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礼拝メッセージ

悪い時代をどう生きるか(2020.5.10)

聖書

時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。(エフェソ5章16節)

礼拝音源(19MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨエル3章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 127編1~5節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ5章12~17節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 11 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「悪い時代をどう生きるか」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
5月誕生者祝福 イザヤ書40章11節
賛  美 531 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

パウロは、先に「光の子として歩みなさい」(8節)と勧め、「暗闇の業に加わらないで」(11節)と語りました。その暗闇の業は、私たちが以前は普通に口にしていたこと、普通に行っていたことです(4章31節、5章3~5節)。これらは主に喜ばれる実を結ばないものでした(5章10~11節)。このような暗闇の業が作り出す「今は悪い時代」です(16節)。この時代に、私たちは、どのように歩めばよいのでしょうか。

1.目覚めて生きる  12~14節
暗闇の業が光であるキリストによって明らかにされることによって、今やキリストに信仰によって結ばれた者は光の中にある者とされました(13~14節a)。
そのように光とされた者は、キリストへの信仰の告白となり賛美となります(14節b)。これは、初代教会の洗礼式で歌われた賛美と言われており、キリストを通して神を信じるとはどういうことなのか、洗礼を受ける前と後ではどう異なるのかとの内容です。
詳しく味わってみます。自分について、世界について、神について知ろうとしないで漫然と生きているのが「眠りについている者」です。神を信じるということは、そのような眠りから目覚めていることであり、「死者の中から立ち上が」ることです。そうすることによって、自分が何者なのかを自覚し、この世界が何であるかを意識して、神に心を向けるようになるのです。そして、暗闇の中にまどろんでいた者が、「起きよ」と光へと呼び出され、キリストに照らされて生きるのです。
洗礼にあずかっている者は、いかなる時であっても「目覚めて生きよ」とのこの賛美の呼びかけを聞き続けて歩むのです。

2.知恵ある者として歩む  15~17節
悪い時代のただ中を生きるからこそ、「賢い者として、細かく気を配って歩」むのです(15節)。賢い者とは、「知恵」ある者であり、神から与えられた永遠の救いに関わる知恵を与えられている者です。そのように歩む秘訣は、こうです。
まず、「時をよく用いなさい」(16節)とあるように、単なる時間ではなく、機会あるいは時期や好機をわきまえて十分に生かすことです。自分たちが生きている世界がどのようなものであるかを自覚して、今の機会を逃さずに最善に用いるのです。
そして、「主の御心が何であるかを悟りなさい」(17節)とあるように、キリストの御心を悟って歩むことが、知恵をいただいていることです。その主の御心を悟って生きてこそ、今の機会が用いられるのです。そのためには、主の御心に生きたいと願うことです。主ご自身と親しく交わることです。
「今は悪い時代なのです」と言われる「今」は、パウロの時代のみでなく、代々の信仰者にとっても、私たちにとっても、私たちの子どもたちにとっても、常に「今」です。「今の悪い時代」のただ中を生きる者は、目を覚まし、主の御心を悟り、知恵ある者として歩み続けるのです。

 

変わる環境でどう生きるか(2020.5.3)

聖書

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4章13節)

礼拝音源(23.2MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ16章13節a 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 91編1~16節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章35~38節、フィリピ4章13節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 148 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「変わる環境でどう生きるか」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 456 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスは、私たちの過去、現在、将来に解決と導きを与えてくださり、永遠に変わることのないお方です(ヘブライ13章8節)。ところで私たちの人生は、さまざまに変わりゆく環境と状況下に置かれます。

1.変わりゆく環境 

主イエスは、十字架にお架かりになられる前夜、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」(37節、イザヤ書53章12節参照)と言われました。このようにして、主イエスは、私たちに代わって神から捨てられてくださったのです。神の愛の中を歩まれた主イエスのご生涯において、これほど大きく重大な変化はありません。

この時、主の弟子たちにも大きな変化が起こりました。彼らが主イエスに従うようになった頃と(35節、ルカ9章1~6節及び10章1~12節参照)、主イエスが十字架を前にされた時とは、逆のことが指示されたからです(36節)。しかも、危機が来るから、自らの身を守る態勢を取るように話されました(38節)。

