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礼拝メッセージ

一人一人を愛される主(2013.5.5)

宣教題  : 「一人一人を愛される主」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ 4章38~44節
主イエスは、何よりも一人一人を愛して、懇ろに届いてくださるお方です。その主の愛の御業は、カファルナウムにおける安息日の礼拝において(31~37節)、その日が暮れで安息日が終わる場面において(38~41節)、そして翌朝の宣教へと続いています(42~44節)。

1.日常的な事柄に関わってくださるために  38~41節
先には、大勢が集まっていた会堂での礼拝において汚れた霊に取りつかれた一人の人のいやしがなされ、ここではシモン・ペトロの家で彼の姑のいやしがなされました。人々は、会堂では言えなかったのですが、主イエスが家に来てくださったので話すことができたのでした。続いて、主イエスのもとに連れて来られた「一人一人に手を置いていやされた」のでした。
主イエスは、今も変わらず、誰に対しても一人一人に、しかも日常的な様々な出来事の一つ一つに、愛をもって関わってくださいます。これは、私たちにとって大きな慰めです。

2.必ず神の国に招き入れるために  42~44節
翌朝、主イエスは人里離れた寂しい荒野へ出て行かれて、父なる神とお会いし、その御心を求められました。そうしておられる主イエスを群衆は捜し回り、続けて多くの人々の病をいやしていただくことを求めました。父なる神の御心は、病を癒すことが最終目的ではなく、人々を神の国に招き入れ、そこで生きる喜びを宣べ伝えることでした。これは、必ず成し遂げられなければならないことだったのです。
神の国に招き入れられるとは、聖霊による罪の赦しが与えられ、聖霊によって神との平和の関係が回復され、聖霊による喜びが与えられる恵みに生きることです(ローマ14章17節)。このために、主イエスは十字架と復活による救いを成し遂げてくださったのです。神の国の福音に生きる一人一人とさせていただきましょう。

触れる愛(2013.4.28)

宣教題  : 「触れる愛」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ 9章1~7節
ここに登場する「生まれつき目の見えない人」は、主イエスによって目が見えるようになりました。この男性は、主イエスの手の感触をどのような思いで味わったことでしょうか。触れることがないと愛は始まりません。主イエスが触れてくださる愛は、私たちに新しい人生を開いてくださるのです+。

1.人生の不幸と思えるただ中に
当時人々は、この男性が不幸なのは誰のせいなのかと問題にしたようです。また弟子たちは、この不幸は誰の罪によるのかと主イエスに問いただしています。この時、彼はその不幸、その惨めさを数えて、どのように生きていけばよいのかと自問したことでしょう。
因果応報という教えがありますが、それがどんなに人を苦しめ、人を不安に陥れていることでしょうか。そのような人に、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と言い切ることができるのは、主イエスのみです。私たちは、因果応報という考えが断固断ち切られたところで、生きることができるのです。

2.神の業が現れるため
この男性の目が見えないのは、誰のせいでもなく「神の業がこの人に現れるため」でした。主イエスは、彼に対する深い愛をもって、不思議な方法で目が見えるようにされました。
主イエスは、肉体の目が見えなくても見えても、一人一人の一番つらいところに愛をもって触れてくださるお方です。ですから、私たちはこの男性のように、主イエスが言われるとおりに信頼し切って踏み込んでいくことが大切なのです(7節)。そして、「主よ、信じます」と主イエスの前にひざまずくことです(35~39節)。
十字架に死んで復活され今も生きておられる主イエスは、神の業が私たちに現れる人生を開いていてくださるのです。

召され、信頼し、従う(2013.4.21)

宣教題   : 「召され、信頼し、従う」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ローマ 1章1~7節
御子に関する神の福音は、神の王国が世界に到来し、復活されたイエスがその王であると宣言している。この福音の宣教は何を私たちの上に起こすのか。

1.召命(1:7)
御子に関する福音は、イエスの復活の事実を告げているだけではない。「神の王国が到来し、イエスがその王となった。今、この王国に加わろう」と人々を神の王国へと招待する。これは、神ならぬものが支配し、罪と死の力が人々を苦しめている世界で、イエスこそ本当の王だと勇気をもって宣言する困難な選択を求める。同時に、御子をささげ、ご自身のすべてをささげるほどに私たちを愛しておられる神の招きでもある。

