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礼拝メッセージ

クリスマスの驚き(2016.12.25)

宣教題  「クリスマスの驚き」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨハネ1章14節
クリスマスのストーリーには驚きが満ちている。マリヤに神の使いガブリエルが受胎を告知すること、ベツレヘムでの誕生、羊飼いたちに表れた神の使いたち、占星術の学者たちの登場。普通では起こらないようなことが連続して起こる。

1.言が肉になることの驚き
クリスマスの最大の驚きはなんだろうか。それは、言が肉となること(14節)、神である方が人となられた事実である。限界だらけで、何かに頼らなければ生きていけず、死が訪れる人に、限界などなく、弱ることもなく、完全な方、死ぬ事などない方がなられたのだ。神が極限まで、自ら進んで低くなられた姿に驚きを覚える。そして、この方はわたしたちの間に宿られたのだ(14節)。人には近づくことなどできないはずの方を、実際に見て、その方に触ることができるようになった。そして、私たちは神がどのような方であるか知ることができるのだ。

2.神のわざを知る驚き
神が人となって私たちの間に宿られたのは、なぜだろうか。それは、「神が人となられた」ことが生み出す大きな衝撃波がこの地上のあらゆる場所、あらゆる時代に行き渡らせるためである。事実、イエスは社会的弱者、貧者、病人のところに行き、自己欺瞞の人々に徹底的に反対し、自分を殺そうとしている人をゆるし、全世界のすべての悪をご自身の身に負い、死に、三日目に死人のなかから復活された。その生涯を通して大きな衝撃を与えた。そして、世界を変えられた。
「世界はなにも変わっていない」と思われるかもしれない。それは、あなたがイエスの生涯に表された驚きに気がつかず、そのあと、二千年間でこの世界に起こった驚きに気がつかないからだろう。この驚きに気がつかないから、あなたの人生は変わっていない。だからこそ、このクリスマスに、もう一度、その驚きに目を向けようではないか。神が人となられた驚きに気がついたあなたの人生は特別なものとなる。

神の子とするために(2016.12.18)

宣教題  「神の子とするために」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ガラテヤ4章1~7節

「時が満ちると」とは(4節)、神ご自身がご計画の中で最善と思われた歴史の一点であり、すでに旧約の時代から預言されてきた救い主の来臨の時が満ちたということです。それが、クリスマスの時であり、キリストが私たちを「神の子となさるため」(5節)に遣わされて来られたのです。

1.キリストの贖いによって
人は、被造物を神として、それらに縛られまた依存して、その奴隷となっていました。そこから解放するために、神は御子イエス・キリストを遣わされたのです(3~4節、8節)。この御子は、人とおなじように「女から」生まれなさり、罪を除いて、すべての弱さ、痛み、悲しみを人と共に背負われたのです。ここにも、私たちは神の愛を見るのです。
それだけではなく、御子は、十字架において律法の裁きを人に代わって背負ってくださったことにより、「わたしたちを神の子」としてくださったのです(5節)。この事実を自覚しつつ、信仰の歩みをすることが必要です(7節a、3章26節)。

2.父なる神への全面的な信頼をもって
神の子とされた者は、神の愛を信頼して、神と共に歩むようになります。それは、父なる神を「アッバ、父よ」と全面的な信頼を込めて呼びかける関係に生きることなのです。この恵みは、今の私たちの心にも聖霊を遣わしてくださっていることによって、同じように「アッバ、父よ」と信頼して祈ることができるのです(6節)。
しかも、神の子として「神によって立てられた相続人でも」あり(7節b)、「神の国を受け継ぐ」(5章21節)者なのです。神の子とされた者は、このことを支えとして、そこに望みを置きつつ、地上の人生を歩むのです。このように、私たちは神との交わりを親しくさせていただきつつ、神への全面的な信頼に生きるのです。

主の貧しさと私たちの豊かさ(2016.12.11)

宣教題  「主の貧しさと私たちの豊かさ」       宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  2コリント8章1~9節

