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旧約聖書

神のあわれみを知る(2016.6.19)

宣教題  「神のあわれみを知る」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ4章1~11節、マタイ20章15節

自分以外のだれかを、それも自分に敵対するようなだれかにあわれみを示される神をあなたはどう思うか。

1. ヨナの怒り(1~4節)
神がニネベを滅ぼすことを思い直したのを知って、ヨナは不愉快に思い、怒った。当初、ニネベに行こうとはせずタルシシュへ逃げたのは、ニネベに行って語ったならばきっと神は思い直すと知っていたからだ。さらに、神が思い直したら、偽りを預言した者として、自分が恥を被ることも知っていた。思ったとおりになったので、ヨナは死ぬ方がましだ、とつぶやいた。

2. 惜しむヨナ(5~9節)
不機嫌なヨナは、熱さの中、ニネベがどうなるのか、見届けようとしていた。小屋を建て、日差しを避けた。主はとうごまの木を準備し、それはすぐに成長して、陰をつくり、ヨナを暑さから守った。不機嫌だったヨナが喜んだのもつかの間、翌日、神は虫を備えて、この木を枯れさせた。頭上から照りつける太陽と焼けつく東風のために、ヨナは苦しみ、再度、不機嫌になり、「死ぬ方がましです」(8節)と言いきり、「怒りのあまり死にたい」(9節)とさえ語るようになった。とうごまの木を惜しんだヨナは、それが奪われた時、不機嫌になり、怒った。

3. 惜しむ神(10~11節)
とうごまの木の件で怒っているヨナに主は、「お前はとうごまの木さえ惜しんでいる」(10節)と語った。自分が育てたわけでもないし、成長するのに時間がかかるわけでもないものが奪われて、怒っている、と諭した。そして、ヨナに主のニネベに対する思いを想像するように求めた(11節)。大いなる都、十二万以上の人、無数の家畜がいるこの地が滅びたとしたら、この町を育ててきた主はどれほど不機嫌になるだろうか。神はニネベを惜しんでいる。だから、すぐに怒らず、わざわいをくださず、むしろそれを思い直した。
私たちは、自分に敵対する者に対して神が気前よく振る舞う時、それをねたむ(マタイ20章15節)。自分の都合のいいように神を用いたいからである。しかし、神があわれんだのは、ニネベだけではない。理解しようとしないヨナさえもあわれみ、とうごまの木を備えられた。私たちの敵をあわれむ方だからこそ、私たちをあわれんでくださるのだ。

思い直される神(2016.5.22)

宣教題  「思い直される神」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ書3章1~10節 ルカ18章14節b

キリスト教の確かさは、その神の確かさに依存する。
1. 変わらない神と思い直すヨナ
主はヨナをニネベに送ろうとした。ところが、ヨナはそれを拒絶し、逆方向のタルシシュへと逃げようとした。しかし、主はヨナを捕らえた上で、魚を用いて海へほうり込まれたヨナを救い出した。そして、ヨナを再度、陸地へと送られた(1〜2章)。主は、前回同様、ヨナをニネベに送る。思い直したヨナは、今回は主の命令どおりニネベへ行き、語るべきことばを一日だけ語った(4節)。神はご自身の計画を変えない一方で、ヨナは思い直してニネベで務めを果たした。

2. 思い直すニネベと思い直す神
ヨナのことばは大きな影響をニネベに与えた。あらゆる階層の人々が、警告を与えた神のことばを信じ、来たるべき災厄を覚えて悲しんだ。その知らせは王にまで届き、王も悲しんだ(6節)。そして、家畜を含めたすべての民に、断食して悲しみ、神へと祈願の声をあげ、あらゆる悪と暴力から離れるように訴えた(8節)。ニネベは悪から離れ、立ち返った。滅ぼすことを決めた神であっても、万が一つの可能性でも、自らの決定を思い直すかもしれない、とニネベの民は信じ、自らの過ちを認め、へりくだった(9節)。すると、神は立ち返った彼らの姿を見て、思い直し(悔い改め)、災いを下すのをやめた(10節)。

