいる」と要約できるでしょう。新年の朝に、「わたしがあなたと共にいる」と語る聖書のメッセ-ジを聴き、その恵みにあずかる年としていきましょう。

1.ここに救いがある
主イエス・キリストはいま、どこにおられるのでしょう。このお方は、私たちの救いのために、十字架に死んで復活され、その後昇天され神の右に座しておられます。神の右におられるということは、そのことによって常に私たちと共にいてくださるということです(マタイ28章20節)。
キリストが共におられるとの信仰は、それを自覚して生きることです。それは、聖書に登場する聖徒たちが、神に対して常に願い求めていたことでした。そのひとりダビデは、この世における最高の生き方を「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがない」(詩編16編8節)と言い表しています。私たちは、主の臨在が救いである(使徒言行録2章24~25節)ことを自覚した信仰の歩みをしたいものです。

2.ここに勝利がある
人は、ありもしない迷信からくる恐れ、人の顔や評価への恐れ、良心の呵責や罪からくる恐れ、死への恐れを持っています。また、教会の歩みにおいても、様々な恐れを経験します。主の臨在を自覚する歩みは、そうした恐れを乗り越えさせてくださる豊かなものです。
そのためには、常に臨在してくださる主イエス・キリストを、寝ても覚めても四六時中信頼し、いかなる時でも主を仰ぐことです。過去に対してはキリストの血潮を、現在に対しては主の不断の臨在を、将来に対しては主の約束の御言葉を信頼していくところに勝利があります。

起きよ、光を放て(2010.12.26)

宣教題  : 「起きよ、光を放て」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : イザヤ  59章21節~60章3節
私たちは、イエス・キリストの救いの恵みに対して、いつも信仰によって応答していくことが求められています。それは、「起きよ、光を放て」と立ち上がらせていだくことであり、まことの光であるキリストをこの世に持ち運ぶ者に造り変えていただくことです。

1.光である主に引き寄せられている 
主なる神は、罪ゆえに神の恵みを受けられないでいる者に対して(59章1~2節)、執り成し、燃えるような情熱をもって、ご自身の方から救いの手を差し伸べられました(59章16~17節)。ここに、初臨のキリストが預言されています。また、全世界を支配される栄光の輝きをもって「贖う者」として来られます(59章18~20節)。ここに、再臨のキリストが預言されています(60章19~20節)。
私たちは、自ら輝くことはできませんが、主に引き寄せられ、主の栄光に照らされて輝く者となるならば(60章1~2節)、他者もその感化を受けて光なる主に引き寄せられていくのです(60章3節)。闇の中から起き上がり、主なる神の光を放つ者となりましょう。

2.御言葉の光に照らされ続けている 
主なる神は、人が持っている力によってではなく、神の霊が伴う神の御言葉の力によって、ご自身の光を放ち続けられます。そのためには、人は自らの不信仰と不従順の罪を悔い改めることが大切です(59章20~21節)。
いつの時代であっても、聖霊が働かれるところには、御言葉が語られ、それが聴かれ、その実が結ばれていきます。御言葉に聴従しているならば、そこには聖霊が働いておられるのです。
神の子とされた私たちは、御言葉の光に照らされ続けて、「起きよ、光を放て」との主なる神の招きに、信仰による応答をしていきましょう。

恵みは豊かに(2010.12.19)

宣教題  : 「恵みは豊かに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネ  1章14~18節
イエス・キリストは、人としては父なる神との親密な愛の交わりを持たれ、神であるということにおいては御父とまったく等しいお方です(14節、18節)。このお方には、「恵み」が豊かに満ちています(14節、16~17節)。そこで私たちは、この恵みに与かり続ける経験が大切です。

1.キリストの栄光を見る経験  14節
キリストは、「わたしたちの間に宿られた」のです。これは、キリストが私たちの間に住み着くようにして、私たちを神の仲間に入れてくださったことを意味しています。
その結果、「わたしたちはその栄光を見る」ことができたのです。そのことが最も鮮やかに現わされたのが、キリストが十字架において神の救いを成し遂げられたことによってであり(ヨハネ12章23~24節)、復活されて勝利されたことによってでした(同17章24節)。
私たちは、罪ゆえに神の栄光を受けられなくなっていたのですが、キリストの救いの恵みによって(ロ-マ3章23~24節)、神の仲間とされ、神を礼拝する者とされたのです。