2.従順(1:5)
福音の招きを受けても、それを拒絶することもできる。この招きを受け入れる時、神の王国の民となり、王であるイエスの僕(1:1)となる。王であり、主人である方の声をしっかりと聞くのが僕である。そして、聞いたことばに従う。聞き、従うことを通して、福音の招きに応じた者は、イエスが王であることと神の王国の到来をその生き方を通して示す。

3.信頼(1:5)
王の声に従うのは、従わない者に与えられる罰を恐れているからではない。神が聖書の約束を忠実に守って下さったゆえに、忠実に従っていく。私たちの忠実さは、アブラハムが「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(4:18)た姿を模範とする。そして、アラム軍に囲まれたエリシャのように(列王下6:15−17)、王であるイエスに信頼し続ける。
神の福音によって召して下さる神の恵みへの応答は、信頼から生み出される従順である。そして、パウロが福音宣教へと召されたように(1:1)、召され、信頼し、従う私たちにも福音を告げ、神の招きを届ける使命が与えられている。

仰天する喜び(2013.4.7)

宣教題  : 「仰天する喜び」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ4章31~37節
ガリラヤ湖畔の西北の町「カファルナウム」は、主イエスがこよなく愛され、そこを宣教活動の根拠地とされた町でした。「ルカによる福音書4~5章」には、「権威」と「力」という二つの言葉が相重なるように出てきますが、本個所においても主イエスの権威ある御言葉が、人々を圧倒させ、仰天する喜びを与えています(32節、36節)。

1.キリストの権威
主イエスの権威ある御言葉は、恵みをもって人々を支配し、救い、生かすものでしたので、人は自発的に従っていきました。それに抵抗したのが、「汚れた霊」でした。主イエスは、権威ある御言葉をもって汚れた霊が働くことができないようにされたのです(33~35節)。
私たちは、神の恵みから遠ざかって、闇の力に束縛され、罪と汚れの虜になって、自分中心の強情で頑固な「汚れた霊」に取りつかれていた者でした。主イエスは、そのような私たちの罪を赦し(ルカ5章20~24節)、汚れをきよめ(1ヨハネ1章7節)、神の恵みのご支配に生きる者としてくださいました。主イエスは、権威ある御言葉と御業をもって、それを成し遂げられたのです。

2.人々の驚き
主イエスは、先のナザレでの宣教の後に(16~30節)、カファルナウムでの宣教をされました。ナザレでは、主イエスの口からでる恵み深い御言葉を耳にした人々が「驚いて」いますが、その後で主イエスに反発しています(22~29節)。カファルナウムでは、主イエスが語られた権威ある御言葉に「人々は皆驚き、互いに言った」と、主イエスの救いの御業と御言葉を驚きをもって受けとめています。その結果、豊かな結実がありました(35~37節)。
私たちは、主イエスの権威ある御言葉と救いの御業の前に、ひれ伏し、砕かれ、全き信頼を置くことが必要です。この信仰の経験は、救いの恵みに与かったときだけではなく、私たちの信仰生涯に繰り返される経験となり、仰天するほどの喜びとなるのです。

御子の福音(2013.4.14)

宣教題  : 「御子の福音」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ローマ 1章1~7節
福音は「神は愛である」とまとめることができる。そして、御子を通して表された神の愛(3)が福音である。

1.約束の実現(2-3)
イスラエルの王ダビデに対して、主は、彼の王国と王座は永遠に絶えることはないと約束された(サムエル下7:12-16)。一時期、途絶えてしまっていたが、神はイエスを「ダビデの子孫から生まれ」させ、神の王国を再興し、ダビデへの約束を守られた。「肉によれば」(3)の「肉」はユダヤ人を指している。だから、イエスが王としての来臨は、ユダヤ人の父祖アブラハムへの神の約束の成就をも指している。さらに、世界の最初の人アダムがもたらした罪と死という問題に対する解決の実現でもある。このようにして、御子を通して、神が旧約聖書で既に約束されていたことが実現した(2)。このようにして、神は約束を必ず守るというご自身の愛を、御子を通してこの世界に示された。