クリスマスの主の誕生は「飼い葉桶の中に」(ルカ2章12節)おいてでしたが、ここに「身を無にし」(フィリピ2章6~7節)、「貧しくなられた」(2コリント8章9節)お姿が現れています。それによって、わたしたちが「豊かになるためだったのです」。これが「主イエス・キリストの恵み」です(9節、2コリント13章13節参照)。

1.キリストの貧しさ
本来、「主は豊か」なお方です。キリストこそが、万物一切の創造者、所有者、支配者であられ(ヨハネ1章3節)、愛と恵みをお持ちの神であられます(同18節)。
このお方が、「あなたがたのために貧しくなられた」のでした。すなわち、天地の主なる神の独り子が、処女の胎に宿られてこの世に生まれてくださいました。罪を他にして人が経験する同じことを経験してくださいました。地上の最後においては十字架に架けられて命を与え尽くし、すべての人の罪の身代わりになって神に捨てられてくださいました(マタイ27章46節)。キリストは、これほどまでの貧しさの極限にまで至ってくださったのです。このキリストご自身を知っているかと問われています。

2.私たちの豊かさ
このような驚くべき犠牲は、ひとえに私たち罪人のためでした。一人ひとりが自ら罪人であることを認め、その罪を悔い改めてキリストを信じるならば、罪は赦され、神の子とされ、永遠の命を与えられ、永遠の栄光にあずかるという神の豊かさをいただいた新しい歩みが始まるのです。
このキリストの恵みが本当にわかったならば、「慈善(恵み)の業においても豊かな者」とされるのです(7節)。それは、私たちの献身の表明である献金の恵みです(5節)。私たちが、キリストの恵みに富み続けるならば、その心から出る感謝と喜びをもって献金や奉仕に恵まれ続けていくのです。

キリストを着る(2016.12.4)

宣教題  「キリストを着る」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ローマ13章11~14節

クリスチャンは、キリストを信じ受け入れ、キリストに結び合わされ、キリストを着て歩む生き方をします(ガラテヤ3章27節)。このキリストを着るとは、どういう生涯なのでしょうか。

1.神の時を知る  11~12節a
待降節は、すべての最後に再臨されるキリストを待望する備えをする時です。この時は、全世界に分かるように来られます(1テサロニケ4章16節)。人は、死を迎える時、人間社会や自然界にさまざまな変化が起こる時を知っています。あわせてクリスチャンは、キリストが再臨される神の時すなわち救いが完成する時を知って、「今がどんな時であるかを知って」いるのです。
私たちは、様々な課題、問題、困難、苦難、試練に遭遇します。神の時を知る者は、それらにがんじがらめにされて、動きがとれないようになるのではなく、それらの真っただ中に身を置きながらも、神の救いの世界を仰ぎ見るのです。

2.神の御前に立つ備えをする  12節b~14節
また、神の時を知る者は、罪の支配する世界において「闇の行いを脱ぎ捨て」、信仰とその生き方において無感覚にならず、男女の在り方において恥ずかしい生き方をせず、人と争うことをしません(12節b、13節b、14節b)。そして、「光の武具を身に着け」て、この世と妥協することなく「品位をもって」正直でつつましく歩むようにします(12節b、13節a)。このようにキリストを着て生きるのが、最も安全であり、そこに本当の平安と喜びがあるのです。
そのためには、十字架に死んで復活された「主イエス・キリストを身にまといなさい」との招きに応答して、終わりの裁きの時に義とされ、神の御前に立つ者とさせていただきましょう(マタイ22章1~14節)。

あなたを待っておられる主(2016.11.27)

宣教題  「あなたを待っておられる主」       宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ2章6~7節 黙示録3章20節

天地に満ちるほどの大いなる神さまが、幼子イエスさまとして、この地上に最も低く降って来てくださいました。このように私たちに人間と同じようになられたという事実は、私たち人間を救うためであり、これがクリスマスの出来事でした。