このような環境の変化は、私たちにも訪れます。平穏であった日々が、突如苦難と言われる経験をするからです。

2.変わることのない主 

主イエスは、「わたしの身に必ず実現する」(37節)と言われたことを父なる神の御心とされ(ルカ22章42節)、それを「成し遂げられ」(ヨハネ19章30節)、父なる神に「ゆだね」切られました(ルカ23章46節)。その救いの事実は変わりません。

弟子たちは、この主イエスの配慮の行き届いた恵みを数えることができ(35節)、主イエスのとりなしの祈りの恵みに与ることになりました(ルカ22章32節)。

私たちは、パウロ同様に、さまざまな変わりゆく環境(境遇)に置かれますが、それに対処する秘訣を授かっています(フィリピ4章10~12節)。主イエスが願われるその御旨を知って仕えさせていだたく時に、それを可能にしてくださるのが主イエスだからです(同13節)。主イエスは、今も変わることなくとりなし祈り、備え、助け、力づけていてくださいます。ですから私たちは、このお方に堅く信頼を置くのです。

 

光の子として歩みなさい (2020.4.26)

聖書

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ5章8節)

礼拝音源(21.0MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 エフェソ5章14節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 8編1~10節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ5章6~11節
使徒信条 93-4 1 A 一同起立
賛  美 484 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「光の子として歩みなさい」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 503 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

物事には、天地創造の時から神による区別がありました(創世記1章4節)。ところが、私たちの世界には、多くの分野で物事の区別がつきにくくなっています。憂えることは、神と人、善と悪、聖と俗といったことが曖昧になり、信仰の世界での区別がつきにくくなることです。

ここに、暗闇と光が明確にされています(8節)。これをどう聞くのでしょうか。

1.今や、光となっている

私たちは、暗い事件、おぞましい犯罪、自然災害また疫病などの恐ろしい出来事が続くことに不安を覚え、心に恐れが広がっていきます。このような暗闇に取り囲まれることは過去にも繰り返してきましたし、初代教会も経験したことでした。

暗闇は、このような外側からのものだけではなく、人々の内側に広がり取り囲こまれることによって経験します。それは、「あなたがたは、以前には暗闇でした」とあるように、私たちの姿でした(6節~8節)。そして、無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり、悪意、いろいろな汚れたこと、貪欲といった(4章31節、5章3節)「実を結ばない暗闇の業に加わらない」ように警告しています(11節a)。

しかし、今はそうではありません。暗闇の業は斥けられました。「今は主に結ばれて、光となっています」と明言しています(8節)。ダビデが「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」(詩編27編1節)と語ったことが、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)とあるように、今やキリストに信仰によって結ばれた者の内に成し遂げられたのです。

2.だから、光の子として歩みなさい

キリストに結ばれた者は、「光の子として歩み」、光に属する者として暗闇の中で輝くのです(8節)。それは、神の光を輝かせて歩むことであり、その生き方と関係してきます。「善意」という親切さや憐れみの行い、「正義」という神の目に正しいとされる歩み、「真実」で誠実な信頼するに足る歩みという実を結ぶのです(9節)。

このような生き方は、「何が主に喜ばれるか吟味」することによって整えられます(10節)。すなわち、信仰とその言動が試されることを通して、何が主に喜ばれるかをわきまえ知ることができるのです(ローマ12章2節参照)。さらに、「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出」すという大胆な証しをすることによって確かなものとされます(11節)。このように、光であられるキリストに向かい合って生きることなのです。

「主はわたしの光」と証しし続けたダビデは、一時的であるにせよ、自分の欲望と自分の安泰を優先させて罪を犯し、失敗した人でした。彼の信仰は試され、徹底して砕かれ悔いる心とされて、回復の恵みに与りました。その苦い経験から、遺言のような意味合いで、光とされた幸いを証ししています(サムエル記下23章3~4節参照)。

私たちは、ささやかであったとしても、光に属する者として歩み続けるのです。

招かれる罪人 (2020.4.19)

聖書

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2章17節)

礼拝音源(17.6MB)
※奏楽の音が小さくなっています。申し訳ございません。

礼拝順序

前  奏
招  詞 1コリント15章54b~55節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 6編1~11節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ2章13~17節
使徒信条 93-4 1 A 一同起立
賛  美 4 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「招かれる罪人」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 507 一同起立
感謝献金
奏  楽 305
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.罪人を招くイエス