2.新しい時代の始まり(4)
イエスがまことの王であることは、「死者の中からの復活によって」(4)究極的には明らかにされる。復活のゆえに、十字架を呪いのしるしと考えるとらえ方を変えざるを得ない。神の力によってあらゆる力に勝利し、死せるイエスのからだに聖霊がいのちを与えることによって実現した復活は、罪と死に死んでいた人間が神の霊によって新しいいのちに生きることのできる、新しい時代の到来を表している。このようにして神は新しい時代をもたらすというご自身の愛を御子の復活を通してこの世界に示された。
アラムとの戦いにおいて、エリシャの召使いは敵の多くの軍隊しか目に入らなかったが、エリシャは自分たちを取り囲む神の軍勢を同時に見た(列王下6:15-17)。ともすればろくでもない知らせに溢れる世界しか見ていない私たちはあの召使いのようだ。しかし、御子の福音は、御子を通して神の愛を私たちに見せてくれている。だからこそ、御子の福音という視点から、ろくでもない、しかしすばらしいこの世界を生きたい。

人生は空しいものではない(2013.3.31)

宣教題  : 「人生は空しいものではない」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ21章1~14節
復活された主イエスは、シモン・ペトロをはじめ七人の弟子たちに御自身を現わされました。それは、彼らがティベリアス湖で漁をしていた時のことでした。彼らはそこで、どのような新しい展開をいただいたのでしょうか。

1.主イエスが御自身を現わされる
ペトロをはじめとする弟子たちが漁に行ったとき、彼らは主イエスとお出会いする以前の自分たちの仕事に仕方なく戻って行ったのでした。それは、主イエスとの関わりを失った後戻りの生き方であったと言えます。この時の彼らの心の状態は、十字架を前にしての主イエスを否んで裏切った心苦しい心境であり、もはや主イエスから忘れられていると思う空しさと失意と虚脱感を抱いたものでした。
主イエスは、このような心の状態でいる弟子たちに「御自身を現わされた」(1節、14節)のです。夜の間、彼らを見守っておられる主イエスのお姿をほうふつとさせます(3~4節)。夜が明けると、主イエスは「子たちよ」と呼びかけられて彼らとの交わりを回復させ、愛に満ちた指示をされました(5~6節)。そして、愛の配慮ある新たな交わりを造られました(9~13節)。
今も復活の主イエスは、空しい状況に明け暮れし、失意の中にあり、目標を失いかけている者に、「子たちよ」と呼びかけ、御自身との新しい交わりの中に招いていてくださいます。

2.復活の主を告白し続ける
弟子たちは、主イエスが生きておられることを告白しています(7節、12節)。これは、「我らの主、イエス・キリストを信ず」(使徒信条)と告白し続ける教会のひな型です。私たちの礼拝と信仰生活の中心には、復活された主イエスが生きておられ、いつも共にいてくださるとの信仰があるのです。
ここから、私たちの空しい生活は終わりを告げ、意味ある生きがいある人生が始まるのです。
そして、主イエスとの命の交わりに生きる喜びが生まれるのです。死んで復活され、永遠に恵みをもって支配される主イエスを目当てとして生きることが、私たちの希望です。

新しい生き方を求めて(2013.3.24)

宣教題  : 「新しい生き方を求めて」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ12章20~26節
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)とは、主イエスが十字架に架かられる前に、受難週の中で語られた御言葉です。この御言葉が、私たちの生き方にどういう意味をもっているかに注目したいと思います。

1.一粒の麦となられたキリスト
主イエスは、受難週の最初の日に、エルサレムに入城されました。その時、過越の祭りの礼拝を献げるために集まっていた人々の中に、「何人かのギリシア人」がいました。彼らは、主イエスがなされていた御業の中に救いを見ていましたので(17~18節)、主イエスの弟子たちを仲立ちとして、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(21節)と、興味深い願い事をしました。
それに対して主イエスは、十字架に架かって死なれて「一粒の麦」となる時が、御自身が神として最も著しい栄光を現わす時であると証言されたのです(23~24節)。この救いの御業を通して、多くの人たちが神の救いに与かるという多くの実を結ばれたのです。私たち一人ひとりも、その実の一人に加えられているのです。