1.なぜ、救い主を締め出してしまうのか
当時の世界の片隅で起こったイエスさまの誕生は、人類の歴史の中になされたことでした(ルカ2章1~3節)。その経緯の中で見過ごしにできないのが、「飼い葉桶」にお生まれになったという、この上なく貧しく低い場所に誕生されたことです。それに対して、人々は宿泊場所を拒否して、イエスさまを締め出してしまったのです(ルカ2章7節)。
これは、人間の心の状態を探りあてています。汚れた心であったり(マルコ7章20~23節)、イエスさまに対して無関心であったり、イエスさまより自分のことが大切であったりという心が支配していると、イエスさまを締め出してしまうのです。今、あなたの心は、どんな状態でしょうか。

2.なぜ、救い主は待っておられるのか
飼い葉桶にまで降り、十字架の死にまで低く降ってくださったイエスさまは、そんな心の状態にある一人ひとりの心の戸をノックしておられます(黙示録3章20節a)。
イエスさまは、一人ひとりがその招きの声を聞いて、閉じた心の戸を全開して「救い主」としてお迎えすることを待っておられます。そのようにお迎えするならば、イエスさまはその人の人生の「主」となられ、新たな交わりをもって生きるように導いてくださるのです(同3章20節b)。
あなたの心と人生に救い主イエスさまを迎え入れてこそ、はじめて本当のクリスマスを迎えることになるのです。

主がおられる所へ行く(2016.11.20)

宣教題  「主がおられる所へ行く」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ58章1~14節 マタイ25章40節

主が共におられることを私たちは求める。自分の祈りを主が聞き、それに応えて「共にいてくださる」と語って下さることを求める(4, 9節)。どうすればそのことが実現するのだろうか。捕囚後のエルサレムに住むユダヤ人たちは、断食によって自らを苦しめることを通してそれが実現すると考えた(5節)。ところが、主は彼らの断食を顧みず、祈りに応えてくださらなかった(3節)。

1. 断食か、社会生活か
なぜ断食を主は顧みてくださらないのだろうか。主がその人の宗教的な部分だけではなく、全生活を見ておられるからである。本当に主を尋ね求め、主を知ろうとしているのか(2節)、主は問われた。断食をしている人々の生活は、主が願っているものからはほど遠いものであったからだ。労働者を追い使い、争いをおこし、暴力を平気に用い、人々を束縛し、貧しい者にあわれみを施さず、安息日に休みをとらずに、人々をこきつかった(3, 4, 6~7, 9~10, 13節)。民の生活は、彼らと関わりを持っている諸国民の生活と変わらなかった。だからであろうか、宗教的に生きようと彼らは断食をした。しかし、神は、宗教的な自分と世に生きる自分を使い分けている者に厳しく対応された。

2. 全生活を見られる主
全生活を見直しなさい、と主は語りかけた。人々を解放し、貧者を顧み、安息日を守って、他者を休ませなさい、と命じた(6~7, 9~10, 13節)。断食をする宗教的な人であるか、ではなく、生活の現場でどう生きるか、が問われていた。自分よりも立場の弱い人々への解放と思いやりに生きるとき、そこに主が共におられて、祈りに応え、導き、満たし、いのちをあたえ、再建を果たしてくださる。そして、そのような人と共に主がおられることをまわりの人々も見るのだ。
イエスご自身もこのことをご存知だった。そして、羊と山羊の物語を語られた(マタイ25章31~46節)。自分よりも立場の弱い人々を解き放ち、思いやりを示す生きる場所にこそ、主が共におられる所であると述べられた。われらも主がおられる所へ行こうではないか。

神の言葉を聞いて(2016.11.12)

宣教題  「神の言葉を聞いて」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章27~32節

ここには、一つの主題ついて語られています。神の祝福を受けて歩む者の生涯の源となっているのは、「神の言葉」であるということです。私たちは、その神の言を聞いて、どのような信仰をもって応答していくのでしょうか。

1.服従の伴う信仰  27~28節
主イエスが語られた御言葉と成された御業の素晴らしさを讃えるある女が、主イエスを宿し、養った者の幸いを語っています。ところが主イエスは、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われました。つまり、神の言葉を心に蓄え、それがいつも生活の中心にあり、基準となっている者が幸いであることを明らかにされたのです。
それは、神の御心に生きることであり(ルカ8章21節)、御言葉に服従する者の幸いを意味しています(同1章38節)。つまり、神の言葉を聞く者が、心からの畏れと尊敬をもってそれに従い、それにふさわしく生きる幸いを教えておられるのです。私たちは、神の言葉を聞いて、それに従うか、従わないかの一点にかかっているのです。