2.恵みから恵みへと導かれる経験  16節
この恵みは、私たち皆が継続して受けていくものです。それは、「恵みの上に、更に恵みを受けた」とあるように、恵みを新たにし続けていただくことです。順境の時は順境の恵みが、逆境の時には逆境の恵みがあるように、キリストが与えてくださる恵みは、切れ目なく続き、尽きることがなく、常に生き生きと躍動していて、必要な時に大きな働きを生み出す力を持っています。
私たちはこの豊かな恵みに出会い、それを受け取り、そこに立ち続けるのです。そのためには、イエス・キリストの前に身を屈め、頭を垂れ続けていることが大切なのです。

あなたを待っておられる主(2010.12.12)

宣教題  : 「あなたを待っておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネ  1章9~13節
待降節は、救い主を待つ、再臨の主を待ち望むという時です。しかし、ここでは「待つ」ということを百八十度転換させて、イエス・キリストが私たち一人ひとりを待っておられるということに想いを馳せ、それに応えていくときとしたいものです。

1.「まことの光」に立ち返る  9節
イエス・キリストこそが、「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」お方でした。この世界は、今なお神の恵みに完全に服していませんし、多くの人が罪と死の支配にとらわれたままの暗闇の中を歩んでいます。
ですから私たちは、「まことの光」に出会い、立ち返ることが必要なのです。それは、自分が作り出した光の中を歩むことではなく、イエス・キリストが十字架の死と復活によって照らし続けてくださる「まことの光」の中を歩み続けることなのです。
私たちは、「まことの光」であるイエス・キリストを目の前に見ているか、それとも背を向けて暗闇の影を見ているかを問いかけられているのです。

2.神の子とされる  12節
イエス・キリストは、「神の子となる資格を与え」ようと私たちを招いておられます。神の子とされるのは、人間の血筋によってでもなく、人間の努力によってでもなく、また人間の願望によってでもなく、ただ「神によって生まれた」との神の一方的な恵みによるのですから、神が最後まで責任をもって導いてくださいます(13節)。
私たちがそれに与るには、イエス・キリストご自身と、このお方が語られた御言葉と御業を信じ、それを自らにあてはめて受け入れることが必要です。そして、私たちが安んじてイエス・キリストに身を任せていくなら、神の子としての歩みを確かなものにしてくださるのです。

光はここに(2010.12.5)

宣教題  : 「光はここに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネ  1章1~8節
クリスマスの出来事が羊飼いたちに告げ知らされたのは、「夜」の出来事でした(ルカ2章8節)。今日の世界に「夜」があり、私たち自身に「夜」があります。しかしその夜の真っただ中に神の恵みの「光」が訪れました。それがクリスマスです。

1.光は暗闇の中で輝いている  1~5節
永遠の命の光であるキリストは、この世界の「暗闇」のただ中に訪れられました。暗闇は、神抜きの人生が生み出す人間の憎悪・恐れ・無関心などの姿であり、神から離れた人間の罪ある姿であり、死の恐れに支配されている姿を現しています。
こうした暗闇は、光であるキリストを理解できず、受け入れることができませんでした。この暗闇がキリストを十字架に追いやったのですが、その死からの復活によってキリストは勝利されたのです。
光であるキリストは、暗闇がどんなに深くても、輝き照らすことを止められません。「光は暗闇の中に輝いている」のです。

2.光は証しされる  6~8節
ここに、光であるキリストを証しするバプテスマのヨハネが登場します。彼は、歴史の舞台に神の目的のもとに、神から遣わされた人でした。彼は、光であるキリストによって自分の身の上に起こった出来事を証しするために、光の中を生かしてくださるキリストを証しするために遣わされたのでした。
ところで、バプテスマのヨハネは、自分が「声」であることを知っていました。声は、ある内容を伝えた瞬間消えていきます(1章15節、23節)。彼は、そのようなキリストの証人として用いられることを喜んでいるのです(3章29~30節)。私たちは、自らの存在や言動を通して、光なるキリストとその救いの恵みが見えてくる証人とならせていただきましょう。