2.一粒の麦となる私たち
最初に掲げた御言葉は、主イエスの御生涯の在り方を示しているだけでなく、主イエスの救いを受け入れ、この方の弟子となったクリスチャンの生涯の在り方でもあるのです。
私たちが一粒の麦となるとは、自分だけを愛して自己中心的生き方をするのではなくて、主イエスを愛し、神中心の生き方をすることであり、そこに永遠の命に至る歩みがあるのです(25節)。それこそが、主イエスに仕え、主イエスに従うことであり、結果として主イエスのおられるところに共にいる者になるのです。主イエスは、そのような人を大切にされます(26節)。
私たちは、「一粒の麦」となることによって他者の救いのために生きる者とされて、主のために実を結ぶことを喜びとしたいものです。

招かれる神(2013.3.17)

宣教題  : 「招かれる神」   宣教:   中沢 隆一 師
聖    書  : ガラテヤ1章1~5節
今回の新春聖会では「神の宴会への招き」と言うテーマの中で、午前の礼拝では「招かれる神」午後の聖会では「招かれる人々」と題してお話するように導かれています。
聖書は「神からの招きの書」であると言っても過言ではないと思いますが、その一番大きな究極の招きは、「神の宴会への招き」ではないでしょうか。午前には、「ガラテヤ1章1〜5節」より、その招かれる神がどのようなお方かに注目したいと思います。

☆ ご自身をわたしたちの罪のために献げて下さった神(4節)
神は罪人を招くための準備をなさいました。その準備が、その独り子をこの世に送り、十字架に死なせて救いの道を開くことでした。キリストは、ご自身を私たちの罪のために献げて下さった神です。キリストはその弟子に言われました『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』(マタイ16章24節)。

☆ イエス・キリストを死者の中から復活させた父である神(1節)
キリストは死者の中からのよみがえりによって、ご自身が神であることを証明なさいました。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神の御力が、信じる者の内に働き、罪を赦し、救い、新しく生きる命を与えます。

☆ 恵みと平和を与える神(3節)
キリストにある救いは、信じる者に与えられる神の恵みです。神からの贈り物です(エフェソ2章8~9節)。神の恵みにはいつも神の平和、神の平安が伴います。キリストは「わたしの平安を与える」と言われました。キリストの平安は世が与える平安とは異なります。

☆ わたしたちの神であり父である方(4節)
キリストを信じる者の内に「アッバ、父よ!」と呼ぶ御子の霊が与えられます。『イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです』(エフェソ1章5節)。
「この神」(5節、新改訳聖書)に栄光が!「この神」が罪人を招いておられる神です。

あなたにとって十字架は(2013.3.17)

宣教題  : 「あなたにとって十字架は」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ガラテヤ1章1~5節
「ガラテヤの信徒への手紙」が明らかにしていることは、恵みとしての十字架であり、十字架が一切の根拠であるということです。あなたにとって十字架は、「つまずき」(5章11節)、それとも「誇り」(6章14節a)、そのどちらですか。

1.キリストが負ってくださった十字架
罪なき神の独り子イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かり、呪いから贖ってくださり、代わって審かれるために御自身を献げてくださったのです(1章4節、3章13節)。このキリストの十字架によって、私たちの罪は赦され、神との和解の道が開かれ、新たに生まれ変わり、永遠の命に生きる者となったのです。
しかし、そのような救いの恵みに生きる者とされたにもかかわらず、以前と同じ過ちを繰り返してしまうという罪の心や性質が残っていることに気づかされることがあります。そのような古い私たちは、キリストと共に十字架につけられて死に、復活のキリストと共に新しい人によみがえらされ続けているとの信仰に立つのです(2章19~20節)。また、神に従おうとしない自己中心の思いも十字架につけられ、解き放っていただくのです(5章24節)。さらに、あらゆる罪悪をもたらすこの世は十字架につけられ、私たちもこの世を十字架につけてしまうのです(6章14節b)。キリストは、十字架の恵みを鮮明にして従う者に、勝利をもたらしてくださるのです。