2.心砕かれる謙虚な信仰  29~32節
当時のユダヤ人の多くは、主イエスが本物の救い主であるかどうかという「しるし」を求めました。それに対して主イエスは、ヨナの説教の言葉を聞いて悔い改めて救われたニネベ人々のことと(29~30節、32節)、ソロモンの知恵の言葉を聞きに来た南の女王のことを述べつつ(31節)、彼らよりまさる主イエスが語られる神の言葉を聞くことが最大の「しるし」であることを語られました。このことを通して主イエスは、神の言葉を心砕かれて聞き、犠牲を惜しまないで謙虚に聞くことが大切であることを教えておられるのです。
神の言葉は、心砕かれる謙虚さをもって聞かないと、私たちの心に響いてきません。魂に語りかけられる神の言葉の力強いことを経験する特権にあずかりましょう。

福音の冠(2016.11.6)

宣教題  「福音の冠」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ2章17~20節

パウロは、テサロニケの信徒たちを母親のように、また父親のように愛したと縷々語ってきました(2章1~12節)。本日の箇所では、福音がもたらす交わりの喜びがあり、そこから生み出される結実の喜びがあることを語っています。

1.福音の交わりを喜ぶ  17~18節
パウロは、顔と顔とで会いまみえる交わりに勝るものはないことを知っていました。そこで、テサロニケ教会再訪を切願するだけでなく、実行に移そうと並々ならぬ決意をしています。しかし、その神の働きは、背後で阻止しようとする巧妙なサタンの仕業によって妨げられました。
パウロは、そうした中にあって、「顔を見ないだけで、心が離れていたわけではない」と、テサロニケの信徒たちとしっかり結び合わされていたことを喜びとしています。心が結び合わされているところには、祈りがあります(コロサイ4章2~3節参照)。私たちは、祈りを通して、全世界のまだ会ったことのない人々とも豊かな交わりを持つことができるのです。

2.福音の実を喜ぶ  19~20節
限りある地上での歩みをする私たちが、再臨の主イエスの前に立った時に、何を望みとし、何を誇りとし、何を喜びとするのでしょうか。ここに、喜びに満ちたパウロの姿があります。それは、自分を通して主イエスの救いに導かれ、養われた聖徒こそが、『わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠・・・実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉であり、喜びなのです』と告白しています。つまり、主イエスの福音に与った者の満ち溢れる喜びは、誰かが主イエスの救いに至る道を選択した時に、そのお助けができた時の喜びです。
私たちは、主イエスの再臨の時に、空手で主をお迎えすることがないように、今こそ主の業に励む幸いな者とさせていただきましょう(1コリント15章58節参照)。

あなたの名を呼ぶ神(2016.10.30)

宣教題  「あなたの名を呼ぶ神」        宣教 大嶋重徳先生
聖 書  ルカ19章1~10節

1.ザアカイの的外れ
この時代に徴税人をやるということは人々から嫌われるとわかっていて、自ら選んでしていた仕事でした。なぜザアカイは徴税人という仕事をしていたのでしょうか。裕福であったが幸福ではなかったザアカイの人生は私たちの歩みと重なるものがあります。

2.イエスを見ようとして
ザアカイはこの日、「イエスがどんな人か見ようとしたが」とあり、主イエスに会って話そうとしてこの場所に来たのではありません。しかし自分から主イエスに声を掛けようとはしなかったザアカイに、主イエスから声をかけられました。

3.ザアカイ、今日あなたの家に泊まることにしてある
「ザアカイ」と、主イエスはその人個人の大切な名を呼ぶのです。主イエスとザアカイとの出会いは、大切な存在として、名前を呼び、愛の目で見つめる出会いでした。今朝も主イエスは私たちの名前を呼んでくださっているのです。

4.急いでその木から降りてきなさい
「急いで降りて来なさい」。ザアカイが登ったいちじく桑の木。そこにはザアカイと主イエスとの間に木の高さほどの距離がありました。それは自分からは主イエスに声を掛ける事はしない距離でした。そこから主イエスは「降りて来なさい」と言われたのです。今日、あなたと主イエスとの間にある距離とは何でしょうか。