前回までに、イエスは福音を宣べ伝え、弟子を造り、病を癒し、罪を赦す権威を持つ救い主であることを証明された。その対象は信仰を持つユダヤ人であった。

イエスの宣教は次の段階へと進み、その対象に罪人が含まれるようになった。それが徴税人や罪人である。徴税人は、イスラエルを属国としていたローマのために税を集めていた。そして、余分に集めた分を自分の収入としていた。敵国の手先となり、不当に私腹を肥やしていたため、ユダヤ人の間では罪人と同様に見なされていた。

ユダヤ人は罪人や異邦人と同じ食卓に着く事はなかった。共に食事をすることは仲間であることを表すからだ。律法学者は、イエスが彼らと一緒に食事しているのを見て、神から遣わされた救い主だと言っているイエスが、なぜ罪人の仲間になっているのかと非難し、仲間に加わる事はなかった。律法学者は、律法と照らし合わせて正しいか正しくないかを判断していた。ファリサイ派とはユダヤ教の中の一派で、特に律法違反を厳しく取り締まり、罪から分離して決別しようとしていた。そのような背景で出て来たのが、彼らの質問とも避難とも言えるものであった。

律法学者は罪人に注目し、イエスが罪人の仲間(=罪人)になっていると言ったが、イエスには罪を赦す権威があったので、それは当てはまらない。むしろ、罪人たちは神の子と共に食卓に着き、神の子の仲間になっている。イエスは罪人を招いて罪を赦し、神の子とするために来られた。

2.身代わりとなったイエス

イエスは、同席していた大勢の人が、罪を犯していないとは言っていない。彼らが罪を犯した事実は消えないし、罪のための裁きも無くなる事はない。しかし、イエス身代わりとなり、十字架で裁きを受けることで、罪を犯した本人は裁きからまぬかれる。イエスの罪の赦しの権威は、それが前提となっている。

3.招かれる人

聖書は、すべての人は罪を犯した(ローマ3:23)と言っている。誰一人として、律法学者のように、人の罪を探して裁いている場合ではない。罪人を招くイエスは、今もすべての人を招いている。そこには、私もあなたも含まれている。

律法学者の罪は、徴税人や罪人に比べれば小さいものであったのかもしれない。しかし、その為に自らの罪に気付く事なく、イエスのしている事を理解できず、救い主の仲間になることを拒んでしまった。その様になる事は避けたい。

この地上で生きている限り、困難な事は必ず起こる。そのとき、不平や不満、憎しみや裁く思いが沸いて来ることを避けられる人はいない。その結果、してはいけない事を、してしまう事もある。そのような“私”だからこそ、イエスは招いて下さる。辛い事、不満な事を神に向って言うとき、それは祈りとなる。神の食卓にありのままで着き、癒しと赦しのめぐみを受け取り、主に従って行こうではありませんか。

イースター感謝礼拝「大いなる逆転」(2020.4.12)

聖書

わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(1コリント15章58節)

礼拝音源(18.7MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編68編20~21節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 111編1~10節
会衆祈祷 一  同
聖  書 1コリント15章50~58節
使徒信条 93-4 1A 一同起立
賛  美 327 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「大いなる逆転」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
洗 礼 式 67 ※2部のみ実施。
録音されていません。
賛  美 528 一同起立
感謝献金
奏  楽 305
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

キリストの十字架と復活に現された救いの福音は、過去の歴史ではなく、生きて働いている最新のニュースです。このキリストの復活にすべての拠り所を置く私たちは、死者の復活の希望に満ち、生きた信仰をもって生きるのです。

Ⅰ.主の勝利にあずかる(50~57節)

死の現実は、不可解ゆえに、最も恐れられているものです。聖書は、死が恐怖であるのは、「死のとげは罪」であると語ります。つまり、死は人間の罪の結果であり、その罪に対する神の審きが「死」であるから恐ろしいのです。