3. 変わらない神
神は一度決めたことでもそれを変えられる。そんな神は確かな方だろうか。気まぐれな方では、と疑う。そうではない。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18章14節)という原則に従って、神は思い直す。神が善い方であるという可能性に賭けている人々がご自身に立ち返るのを見、ご自身に叫ぶ声を聞いて、必要ならば思い直される。たとえそれが長く神に敵対していた人であってもである。人に最善をもたらすために、神は思い直す。「へりくだる者」に対して神は思い直す。善い方であるという点において、神は変わらない方、確かな方である。

主を賛美するのはだれか(2016.2.28)

宣教題  「主を賛美するのはだれか」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ2章1~11節 ローマ15章9節a

1.ヨナの祈りと賛美
ヤッファへ、船へ、船底へ下って入ったヨナは、ついに海へと下っていった。そのまま海の藻くずとなるのかと思った時、主は魚を備えてヨナを救われた(1節)。ヨナはこれこそ自分の叫びへの主の答えであると思った(3節)。なぜなら、海の中、地の底まで下ったために、神に追放されたと思ったヨナは(4~7節a)、主を覚えて祈ったところ、主はその祈りに対して、聖なる神殿で聞き、答えられたからだ(7b~8節)。それゆえ、ヨナは感謝の声をあげ、いけにえをささげ、誓いを果たすと語る(9~10節)。主に頼る素晴らしい祈り、救いの主にふさわしい賛美である。

2. ヨナにふさわしくない賛美
けれども、ヨナの祈りと賛美は実に歯が浮くようなものだ。彼は追放されたのではなく、逃げた者である。聖なる神殿を見たい、と語りつつ、主から逃げようとした。主が聞かれたのは船乗りたちの祈りであり、いけにえをささげ、誓ったのも彼らだった。主への忠誠を捨てたのはヨナであり、主をおそれて賛美をささげたのは、偽りの神々に従っていた者たちだった。ヨナの賛美はどこかちぐはぐな印象を与える。ここまでのヨナの姿がこの賛美と調和していないからである。

3.主のあわれみ
ヨナは、異邦人の船乗りたちが歌うべき賛美を歌っていた。そして、愚かにも、自分の本当の姿のみならず、主をおそれるようになった異邦人たちの姿にも気づかなかった。しかし、船乗りたちのように、主のあわれみに気がついた異邦人たちは主を賛美するようになる(ローマ15章9節a)。主はそのことを願い、ヨナの気づかない所であらゆる民にあわれみを施し続けられた。
異邦人の祈りにさえ答えられる主は、いつくしみ(忠誠)に富んだ方であり、ご自身のあわれみに気がついたものを救出される方である。さらに、ヨナのように心かたくなで、悟らない者にさえ、そのあわれみのゆえにチャンスを与えられる(11節)。心が頑固な者にさえ忍耐強く関わり続けられる神こそが、私たちの唯一の希望である。

この日を正月としなさい(2016.1.24)

宣教題  「この日を正月としなさい」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  出エジプト12章1~14節 2コリント5章17節

聖書に「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)とありますが、この時はイスラエルの民の歴史にとって、転機的な時であり、新たな歩みが始まった時でした。
それは、私たちが神の子として自覚的な誕生をし、そこから新たな歩みをすることがいかに大切であるかを語っています。

1.イスラエルの正月とは
イスラエルにとってこの転機的な出来事は、二つの意味がありました。一つは、エジプトに住む家畜をも含むあらゆる初子を撃つという神の審きがなされるに際して、屠った小羊の血を取って家の柱と鴨居に塗っておけば審きが過ぎ越すということでした(6~7節)。もう一つは、酵母を入れないパンと苦菜を添えて屠られた小羊の肉を食べたイスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から解放され、身軽になってそこから旅人として新たな出発したことでした(11~12節)。このようにして、新生イスラエルの歴史が始まったのです。
この神の御業には、大切なメッセージが語られています。神が血を見られられたことにより、神は過ぎ越されるという救いをなされたことです(13節)。