2.私たちが負うべき十字架
このように与えられた恵みには、課題を負わせていただいているという恵みが含まれています。ところで、私たちが真に誇るべきものは、キリストの十字架を誇るということです(6章14節a)。そして、負うべき重荷を負ってこそ、十字架を誇る歩みとなるのです。
それは、誰もが負っている共通の困難や課題そして弱さといった「互いの重荷を負い」(6章2節)、その人でなくてはならない「めいめい、自分の重荷を負う」(6章5節)ことです。私たちは、そうした経験を通して、臨在の主による安らぎが与えられ(マタイ11章28~30節)、十字架を負う恵みを知るようになるのです。

主の言葉を聞く(2013.3.10)

宣教題  : 「主の言葉を聞く」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : アモス書7章7~17節
民の真ん中におられる主は、そこで何をされるのだろうか。

1.主は測られる(7:7-9)
ヤロブアム二世が王である時代(紀元前8世紀)、北王国イスラエルに遣わされた預言者アモスの見た幻の一つに、城壁が正しく組まれているかを確認する「下げ振り」を持っておられる主の姿があった(7-8)。ご自身の民の「真ん中に下げ振りを下ろす」(8)とは、イスラエルで起こっていることを主は見逃さず、彼らの状況を測っていることを示す。そして、主はそれに応じて行動をされる(9)。聖書の証しする神は、私たちから遠く離れていて、何も知らないでいる方ではない。私たちの「真ん中」にいて、そこで起こっていることを見逃されない。

2.主は語られる(7:10-17)
南王国ユダのテコアにいた、預言者という職とはなんら関わりもないアモスを主は呼び、彼を北王国の「真ん中」に送られた(14-15)。そして、アモスを通して語られる。ところが、ヤロブアムが立てた祭司アマツヤは、主が語られているとは思わなかった。むしろ、「アモスがこう言っています」(11)と預言者の戯れ言だと考え、もはやイスラエルの真ん中で語るな、とアモスに預言を禁じた(13)。アマツヤが望んでいた神は、何が起こっても沈黙される神、いつものように平穏無事だ、と語る神である。しかし、「わたしの民」とイスラエルを呼ばれる主は、彼らの「真ん中」で預言者を通して語られる。

時に主は扉を叩き、私たちが扉を開けるのを待たれる。時に主はみことばをもって突然に私たちの真ん中で語られる。私たちを「わたしの民」と覚えて下さる私たちの王であるからだ。あらゆる時に、あらゆる場所で、主のことばからチェレンジを受け、主のことばに励まされ、主のことばと格闘していきたい。主は、みことばを通していつも私たちの「真ん中」におられる。

与える恵み(2013.3.3)

宣教題  : 「与える恵み」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録20章32~38節
私たちは、主イエスの十字架の身代わりの死を通して神の愛を体験し、その愛に応えて信仰の従順と献身に生きる者とされました(1ヨハネ3章16節)。この愛に生きる者たちが、主イエスの愛を土台として、神の教会を造り上げていくのです(エフェソ4章16節)。そこでは、本日の聖書箇所が明らかにしているように、与える恵みが支配しています。

1.恵みが継承されるために  32節
神の恵みの御言葉は、私たち一人ひとりまた教会の信仰と歩みの立脚点です。パウロは、任命されたエフェソの指導者たちと教会が造り上げられていくために、彼らを「神とその恵みの言葉」にゆだね、与え切ろうとしています。この世で最も信頼できるのは、主イエスも言われたように不変の神の御言葉なのです(マタイ24章35節)。
神の恵みの御言葉が、人を救いに導き、信仰の歩みを全うさせ、教会を造り上げていきます。そのような宣教の御業が、一代限りではなく何世代にもわたって伝えられ、そして受け継がれていくために、続く人々を神の恵みの御言葉にゆだね切り、与え切っていくさわやかさが必要なのです。

2.恵みが分かち合われるために  35節
パウロは、他人のものをむさぼることなく、自分自身の生活のためだけではなくて「共にいた人々のためにも」テント造りの仕事をしながら福音を伝えました(33~34節、18章3~4節)。パウロは、立場の弱い人々や働きたくても働けない病の中にある人々たちと共に福音の恵みを分かち合い、教会が愛の共同体として造り上げられていくために、主イエスに倣って「与える」生き方を選んだのです(35節)。
そうした彼の生き方の原点は、復活の主イエスと出会って恵みに触れ、それまでのように自分の思いに仕えるのではなく、神の御思いに仕える生き方に変えられたところにありました。パウロと共におられた十字架と復活の主イエスは、今も私たちと共におられて、恵みを分かち合う生き方をさせてくださるのです。