しかし、感謝すべきことは、罪のないキリストの十字架の死のゆえに「死は勝利にのみ込まれた」のです。罪は、キリストの死によって完全に滅ぼされたのです。そして、キリストが死から復活されたことにより、死からの勝利を勝ち取ってくださったのです。このように救いを与えてくださった神に、感謝あるのみです(57節)。

Ⅱ.主の業にあふれる(58節)

このように感謝する生活をする私たちに、パウロは「わたしの愛する兄弟たち」と親しく呼びかけ、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と励まし勧めています。それは、キリストによって成し遂げられた救いの福音をこの世界にあふれさせなさい、ということです。

主の恵みを「無駄」にしたくないとの切なる願いをもって主の業にあふれることは(1コリント15章10節、使徒言行録9章31節)、それがどれほどの労苦であっても、「決して無駄にならない」で神の栄光に行き着くのです(51~53節)。キリストの十字架から復活への大逆転の恵みにあずかっているからです。

仕える者(2020.4.5)

宣教題 「仕える者」           宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章24~34節

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10MB)

 主イエスが十字架に架かられる前日まで、弟子たちは誰が一番偉いと思われているかと議論してきました(マタイ18章1~4節、同20章20~28節、ルカ22章24~27節)。それに対して主イエスは、十字架の救いの恵みに生かされて、「仕える者」に造られていくようにと語られます(26節)。

1. 試練によって  28~31節
 弟子たちは、主イエスがこれまで遭われた試練のときと同様に、この後の受難に対しても、一緒に踏みとどまって従い続けるように求められています(28節)。ところが、シモン・ペトロがそうであったように、このような試練のときにサタンによってその信仰がふるわれることがあります(31節)。
 主イエスは、そのような試練を通して、私たちを「仕える者」として造りあげていってくださいます。そして、天の御国における栄光の恵みに与らせてくださるのです(29~30節)。

2.主イエスによって 32~34節
 私たち自身の決心は、ペトロのようにしばしばつまずくことがあります(33~34節)。主イエスは、そのような者たちのために、「信仰が無くならないように」とりなし祈られます。後にペトロは、復活された主イエスによって信仰が回復され、その恵みを宣証していきました(32節)。
 主イエスが今も生きて私たちをとりなし続けていてくださることに、大きな驚きを覚えます(ヘブライ7章25節)。そのような恵みに与る私たちは、「仕える者」として造り変えられていくのです。

聖なる者にふさわしく(2020.3.29)

宣教題 「聖なる者にふさわしく」      宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ5章1~5節

 初代教会は、迫害や自然災害や疫病といった問題のみか、不道徳や不一致や異端といった問題に遭っていました。そうした中にあって、すでに主イエスによって聖なる者にさているのですから、それにふさわしく歩むように命じています(3節)。

1.神の愛によって生かされるように  1~2節
 神に倣う者とは、神に愛されている神の子として、その愛によって生かされ、その愛を手本として愛することです(1節)。そして、主イエスが、ご自身を「いけにえ」として神に献げてくださるまでに私たちを愛してくださった、その愛に生かされて愛のうちを歩むのです(2節)。
 教会は、今日に至るまで、永遠の命が与えられているという確信のともなった希望をいだいて、信仰に基づく愛の共同体としての歩みをしてきました。いつまでも残るものは、この信仰と希望と愛に生きることです(1コリント13章13節)。

2.神を感謝して生きるように  3~5節
 続いて、聖なる者にふさわしくない言葉を口にしないことを命じています。それは、人を卑しめたり、自分をおとしめたりする不品行な言葉、神の不名誉となるような言葉を口に出してはいけないということです(3へ4節a)。そうでないと、偶像礼拝者となり、キリストと神の国を継ぐことができないからです(5節)。
 そこで積極的に口にする言葉は、神が備えて与えてくださるすべてのことに対して、神を感謝することです(4節b)。神が生きて働いておられることを信じて感謝し、神は変わることのないお方であることに望みをおいて感謝し、神が愛していてくださることを感謝するのです。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(11MB)

新しい救い(2020.3.22)

宣教題 「新しい救い」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章14~23節

 救いという言葉は、思想的な意味で、経済的な意味で、道徳的な意味で、病のいやしといった意味などに用いられます。ところで聖書は、イエス・キリストが成し遂げてくださった救いについて語ります。それは、全て人に必要な新しい救いです。