2.あなたの正月は
すべての人は罪を犯しているので、神の審きを受けなければならなくなりました(ローマ3章23節)。そこから逃れる道は、ただ一つです。私たちの身代わりとして十字架に血を流して死んでくださった神の小羊であるキリストを信じることです(ローマ3章24~25節)。神は、このキリストの血を見られ、神の前に悔い改めてキリストご自身を信じる者を救われるのです。ここから神が備えていてくださる新しい歩みが始めまるのです。
キリストを信じるとは、「キリストと結ばれる人はだれでも」とあるように(2コリント5章17節)、キリストを信頼し、キリストと命の結びつきをもつことです。それによって初めて、新しく造り変えられた人生の正月がおとずれるのです。私たち一人ひとりは、それを「この日」にさせていただきましょう。

本物の礼拝者(2016.1.10)

本物の礼拝者          宣教 鎌野 直人協力牧師
聖 書  ヨナ1章1~16節 フィリピ3章3節

1.主のことばから逃げる
ヨナはヤロブアム二世の時代(紀元前8世紀)、イスラエルの拡張を預言した。そして、そのことばのとおり、北王国は繁栄した(2列王14章25節)。ニネベを都とするアッシリア帝国が弱体化していたからである。主は、そのヨナに、立ち、ニネベへ行き、そこで呼びかけよ、と命じた(2節)。ヨナは立ち上がったが、ニネベとは逆方向のヤッファに下り、さらに西のタルシシュ行きの船に乗り込んだ(3節)。主とそのことばから逃れようとした。

2.主のわざへの二通りの応答
ところが、ヨナが逃げたところにも主はおられた。風を海に放たれ、大嵐が起こった(4節)。異邦人の船乗りたちは、おそれ、自分の神に叫び、積み荷を海に投げ捨てはじめた。ところが、ヨナは船底へと下り、寝ころび、夢の世界へと降っていった(5節)。船長は、立ち、自分の神に叫べ、と命ずるが、ヨナは聞こうとはしない。主のわざであると気がついているのに、平然としていた。一方で、船乗りたちは「神があるいは」(6節、口語訳)と神のあわれみに期待して、叫んでいる。本物の礼拝者はいったい、どちらだろうか。

3.主をおそれる
神の怒りの原因はだれか。人々はくじを引いて、御旨を求めた。くじは見事にヨナに当たる。「海と陸とを創造された天の神、主」(9節)をおそれる、と語る彼にはわかっていた。自分を海に投げ捨てれば、主は怒りをとどめ、海は凪ぐ(12節)。ヨナは冷静に語るが、人々はヨナが犠牲にならずにすむようにと努力する。それも限界。自分たちを滅ぼさないで、と叫びつつ、彼らはヨナを海に投げ捨てる(15節)。その瞬間、主は海を静める。船乗りたちは、あわれみの主をおそれ、礼拝をする(16節)。
主をおそれ、そのことばを守ったのは異邦人たちであった。主のあわれみに期待したのは彼らであった。選民であることに固執したヨナは偽物であることが暴露された。本物の礼拝者は、主のわざに気づき、主のあわれみにすがり、主をおそれる。あなたは、肉を頼みとするヨナか、それとも、キリスト・イエスを誇りとする船乗りたちか(フィリピ3章3節)。

御言葉は変わらない(2015.12.27)

宣教題  「御言葉は変わらない」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ55章8節~13節

神は、恵みをもってご自身の民を回復されるお方です。神のもとに来て、神を尋ね求めて立ち返るように招いておられます(55章1~3節、6~7節)。続いて、神はご自分と神に立ち帰った者とを対比させながら、ご自分が超越した絶対の存在であることを明らかにされ、どこまでも神の御言葉に信頼をおくことを勧めておられるのです。