牧者の心(2013.2.24)

宣教題  : 「牧者の心」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章25~31節
良い羊飼いである主イエスは、羊である私たちのために命を捨ててくださり(ヨハネ10章11節)、私たちを主のものとして養い導いてくださっています(詩編100編3節b)。そして、その群れを牧させるために、聖霊は人を牧者に任じて用いなさるのです(使徒言行録20章28節b)。牧者が求められることは、愛に根ざして真理を語る心を持つことです(エフェソ4章15節)。

1.愛に根ざして
エフェソの長老たちは、神によって立てられ、神に仕える牧者として召されました。長老たちだけでなく、他のエフェソ教会員もパウロも含めて神の教会に属する者はみな、神の御子の十字架の血によって贖い買い取られた一人ひとりでした。それによって彼らは、主なる神との豊かな交わりの関係に生きる者とされたのです。ここに、神の深い愛による救いと導きがあります。
従って、神の教会を牧するために召された者は、主を愛し、教会を愛し、聖徒を愛し、互いに愛し合うことに向き合い続けるのです。愛が通じないと思われる時であっても(2コリント12章15節b)、主の愛に根ざして、愛し抜くのです。牧するとは、愛し抜くことへの挑戦でもあるのです。

2.真理を 
御言葉の真理は、一人ひとりの魂を思いやる愛に根ざして語ることによって伝えられます。パウロは、その心をもって御言葉の宣教に専念しました(27節、31節)。彼は、牧者がその御言葉の宣教を継承していくために、福音信仰から外れた教えに捉われることのないよう自分自身に心を留め、聖書に集中し、語り教えていることに自らが生きているか見張るように命じ、教会の内外からの福音信仰を歪めようとする危機に際して、群れ全体に注意深く目を留め、また目を覚ましているように命じています(28節a、31節)。
牧するとは、信仰によって神のもとに立ち返った一人ひとりが御言葉に導かれ、その豊かな命に生かされ、互いに愛によって結び合わされる豊さを体現できるように働きかけることです。私たちは、互いに向き合い、互いに牧されることを願う群れとさせていただきたいものです。

あなたの神に会う備え(2013.2.17)

宣教題  : 「あなたの神に会う備え」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : アモス書 4章1~13節
「神に帰る」ことを聖書は「悔い改め」と呼んでいる。それは単に謝罪することではなく、行動を変えることだけでもない。神が世界を見られるようにこの世界を見るようになることも「神に帰る」ことには含まれている。

1.信仰は生活のあらゆる側面に関わっている
紀元前八世紀後半に北王国イスラエルへアモスは預言者として遣わされた。辛辣に預言者が民と社会を批判しているから、人々は信仰をなくしているのではないかと考えるだろう。
しかし、実際は、聖所へと人々は行き、数多くのささげものがささげていた(4-5)。そのような行動が罪を犯している、とアモスは批判している。聖所へささげものをしている王宮の関係者のライフスタイルが問題であったからだ。彼らの贅沢な生活は貧しい人の犠牲の上に成り立っていた(4-1)。礼拝に出席する、献金をする、十分に信仰的だと誤解してはならない。信仰はわたしたちのライフスタイルのすべてに行き渡る。

2.神は災いを通して語りかける
主はイスラエルに対して様々な災厄を下してきた(6-11)。それは、ある一面、罪に対する厳しい罰、下されたのろいだろう。しかし、くり返し、「お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」とある。災いは、「神に帰る」ために与えられた神の語りかけ、警告のことばである。

3.神は宇宙大のスケールの方である
アモスは4:13で、創造者であり、地の支配者、歴史の統治者である主の姿をあげ、賛美と信仰告白をしている。彼の告白する神は、生活の細かい所をチェックするような方ではない。むしろ、スケールの大きな方、私たちひとりびとりを思いつつも、大胆に世界を導かれる方である。信仰理解、神のわざの理解とともに、神ご自身がどういう方であるかの理解においても「神に帰る」ことが求められている。
神が世界を見られるようにすべてを見るという意味で「神に帰る」とき、私たちの神と会うことにむけて私たちは備えられる(12)。「悔い改め」ことこそ、最大の備えである。