5.救いがこの家に来ました
主イエスとの出会いでザアカイは、「だれかから何かだまし取っていた・・・」と自らの罪を認めました。それはザアカイを愛し、ザアカイと共にいてくださる主イエスの愛を受け取ったからでした。主イエスがザアカイを招かれた場所は、ザアカイの家でした。信仰とは自分の生きている場所から逃げ出すことではありません。自分の生きているその場所で主イエスと共に生きていくことなのです。

低いところに来られる神(2016.10.23)

宣教題  「低いところに来られる神」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ57章14~21節 フィリピ2章8節

教会に来ると「すばらしい信仰者になるように」というプレッシャーを感じる。いつも神に従順で、なにごとがあっても神に信頼し、揺れることがない人を神は祝福し、つまずきとなるものを取りのけてくださる、と考える。

1. 低くされるべき民
神が祝福される人々は思っているほど信仰的ではない。むしろ、「貪欲」(57章17節)で、「強欲で飽くことを知らない」(56章10節)人々だ。その罪のゆえに、主は怒り、その人を打ち、自らを隠す。それでも、彼らは背き続けた(57章17節)。この後、彼らは打ち砕かれ、へりくだらさざるをえない状況に追い込まれた。それでも、主は彼らを「わたしの民」(57章14節)と呼ばれている。

2. 低いところに来られる神
神は「高く、あがめられ」(57章15節)る方である。イザヤ書6章においてイザヤと出会い、預言者自身が自らの汚れたことを認めざるを得ないほどの方である。この神にふさわしい者とならねばならない、と常識は語る。ところが、この方は「打ち砕かれ、へりくだる霊の人と共に」住む(57章15節)神である。へりくだらざるを得ない者が弱り果てていることを知り、むしろ彼らを生かし、いやすために、神は低いところに来られる。砕くことではなく、「わたしの民」を造り変え、生かし、働きへと備えることがその目的だ。

3.平和の到来
神は平和の到来を語る。くちびるの汚れた者にさえ、くちびるの果実を創造される。砕かれた者をいやし、導き、回復し、平和を与える(57章19節)。ただし、神は拒み続けるかたくなささえも、許容される。
この神の姿を、高い方であったのに、十字架の死に至るまで低くなられたキリスト(ピリピ2章8節)に見出す。取税人や罪人たちのところに行き、砕かれた彼らと共に食事をされた方だ。この方を拒絶し続けた者たちもいた。しかし、低くなられたキリストを喜んで迎え入れる者を、神は信仰者と呼び、そのような者のところまで来てくださる。

もっと強いお方(2016.10.16)

宣教題  「もっと強いお方」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章14~26節

洗礼を受けるということは、救われているということです。救われた人は、どのような生き方をするか、日常生活の中でどのような具体的な姿をとるのかが問われます。この聖書箇所からは、「もっと強い者」(22節)と言われている主イエスの救いとは何かを語っています。

1.神の恵みの中に取り戻される
主イエスは、悪霊のものとされて自由を奪われ、言葉を奪われ、交わりを持つことができない状態にいた人を神の恵みによる救いの中に取り戻され、神との交わり、人との交わりを回復されました(14節)。群衆は、それが神に敵対する悪霊の頭によってなされたと思っていましたので、主イエスは、そのような内輪もめによるのでないことを指摘されたのです(15~19節)。
悪霊は罪に捕らわれている人を告発し、神から引き離そうとしますが、主イエスはそこから神のものとするために取り戻してくださるのです(20~22節、黙示録12章9~11節)。悪霊よりも「もっと強い」主イエスの十字架の血のゆえに、人を告発する悪霊の武具は通用しなくなるのです。それゆえに、神の前に不安はないのです。