1.神の思いと道を求める  8~9節
神の考えや計画という「思い」とそれを実行していく手段や方法という「道」は、人のそれらとは違うことが強調されています。ですから、人が神の思いと道を把握し、理解し、納得することは難しいのです。とは言え、神は、人の思いや考えを超えたところで、人を導いておられることも明らかにしようとしておられます。
不穏で心をかき乱すことの多い現実があると、人は神ご自身を求めるよりも、自分たちの困難や痛みだけにとらわれやすいものです。しかし、そのような時にこそ、神の思いと道は、人のそれらとは違うことを知って、生きておられる神に心を開いて神の思いと道に思いをはせるのです(ルカ2章19節参照)。

2.神の御言葉に生きる  10~11節
神は、「わたしの口から出るわたしの言葉」と言われる神の御言葉の特質を明らかにされています(イザヤ40章8節参照)。神の御言葉には、神ご自身のお考えやご意思やご計画が込められており、それが人に語られるならば、御言葉が持つ救いと命と力を現実に造り出していくのです。
イザヤ書には、イエス・キリストの初臨から十字架と復活そして再望に至るまで預言されており、そこに揺るぎない救いの完成を見ることができます。ですから、神に対する信頼をもって、神の御言葉に聴き従って生きるのです(ルカ1章37~38節参照)。
このようにして生きる者に神が用意されているものは、「とこしえに消し去られることがない」歓喜と祝福です(12~13節)。

神の愛の奇跡(2015.12.20)

宣教題  「神の愛の奇跡」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ7章10~14節 マタイ1章21~23節

神の御子の誕生が告げられた「インマヌエル」の出来事こそが、クリスマスの奇跡であり、神の愛の奇跡です。そのことはすでに、イザヤを通して預言されていたことでした。「神は我々と共におられる」とは、どういうことなのでしょうか。
1.「神が共に」との救いが起こった  イザヤ7章14節
イザヤが預言した紀元前735年頃は、ユダの王アハズがアラムとエフライム連合と大国アッスリアとの狭間にあって危機的な状態にありました。その時イザヤは、不信仰に陥っていたユダの王と民に対して、神への信頼を持つように勧めました(7章1~9節)。続いて、神は「しるしを求めよ」と言われましたが、王は現実問題にとらわれたままでした(同10~13節)。そのような状態の王と民に対して、神自らが、一人のおとめが身ごもり男の子を産むという「しるしを与えられる」のです。それによって、「神が共におられる」ことを明らかにされ、勝利をもたらすとの約束をされたのです。
病気がなおった、敵が打ち破られた、困難に際して祈りが答えられたなども救いですが、確かな救いは、いかなる時にも「神が共におられる」という事実です。
2.罪からの救い主となられた  マタイ1章23節
イザヤの預言が成就したのは、イエス・キリストの誕生においてでした。「インマヌエル」とは、真の神と真の人が主イエスにおいて全く一つになったということであり、この主イエスによって、人が神と共にいることができる恵みが実現したのです。本来、聖なる神と罪人とが一緒にいることができないので、「罪から救う」ことを主イエスが十字架の身代わりの死を通して成し遂げてくださったことにより、人は神と共にいることができるようになったのです(マタイ1章21節)。
私たちは、インマヌエルの救いを信じ受け入れることによって、永遠の滅亡から「神は我々と共におられる」という永遠の命の中に導かれるのです(マタイ28章20節)。クリスマスは、そのような神と共にある歩みを新たに踏み出す時です。

待望の祈り(2015.12.6)

宣教題  「待望の祈り」               宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ63章15節~64章4節
 
 イザヤは、神の民がバビロンに捕らえ移されたときに、そこから解放されることを待ち望むように勧めています。「どうか」(63章15節、19節)とは、神の助けを求める待望の祈りです。それは、キリストの初臨と再臨との間の恵みの日々を生きる者の待望の祈りでもあります。