神の恵みを無にしない(2013.2.10)

宣教題  : 「神の恵みを無にしない」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ4章22~30節 ガラテヤ2章21節a
ナザレの会堂にいた人々は、主イエスが語られる恵みの御言葉が気に入らないと言わんばかりに、神の恵みを無にしてしまっています。彼らは、憤慨し、主イエスを外に追い出し、ついには崖から突き落とそうとしたのです(28~29節)。なぜ、人々が、主イエスを拒否し、その救いの恵みを受け入れることができなかったのでしょうか。

1.偏見のゆえに 
人々は、主イエスをただの人としてしか捉えていません(22節b)。また、主イエスがカファルナイムでなされた奇跡をナザレでも見たいと願っています(23節)。「医者よ、自分自身を治せ」とは、主イエスが十字架に架られた時の嘲りや罵りと同じです(ルカ23章35~39節)。
こうした偏った理解また間違った思い込みは、主イエスの救いを正しく理解しようとしない偏見です。神の恵みを受け損なうことがないように!

2.ねたみと憎しみのゆえに
主イエスは、旧約の預言者エリヤとエリシャの例をあげて(25~27節)、神の救いの恵みが異邦人にまで及んだことを証ししておられます。ところが、人々は、異邦人に救いが及ぶことを受け入れることができなかったために、憤慨し、ねたみと憎しみをもって、主イエスを死に追いやろうとしました(28~29節)。
主イエスの十字架による罪の赦しの恵みを受け損なうことがないように!

3.不信仰のゆえに
「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)と語られた主イエスは、そうした人々の不信仰に驚かれました(マルコ6章4~6節)。不信仰は、主イエスに出会うのを妨げ、神の恵みを受け入れさせず、その恵みを無にしてしまいます。
信仰は、救いを成し遂げられた主イエスを心から信頼することです。私たちは、このような信頼の心をもって、主イエスに近づくのです。

宣教に生きる(2013.2.3)

宣教題  : 「宣教に生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章17~24節
初代教会から今日に至るまで、宣教は試練の中で前進してきました。そうした試練の中にあってパウロは、エフェソ教会の指導者たちをミレトスに呼び寄せ、決別説教をしています。そこで語られたエフェソ教会のモデルは、あらゆる教会のモデルです。今回は、パウロ自身の生きた証言をとおして、宣教に生きるとはどういうことかを明らかにします。

1.主にお仕えして 
パウロのエフェソにおける三年間の宣教は、エフェソの人々と共に、彼らの前での裏表のない模範的なものでした(18節)。その宣教は、教会内外から批判されたり、また賞賛されたりしましたが、彼はいかなる時も、喜びと感謝をもって主にお仕えしています。パウロは、自らが取るに足りない者であるとの自覚をもって、滅びゆく魂に対して、労を惜しまず、愛を尽くして、喜んで犠牲を払って主にお仕えしたのです(19節)。
これは、私たちの宣教に対する基本姿勢です。

2.主体的な信仰を抱いて
パウロは、公の場や施設で福音を語り、個人的な交わりの場にあっても福音を伝え教えました(20節)。そして、伝えた福音の内容は、主体的に神に対する悔い改めをなし、主イエスへの信仰を言い表わすことでした(21節)。このことが不明確であると、福音を伝えることに確信がもてないのです。
私たちは、主イエスの愛の迫りをいただいて救いの福音を伝えるのです。

3.聖霊に促がされて
パウロの前途には、苦難や迫害が待ち構えていました。そうした中にあっても彼は、宣教の前進のために、不退転の決意と、固い献身の意志をもっていました。そのような力は、聖霊に促がされるところから生じるものでした(22~23節)。
喜びをもって、走るべき宣教の業のコ-スを走り終えるという使命は、主なる神が私たちに与えてくださいます(24節)。それを成し遂げることができるのは、聖霊の促がしによるのです。