1.その救いに招かれているのは、あなた! 
 主イエスは、十字架に架かられる前日に、使徒(弟子)たちを食事に招きたいと「切に願って」準備してくださり、主イエスを中心にして弟子たちも周りに座りました。それは、かつてイスラエルの民が、神の救いを経験したことを記念しての「過越の食事」でした(14~15節)。この「出エジプト」の出来事は、神の審きが過ぎ越すということを意味する救いであり、囚われているところから解放されて新しく出発することを意味する救いでした(出エジプト12章)。
 主イエスは、罪人に対する神の審きを十字架上で身代わりに受けてくださり、新しい歩みをスタートする救いに招いていてくださいます。

2.その救いを受け取るのは、あなた! 
 主イエスが与えてくださるパンを食することは、主イエスと一つになることであり、ぶどう汁を飲むことは、十字架で流してくださった罪の赦しの恵みに与ることを意味しています(19~20節)。
 この主イエスが差し出された救いは、一人ひとりが自分で受け取ることによってのみ、自分のものとすることができるのです(17節、1テモテ1章15~16節)。「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16章16節)と招かれる主イエスの救いを受け取って歩み出すのは、あなたです。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11MB)

罪を赦される方(2020.3.15)

宣教題 「罪を赦される方」        宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ2章1~12節

イエスは再び、カファルナウムのペトロとアンデレの家に帰って来られた。イエスは救いを求める人がいるところに来て下さる。

1.イエスの元に集まる人々
 イエスのところへは、群衆、中風(麻痺)の人一行、律法学者たちが集まって来た。群衆は言い広まったイエスの評判を聞き、見に来た。中風の人一行は癒しを求めて。律法学者たちは偵察のため。それぞれの目的があった。

2.中風(麻痺)の人の罪の赦し
 当時は、体が麻痺して動かない人は、汚れた者として神の前に出ることができなかった。そうなった原因は、罪を犯したためと言われていた。(イエスは、それを否定していた[ヨハネ9:2,3])。イエスは病を癒すより、中風の人の罪を赦した。その人の本当の必要に応えられた。そこには、大きな喜びと平安があったであろう。
 罪が赦されたことは、外から見ていても分からない。律法学者たちはイエスが罪を赦す権威を持っている事が分からず、神を冒涜していると考えた。イエスは罪を赦す権威がある証明として、中風を癒した。難しい事を行うことが出来れば、より易しいことは当然行う事が出来るという証明方法であった。見ていた群衆は神を賛美した。

3.当事者になっているか
イエスは、日々私たちのところへも来てくださる。私たちは、群衆ではなく、律法学者でもなく、イエスの元に癒しを求めて来た中風の人のように、救い主イエスの前に出て、血潮による約束の赦しと、立ち上がる力を日々受け取ろう。そして、イエスの使者として喜びをもって遣わされる者とならせていただこう。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(14MB)

あなたは誰の使者(2020.3.8)

宣教題 「あなたは誰の使者」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章1~13節

 主イエスは、ご自分が十字架に向かって歩まれる道を備えておられました。それに対して、主イエスの弟子たちがそれぞれ誰の使者となって歩んだかを語っています。

1.その道を踏み外す使者  1~6節
 ここに、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダが登場します。ユダは、ユダヤ地方出身ということからプライドを持っていました。主イエスは、そのユダを信頼して会計を任せられましたが、彼はその会計の中身をごまかしていたのです(ヨハネ12章6節)。そして、主イエスを敵対する指導者に引き渡すことを決めたのです(4~5節)。その結果、敵方と手を結び、その使者となったのです。そこに見るユダは、サタンに対して心を開いている状態です(ヨハネ13章27節)。
 私たちは、主イエスがすでに備えておられる十字架の救いの道を、私たちの方から踏み外すことのないようにしたいものです。

2.その道を歩んでいく使者  7~13節
 ここに、主イエスが備えられる最後の晩餐のために、ペトロとヨハネは主イエスの使いとしての働きを始めようとしています。それは、主イエスがこの二人を信頼されて、ご自身が計画しておられることに参加させ、その道を歩ませることでした(8~10節)。すべては、「イエスが言われたとおり」だったのです(13節)。
 私たちは、いつでも主イエスに従って、その道を歩んでいくことが大切です。その意味が十分分からないとしても、主イエスの使者として遣わされているという意識をもって、託されている務めを果たしていくのです。その時、「後で、分かるようになる」(ヨハネ13章7節)との主のご計画に生きる祝福を経験をするのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(10MB)