1.信仰復興の祈り 
 苦難のただ中にあって行き詰まりを覚えた神の民は、まず神の恵みの御業を思い起こさせていただいています(63章7~9節)。続いて、神に対して自分たちの不従順を見せられ(同10節)、それでも決して見捨てられない神の前に悔い改めへと導かれたのでした。そして、神の恵みへの信仰に目覚めさせられ、もう一度「どうか、天から見下ろし」てくださいと呻き祈り求めたのです(63章11~15節)。
 待降節の日々を過ごす私たちは、イザヤの時代の人々と同様に、主の救いと導きを想起しつつ、自らの不信仰と不従順を悔い改め、信仰復興を祈り求めたいものです。キリストは、心を開けようとしない私たちを待っていてくださいます(黙示録3章20節)。

2.再臨待望の祈り 
 神の民は、いつまで続く困難かと神に問いつつ(63章15節b~19節a)、同時に、どこまでも神にすがりつこうとする信仰の執念をもちあわせていました(64章1~4節)。そして、神は必ず立ち上がってくださるとの確信がありました。こうして、過去の救いの出来事が、現在と将来に結びついていったのです。そのような希望をもって「どうか、天を裂いて降ってください」(63章19節b)と祈り求めています。
 待降節を迎えている私たちは、再臨されるキリストを待望する信仰に生きています。教会と信仰者には、その時を迎えるにふさわしいものとして準備をする務めと責任を負わされています。「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22章20節)との信仰を持たせていただくのが、待降節(アドベント)の信仰です。

降る愛(2015.11.29)

宣教題  「降る愛」                 宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ9章1~6節

預言者イザヤは、暗黒の世界にあっても、神に信頼して生きるところに希望があることを確信していました。神は、ご自身の全存在をかけて、燃える愛を注いでくださるからです(6節c)。そして、それを具体的に現してくださったのが、天地に満ちるほどの大いなる神が、赤ちゃんイエスとして、人間と同じように小さくなられて降って来てくださった出来事によってでした。

1.闇が支配する中に  1~4節
闇と死が支配する世界は、時代を越え、民族や国家を越え、立場を越えてありました。そのような状態は、イザヤが預言活動していた時の国家的な危機においても現れました。しかし、彼は、そのような中にあって、後に起こる神の救いの御業に「大いなる光」を見い出していたのです。
闇と死の世界は、様々な恐れや不安、そして誰しもが持っている罪と死が支配する状態でもあります。救い主イエスが来てくださったのは、そのような私たちの心と人生を照らすまことの光としてでした(ヨハネ1章9節)。主イエスは、闇と死の世界を愛の光をもって包み込んでくださったのです。

2.光の支配を     5~6節
救い主イエスは、不思議な御業をなされる助言者であり、全てを創造し支配しておられるお方であり、時々刻々変わることのないお方であり、平安を与え和解をもたらすお方です。このお方は、「わたしたち」一人ひとりのために降誕されたのでした。
ですから、「わたしたち」一人ひとりは、闇と死の支配の前にこうべを垂れたままでいるのではなく、光なる救い主イエスの前にこうべを上げるのです。その時、十字架に架かられた神の独り子イエスの中に、罪と死の闇から解き放ってくださった大きな愛を知るようになるのです。「わたしてたち」一人ひとりが、日々救い主イエスに出会い続けるならば、その人にとって終日がクリスマスであり、一年中がクリスマスなのです。

契約:福音に応えるために(2015.11.22)

宣教題  「契約:福音に応えるために」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア24章14~28節 ヘブライ8章10節
王などいらない、と人々は叫ぶ。強大な力をもった王が自分の利益を求め、わがままに振る舞い、王に仕える人々が大いに苦しめられるからである。しかし、よい生を送ることができるようにと願って統治する王に仕えることはどうだろうか。