2.神の側に立ち続ける
主イエスは、全能の愛の力をもって、人を救いに入れてくださいました(20節)。ですから、その救いの中に留まり続けることが大切です。すなわち、悪霊の側に立つのでなく、神の側に立ち続けていることです。そこには、中間の状態また空白の状態はないのです(24~26節)。
主イエスに結ばれて神の側に立ち続ける者は、主イエスに味方し、主イエスと一緒に集める者です(23節)。私たちは、主イエスが流してくださいました十字架の血によって主のものとされていることを喜び、主イエスと一緒に神の民を集める伝道の働きに加えられて歩むのです。

神の言葉が働く(2016.10.9)

宣教題  「神の言葉が働く」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ2章13~16節

神の福音は、それをゆだねられた人を通して語られます(2章4節)。そして、その福音は、聞いた人によって様々な受け取り方が生じます(同1~2節)。福音を聞いて受け入れたテサロニケの人々には、神の言葉が生き生きと働いていました。私たちは、語られる神の言葉に対して、どう応答したらよいのでしょうか。

1.神の言葉として受け入れる  13節b
神は、聖霊によって御言葉を与えてくださり、それを受け入れた人の内に聖霊が働きかけて信仰へと導いてくださり、励まし、慰め、力づけくださり、軌道修正してくださり、問いかけてくださり、チャレンジを与えてくださいます。何よりも、神の言葉を聞いて、イエスを救い主と信じる信仰を持たせてくださいます。これが、神の言葉として受け入れるということです。
アテネの人たちに見るように、好奇心からの求道者ではなくて(使徒言行録17章19~21節、32節)、テサロニケの人たちのように、真摯な求道者とならせていただきましょう(13節b)。そうすれば、人格的、内面的に変えられる経験するのです。

2.神の言葉として全く信頼する  13節c
テサロニケの信徒たちは、神の御思いと御心、そして神の将来の御計画をも知るようになっていきました。そして、具体的な態度や行動にも変化が見られるようになっていったのです。すなわち、主イエスとその御言葉を信じることにより、聖霊が神の言葉とともに働いて、新しく造り変えられ続けていきました。それに対して、彼らを主イエスから引き離そうとしたり、救いの恵みから落とそうとしたりするサタンの働きが激しくなっていくことを経験したのです(14~16節)。しかし、彼らは、神の言葉に信頼し続けました。
主なる神は、聖書の御言葉を通して、神の言葉を信頼する者の心のうちに働きかけ、その人をご自身の御心に従わせようとあらゆる方法をもって導かれます。

福音を生きる(2016.10.2)

宣教題  「福音を生きる」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ2章1~12節

「福音」は(2、4、8、9節)、主イエスの十字架と復活に対する信仰によって、永遠の滅びから永遠の救いへと導くものです。主イエスは、ご自身が信頼され、信任されて「福音をゆだねられている」(4節a)人を通して福音を語らせなさいます。そして、その福音を生きる人の証しを用いられます。どのように生きるのでしょう。
1.神に喜ばれることを  4節
パウロたちは、激しい苦難の中でも「神に勇気づけられ」福音を語りました(1~2節)。その動機は、「神に喜んでいただくため」ということにありました(4節b)。その結果、福音を語ることが、自分の喜びとなり、人にも喜びを与えることとなったのです。それが生活姿勢にも表れています(5節~7節、9節)。
福音を生きる者は、この動機の心をいただいているか神から吟味されるのです。
2.自分自身を分かち与えることを  8節
パウロは、福音を伝える人々をいとおしく思う母のような心をもって愛し抜きました(7節b~8節)。福音を分かち合うことは、「自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどに」というように、福音を生きることにつながるのです。
福音を語り証しする者は、主の愛をいただいて、人に対して自分自身を分かち合うことが必要なのです。
3.きよい生活によって裏打ちされていることを  10節
パウロは、父のような心をもって一人一人に権威ある指導をしました(11~12節)。しかし、それには、主イエスによってきよくされて生きるということに裏打ちされていることが大切です(10節)。それは、欠点がない者であるといっているのではなく、「非難されること」がないという点において、動機と心の願いにおいて純粋で、愛において誠実であるということです。
福音を語る者は、このように福音を生きることが必要なのです。

恵みの風を受けて(2016.9.25)