神の恵みに戻る(2020.3.1)

宣教題 「神の恵みに戻る」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ4章25~32節

 私たちが心の底から新たにされ続けるならば(4章23~24節)、その生活に変化が生じます。そして、その恵みに生きる生き方を見た人々にも変化をもたらします。

1.恵みを与える  25~31節
 主の恵みによって新しい人を身に着けていることにより、その言動が新しくされます。実際的には、次のように勧められる生き方です。
偽りを捨てて、愛の真実の言葉を語りなさい(25節、4章15節)。悪魔は、その愛の言葉を語ることを壊そうと隙を狙ってくるので、怒ることがあっても、罪を犯してはなりません(26~27節)。正当な働きで収入を得ることによって、困っている人々に分かち与えなさい(28節)。悪い言葉を口にしないで、人を造り上げる言葉が語られ、神の恵みが伝えられるようにしなさい(29節)。聖霊による救いの保証をそこなうような言動で、聖霊を悲しませることにないようにしなさい(30~31節)。
恵みを与える生き方に変えられ続けている教会でありますように。

2.恵みを与え合う  32節
 新しい人を身に着けた人たちは、「互いに」親切にし、憐みで接するようになり、何よりも「互いに」赦し合う生き方に変えられます。
 赦すことができたことは大きな恵みです。神と人に赦していただいていることを知ることも大きな恵みです。それは、互いに恵みを与え合う交わりから生まれます。そのようにさせていただくことのできるのは、キリストの十字架の事実によって、神が一人ひとりを赦してくださっていることを体験しているからです。

恵みを与え合い続けることのできる教会でありますように。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(9MB)

永遠の救い(2020.2.23)

宣教題 「永遠の救い」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ21章25~38節

 イエス・キリストを救い主と信じている者は、神が一人ひとりにご計画をもっておられるゆえに将来への望みがあり、世界が聖書の語る通りに進んでいくという安心を持っています。そこで、今日の聖書箇所では、次のことを問いかけています。

1.世界の終わりが見えていますか  25~33節
 聖書は、この世の終わりについて直截に語ります。世界大の規模で異変が起こり、人々が気を失うほどの混乱に陥れるものです(25~26節)。そのようなことが起こるなら、神の永遠のご支配が近づいていることを知ることになり、それを「決して滅びない」神の御言葉によって確かめることができます(29~33節)。
 そしてその時、再臨される主イエスを全ての人が見ることができるのです(27節)。それは、魂も体も罪と死から完全に解放され、大いなる神の救いの完成がもたらされる時です(28節)。

2.あなたの将来が見えていますか  34~36節
 それに対して、私たちはどのような備えをしていればよいのでしょうか。神を見失った生活に対して心が鈍くなり、その虜になってしまうことのないように気をつけ、審判者である主イエスの前に立つことのできるように、「いつも目を覚まして」祈ることです(34~36節)。
 そのような備えをしている者は、人間は死んで終わりではなく、死後にさばきがあることを知っています(ヘブライ9章27節)。ですから、十字架と復活によって罪と死に勝利された主イエスを信じるのです(ヨハネ3章16節)。それは、永遠の滅びから救い上げて、神の永遠の栄光にあずからせる救いです。

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汚れの清め(2020.2.16)

宣教題 「汚れの清め」          宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章40~45節

イエスの宣教には、奇跡(しるし)が伴った。霊を追い出し、病人をいやした。そのみわざは発展し、汚れを清め、罪を赦す(2章)ようになって行く。今日の汚れの清めと、次回の罪の赦しは、神の子ならではの奇跡である。

1.汚れ
汚れているものは、聖なる神に用いられる事ができない。
重い皮膚病は、単なる病気の一つではない。その病を患っている人は、汚れていると見なされた(レビ13章)。汚れているものに触れたものは、汚れていると見なされ、汚れは伝染する。汚れを清めるには、定められた手続きを行う。しかし、思い皮膚病による汚れは自然に治癒することを待つしかない。他の人へ感染させないように接触を禁じられ、隔離されたところに住むように命じられていた(レビ13:45-46)。