1. 福音
ヨシュアはその生涯の終わりにあたって、イスラエルの民に主のことばを語っている。そこには、創世記からヨシュア記まで書かれていることがまとめられている。イスラエルの先祖が他の神々に仕えていたこと。そこから主が連れ出したこと(2~4節)。エジプトに下って奴隷になっていたところから、連れ出したこと(5~7節)。荒野に住んでいた民に勝利を与え、敵の手から救い出したこと(8~10節)。ヨルダン川を渡ったあと、その地に住む者たちを追い払い、その地を与え、よき生活の場所を与えたこと(11~13節)。よい王である主がこれらのことをなされたからこそ、イスラエルの今がある。主がイスラエルにためになされたすばらしいみわざ、福音が語られた。

2. 選択
主の一方的なわざをうけて、ヨシュアは、神々を除き去って、ただ主に仕えること、すなわちこの方を王として受け入れ、その導きに従うことを求める(14節)。自らも、その家族も主に仕えることを宣言する(15節)。しかし、民に強制することはせず、自分たちで選ぶように求めている。福音を聞いた者に対して、よい王である主は選ぶ自由を与えている。誰に仕えるかを選ぶことを通して、私たちは自分の将来を自分で選ぶ。

3. 契約
ヨシュアは民に対して、主に仕えることを選ぶことの重さを思い起こさせ、警告を与える(19~21節)。「聖なる、熱情の神」は自らに仕えることを選んだ者たちの応答に対して、無関心ではない。受け入れ、誓約した民は、主を「わたしたちの神」(24節、ヘブル8章10節)と呼び、契約を結び、「掟と法」(25節)をうける。福音を聞いた者は、自らの王を選び、その選択に伴う責任を喜んで果たすのだ。
主に仕えることは私たちに責任ある生き方を求め、契約の民となることを求める。しかし、これらはすべてよい王である主のめぐみのわざ(福音)に対する喜びから生まれる自発的な応答だ。

日々、主とともに(2015.11.1)

宣教題  「日々、主とともに」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  詩編68編20~21節、ルカ9章18~27節

主が「日々、わたしたちを担」っていてくださるのですから(詩編68編20節)、私たちは「日々、自分の十字架を背負って」主イエスに従っていくのです(ルカ9章23節)。
私たちの信仰は、特別なこと、特別な日のためだけにあるのではなく、普通の日々、平凡な生活にあってこそ意味があるのです。

1.日々私たちを担ってくださる主
恵みの主が救い、導き、顧みていてくださることに、神の民は深い信頼を寄せています(詩編68編20~21節)。人が持つ最も重いに荷は、罪と死の重荷ですが、そのような重荷を担っている私自身はもっと重い荷といえるでしょう。
主イエスは、人の罪と死そのものを担ってくださいました。ご受難を受けられ、十字架において捨てられ、殺され、その死から復活されました(ルカ9章21~22節)。私たちは、この救い主イエスに対して、自分の口でまた自分の存在をもって信仰を言い表わすのです(同9章18~20節)。
主イエスは、時々思い出したようにではなく、あるいは気まぐれにではなく、日々に私たちを担っていてくださるのです。

2.日々十字架を負う私たち
私たちが自分を捨てて日々自分の十字架を負うことは、主イエスに従う者に与えられている喜びの証しです(ルカ9章23節)。私たちは、それを避けることもできますが、主イエスのために、福音のために背負わせていただくことにより、主の栄光を拝することができるのです。
そのようにして、日々の日常生活がつくられていくならば、他者を生かし、教会を生かし、結果としてその人自身も生かすことになるのです(同24~25節)。私たちは、自分の十字架を自分だけの頑張りで背負うのではなく、日々に私たちを担ってくださる主イエスにすべてを委ねながら歩むのです。

すべての約束の実現(2015.10.11)

宣教題  「すべての約束の実現」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア23章1~16節 エフェソ6章10~12節

クリスチャンの戦いは、究極的には神の武具によって悪魔の策略に立ち向かうものである(エフェソ6章11~12)。しかし、人間が戦えそうもない相手、そして目の見えない相手とどのように戦うのだろうか。