実を結ぶ若木(2010.11.14)

題   : 「実を結ぶ若木」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記   49章22節~26節
ヤコブは、その臨終に際してヨセフに祝福の言葉を述べています。ヨセフの生涯は波瀾万丈に満ちていましたが、神への信仰によって「実を結ぶ若木」となって祝福されたのです。

1.いのちを得させる神によって
幼かったヨセフは、父ヤコブと伯父ラバンとの不仲な関係を知ったことによる不安(創世記31章)、ヤコブと神との格闘やエサウとの和解を通して知った強烈な印象(同32~33章)、兄たちが報復の殺害をしたことによる恐れ(同34章)、ヤコブの一夫多妻がもたらした家庭悲劇などを経験して心を痛めたことでしょう。さらに、若い時のヨセフが、兄たちの妬みによってエジプトに奴隷として売られるという悲惨な経験をしました(同37章)。
そんなヨセフが、「泉のほとりの実を結ぶ若木」となったのです(詩編1編3節)。それはちょうど、神のいのちのない世界に生きていた者が、恵みによって神の世界に移されて、神のいのちに生きる者となったことを意味しています。それは、ただ信仰によって受け取るものなのです。

2.共に歩まれる神によって
ヨセフは、「主が共におられたので」幸運な人となり、人からの信用も勝ち取りました。また、誘惑に際しても勝利し、言われなき訴えにも主の支えがありました(創世記39章)。境遇は変わっても、ヨセフと共におられた神は変わらないお方です。続いての失望と孤独の中で信仰が萎える時にも、神に励まされて神に祈ることは衰えませんでした(同40章、イザヤ62章6節)。
ヨセフは、エジプトの責任者となった時も、永遠に変わらない全能の神の前を歩み、自らも他者もすべて神の御手にあることを覚えて、人を恨まず、さばかず、常に神から与えられた立場と使命に生きたのです。主が共に歩んでくださってこそ、「その枝は石垣を超えて伸びる」生涯となるのです。

祈りがあるから(2010.11.7)

題   : 「祈りがあるから」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録   12章1節~17節
ここに、死に直面した二人の使徒が登場します。その結果は、ヤコブは殉教の死を、ペトロは同じような扱いをうけながらも救出されました。この事態に対して、『教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた』と、教会は祈りをもって真正面から立ち向かいました。

1.神を制限しない「熱心」な祈り
ここで、真剣かつ熱心な祈りが神にささげられています。人が神に祈る姿は、万策尽きて、全知全能の神に助けを求める姿です。人が弱さに撤し抜いて、腹の底から創造主である神を信じ、死から復活されて共におられるキリストを信頼し、言葉に表わせないうめきをもって執り成してくださる聖霊に依りすがる時に(ロ-マ8章28節)、最も弱そうに見える人間が、最も強い者に変えられるのです。
祈っていた教会は、ペトロが奇跡的に救出されたことを知らされた時、半信半疑でした(12~17節)。そんな不完全な信仰の祈りであっても、神は教会の祈りに耳を傾けてくださり、祈り願った以上に豊かに答えてくださったのです。私たちは、神がなされることに制限をしてはならないのです。

2.教会の「一致」した祈り
ここで教会が祈っていたことは、『彼のために』とあるだけで、その具体的な祈りの内容は多様なものだったと思われます。というのも、ペトロが救出されたとの知らせを聞いた人々は、神のなさったことの素晴らしさと意外性に驚いているからです。
祈る者たちの思いや考え方は様々であっても、ひたすら「彼のために」祈ることにおいて一つであれば、神はその教会の祈りを聞いてくださるのです。どう答えられるかは、神のみこころ次第なのです。教会の一致の祈りがあるところに、主の栄光が現わされるのです(ヱフェソ3章20~21節)。