2.イエスの思い
 イエスは、感染と汚れを恐れることなく、重い皮膚病を患っている人に触れ、病をいやされた。そして同時に、汚れを清めた(41,42)。この病がいやされたことが、イエスに清める力があることのしるしである。イエスが触れると、汚れが伝わるのと逆の事が起こり、汚れたものが清められる。神の子であるイエスは決して汚れない。
 いやされた人は、定められた手続き(44)をして、誰にも話さないように言われたが、イエスの声に耳を傾けず、宣教の妨げとなった。人の心を知っておられるイエスは、そうなる事が分かっていても、憐れんでその人を清めずにはいられなかった。そして、放蕩息子の父のように、その人が戻って来るのを待っておられた。イエスは今日も、そのような私たちを憐れみ、弱いところに触れて下さる。

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永遠への出発(2020.02.09)

宣教題 「永遠への出発」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ21章5~24節

 聖書は、この世の終わりについて、真正面から語っています。あわせて、それは新しい始まり、さらに良き始まり、永遠への始まりであることを明らかにしています。そのことを意識し、それに対して備え、生かすことが大切です。

1.時を正しく意識するように  5~9節、20~24節
 主イエスは、人生に終末があるように、この世界にも終末がやって来ることと、その時が滅びで終わるのか、それとも救いが完成するときなのかを問うておられます。
 まず、主イエスは、エルサレムが滅びることは、世が終わることではないと語られました(5~9節)。そして、不滅と言われていたエルサレムが滅びる日が来ることを予告されました(20~24節)。神の顧みと憐みを拒み、救い主イエスを拒んだ結果によって起こったのです。
 絶対大丈夫と思われていたことでも、不滅のものはありません。いったい、私たちは不滅信仰を何に置いているのでしょうか。

2.その時に対して備えるように  10~19節
 主イエスは、エルサレム滅亡以上の終末的な破壊が起こることを告げられました。
それには、争いや自然災害(10~11節)、キリストの名のゆえに受ける社会的圧迫や親しい者の裏切りやむ憎悪があります(12~17節)。
 しかし、そのような私たちをご覧になられる神は、「髪の毛の一本も決してなくならない」ほどに保護されます(18節)。そして、十字架を負うことから逃げないで忍耐しつつ(1ペトロ2章19~23節)、主イエスに信頼し切って生きることにより、救いを完成してくださるのです(19節)。

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心の底から新たにされて(2020.2.2)

宣教題 「心の底から新たにされて」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ4章17~24節

 キリストの体である教会に組み合わされて歩んでいる信仰者は、「古い人を脱ぎ捨て」「新しい人を身に着け」る者とされています。パウロは、それを宣誓でもするように、厳かに命じています(17節a)。

1.古い人を脱ぎ捨てる  17~19節
 古い人とは、愚かなむなしい考えで歩んでいる人です(17節b)。正しい判断ができず、心が頑なになって神の命から遠く離れた状態にあります(18節)。神の求められることに無感覚で、放縦と情欲に迷わされて滅びに向かっていきます(19、22節)。
 キリストを信じるということは、こうしたものを決断して一挙に脱ぎ捨ててしまうことです。そのために、キリストが一人ひとりの「古い人」を一切引き受けてくださり、脱いだものを着込んでくださり、まとめて十字架の上で処分してくださったのです(ローマ6章3節~4節a)。

2.新しい人を身に着ける  20~24節
 そして、同時に、決断して一挙に「新しい人を身に着け」させていただき、キリストとの生きた関係を持たせていただくのです(ローマ6章4節b~5節)。そこには、十字架に死んで復活されたキリストに結ばれて、キリストに聞き、教えられ、学びつつ歩む関係があります(21節)。
 そのようにして、日々「心の底から新たにされ」続けて、「真理に基づいた正しく清い生活」を歩み続けるのです(23節~24節)。それが、天の御国へと歩むにふさわしい装いに身を包み、その道を歩むにふさわしい態度と言葉と振る舞いを心がける日々となっていきます。

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