1. すべての戦いは主の戦い
約束の地の征服のための戦いを終え、年老いたヨシュアは、その生涯を振り返りつつ、これまでの戦いは、すべてイスラエルの神である主が戦われたものであると述べた。イスラエル自身もそのことを見てきた(ヨシュア23章3節)。イスラエルは戦ってきたが、それはあくまでも主の戦いであった。わたしたちの悪魔の策略との戦いも、主の戦いである。

2. 過去の戦いから将来の戦いへ
約束の地での戦いはまだ続く。くじによって各部族に分け与えられた土地を獲得する戦いに向かう必要がある(4節)。主は、過去もそうであったように、これからも戦われると約束してくださっている(5節)。これまでヨシュア記で起こってきたことがこれからも続くからこそ、一人で千人を追い払うことができる(10節)。ところが、主の戦いであっても、イスラエルには、モーセの教えの書に従い、他の神に仕えず、主ののみ信頼することが求められている(6~8節)。彼らがこのようには歩まないとき(12節)、この土地から彼ら自身が滅び失せる危険性があるである(13節)。事実、士師記を見ると、約束の地でイスラエルは危機に瀕していた。

3. すべての約束は守られる
なぜ主はイスラエルの行動に基づいてご自身の戦いを戦われるのだろうか。それは、主がイスラエルを、そして私たちをこの世界におけるご自身のパートナーと見なしておられるからである。そして、パートナーである者たちと共に戦うために主が用意されたのが、主の約束である。主が約束された通り、すべてのよいことはこれまで行われてきたし(15節)、契約を破るならば約束通り、パートナーには滅びがおとずれる(16節)。すべての約束を守られる主だから、パートナーである私たちがどのように応答するかに応じて、主はご自身の戦いを進められる。
だから、「主に依り頼み、その偉大な力によって」強くされ、主に忠実でありつづけるように招かれている(エフェソ6章10節)。主は約束のすべてを守ってくださる方であるからこそ、主の約束を知り、それに忠実に生きていこうではないか。

民をひとつにするもの(2015.9.20)

宣教題  「民をひとつにするもの」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア22章21~29節 エフェソ4章4~6節
クリスチャンは孤独ではない。神の恵みによって、神の民という「ひとつの民」に入れられた者である。しかし、そのことを頻繁に忘れてしまう。

1. 分裂の危機
神の約束された地の土地の分配が終わったので、ヨルダン東岸を所有地とする二部族半の人々は帰還した(9節)。途上、彼らはヨルダン川沿いにひとつの大きな祭壇を築いた(10節)。これを聞いたイスラエルの人々は、驚き、軍を送ろうとした。しかし、まず、祭司ピネハスらをこの二部族半の所有地へと送り(11~14節)、シロ以外にささげものをする祭壇を築くことは主への背信行為であると訴えさせた(15~21節)。一方で、二部族半の人々は、川の東西に別れていても将来にわたってイスラエルがひとつの民であることの証拠とするためにこの祭壇を建てたと語り、ピネハスらを納得させた(22~31節)。

2. 忘れる、思い出す
十二の部族からなるイスラエルが「ひとつの民」であることは、すべてのイスラエルの人々にとって重要であった。ピネハスは、二部族半が主への背信行為を行うとすべての民の上に主の怒りが下ると考えていた(18節)。二部族半の人々は、自分の子どもたちが「ひとつの神の民に属してはいない」と言われ、神の民から離れ、信仰を失うことを恐れていた(24~25節)。自分たちが「ひとつの民であること」を、相手側が忘れるのではないか、その結果、自分たちが主の祝福から離されるのではないか、と懸念した。そこで、「ひとつの民である」ことを忘れないように、ピネハスは失敗した歴史を思い出すように語り(17節, 20節)、二部族半の人々は主という同じ神を礼拝していることを祭壇を通して思い出すように求めた(28節)。
クリスチャンも、自分たちが神の恵みによってひとつの民とされていることをすぐに忘れてしまう。だから、現状がどうであろうとも自分たちはひとつの民であることを常に思い出す必要がある。そのために、聖書が物語る歴史、人の失敗と神のあわれみの歴史を思い出し、希望を共有すること(エフェソ4章4節)、そして、すべてのものの父である神を共に礼拝する、ひとつのバプテスマによって生み出された民であることを思い出し続けること(4章5~6節)が大切である。毎年、毎週、毎日、礼拝を通して、「ひとつの民であること」を心に刻みつけ続けることが私たちの霊的な歩みを強くする。