宣教題  「恵みの風を受けて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ3章1~16節

信仰の人生を帆船にたとえるならば、風は神の恵みであり、信仰はそれを受け止める帆ということになります。
ここに、夜の訪問者ニコデモと主イエスとの対話があります。主イエスはこの対話の中で、信仰の帆を張るために二つの「ねばならない」ことを語られました。

1.人は、新たに生まれなければならない  3節
ニコデモは、道徳的に正しく、指導力があり、旧約聖書に通じ、人生経験に富んでいた人物です(1節、4節、10節)。主イエスは、そのニコデモも「新たに生まれなければ」神の恵みの世界を見ることはできないことを明らかにされたのです。彼は、新たに生まれることを肉体面からしか理解できない限界がありました(4節)。
さて、人はだれでも例外なく、新たに生まれることが必要なのです。これこそが、人が神の恵みの世界に生きるための唯一絶対条件です。肉体の誕生は尊く神秘的です。それ以上に、神の恵みの世界に入れられる霊の命の誕生も尊く神秘的です。私たちは、本来の人間になるために、この二つの誕生が必要なのです。

2.イエス・キリストは上げられねばならない  14節
新たに生まれることができるのは、人の力を超えた聖霊の働きによります(5~8節)。それは、人の目には見えなくても、はっきりと体験できることです。
そのために主イエスは、イスラエルの民が不信仰に陥った際に猛毒の蛇にかまれた者は死に、上げられた青銅で作られた蛇を仰ぎ見た者は生きる者となったように(民数記21章4~9節)、罪の猛毒におかされて死ぬべき罪人に代わって、十字架に上げられた主イエスを仰ぎ見る者は救われることを明らかにされました(14~15節)。
人はだれでも、ただ十字架の主イエスを信じ仰ぐことによって新たに生まれ、神の子とされ、永遠の命を得て生きるのです(16節)。ですから私たちは、主イエスの救いの恵みを受け入れる信仰の一歩を踏み出すのみです。

あらゆる問題の根(2016.9.18)

宣教題  「あらゆる問題の根」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ56章9節~57章13節 ローマ1章23節

山積みの問題に直面すると、素早く一度に全部解決できる方法に私たちは探す。しかし現実は、問題の根が深いため、簡単に解決できる方法などない。聖書は、あらゆる問題の根は、神が造られたものを神として重んじること、すなわち偶像崇拝だと言っている(ローマ1:23)。本来あるべき位置を逸脱するならば、すばらしいものも問題を引き起こしていくのだ。

1.なすべき働きをとどめる偶像崇拝
神の義のわざである「バビロン捕囚からの帰還」をイスラエルは経験したにもかかわらず、当初思っていたような変化が起こらない。むしろ、国や社会の現状を見張るべき人が、その働きを怠っている。危険の到来を警告すべき人が、その仕事をなまけている(イザヤ56:10)。指導者たちは民を導く知恵を持たず、自分勝手に歩んでいる。誰一人として本来なすべきわざを行えないでいる。自分が得をすることだけを求め、足る事を知らないからであ(56:11)。これも一種の偶像崇拝だ。

2. 偽りの希望に生きるようにさせる偶像崇拝
偶像崇拝をしている人々もいた(57:3)。彼らは、主に対して真実に歩むことによって平和をもたらそうとしていた人をあざけった(57:1~2, 4)。偽りの神々のために自分の子どものいのちさえも犠牲とした(57:5)。「高い山」(57:7)すなわちエルサレムの神殿に上り、そこで自分が選んだ神を礼拝した(57:7~9)。驚く事に、偶像崇拝によって力を得たのだ(57:10)。しかし、いざという時、彼らが拝んでいる存在は彼らの叫びを聞く事はない。むしろ風の一息で失せてしまう(57:13)。彼らは偽りの希望に生きている。その希望は必ず失望に終わる。
あらゆる問題の根に取り組むために大切なのは、主に「身を寄せる」(避け所とする)という応答をもって、神に問題を地道に解決していただくことである。解決のための手段を自分で集めてなんとかすることをあきらめて、神にそれを集めて頂くのだ(56:8)。そのとき、私たちが義と誠実と真実をもって神に対して答えることができるように、問題の根に向き合うことができるように、神は私たちを押し出してくださる。