信仰の報酬(2015.8.23)

宣教題  「信仰の報酬」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア14章6~15節 ヘブライ11章1節

「信仰の報酬」は、終わりのさばきの時に、主からいただくものとは限らない。今、このとき、私たちに与えられるものでもある。
約束の地へと出発したイスラエルは、カデシュ・バルネアから十二人を探索のために送った。よい地という報告を彼らは携えてきたが、大きな町とアナク人の子孫がいるため敗北するだけだ、と十人が語り、民の心を挫いた。しかし、カレブとヨシュアは、主が与えてくださる、と進言した。民の不信の罪のため、主はイスラエルに40年の放浪を与え、カレブとヨシュアには約束の地での嗣業を約束した(民数記13〜14章、申命記1:19-46)。

1. カレブの信仰
45年が過ぎた。85歳になったカレブはヨシュアに嗣業の地を願った(ヨシュア14:6-12)。彼のことばに彼の信仰の姿を見る。まず、45年前、カデシュ・バルネアで主に従いとおした姿(14:7-8)。次に、主が約束通り、45年間、生きながらえさせてくださったと信じ続けている姿(14:10)。そして、これからも主が共にいてくださって、アナク人を主が追い払ってくださるという確信(14:12)。神への信頼と、神への信頼から生まれる神への忠実さに生きている。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11:1)そのものである。

2. カレブへの信仰の報酬
カレブに主は報酬を与えられた。45年経っても変わらないカレブの肉体的な力(14:11)や彼に与えられる嗣業の土地(14:13)。しかし、これらはだれに対してもそうである訳ではない。年をとれば、弱るし、望んでいたものが必ず与えられる保証はない。しかし、もう一つの主からの報酬があった。45年間、一貫して変わらない彼の信仰そのものである。45年間、主はカレブに信仰を与え続け、年老いてなお、その信仰に生かさせている。
自分の信仰がもっと強くなったら、と自分で自分の信仰を強くできるかのように語る。しかし、信仰は信仰の報酬として神から与えられるものである。与えられたものに生きる毎に、さらに与えられる。だからこそ、偉大な与え主である方を覚え続けたい。

賢明な計略(2015.7.19)

宣教題  「賢明な計略」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア9章16~26節 1コリント3章18節

数ある選択肢の中から何を選ぶかで、その人が賢明であるか、明白になる。イスラエルの連戦連勝のしらせにどのように対応するかで、人々の知恵が試された。

1. 賢明そうな計略
イスラエルが攻略したアイからそう遠くない場所に住んでいたギブオンの民は、生き残りのために計略を立てた。古びた袋、靴、外套、干からびたパンを準備して、遠くからの旅人を装い、イスラエルの所に向かった。和を講じ、自分たちが滅ぼされることがないようにと願って行動した。彼らの虚偽をイスラエルは見破ることができず、契約を結んでしまった。三日後にギブオンの民の嘘に気づいたが、時すでに遅く。契約のゆえに、彼らを滅ぼし尽くすことはできなくなった。奴隷の身分ではあるが、ギブオンの民は命が保たれた。失うものも多くあったが、彼らなりの賢明な計略は、それなりに功を奏した。

2. 愚かな計略
ギブオンの民とは対照的なのが、彼ら以外の住民たちである(1~2節)。戦闘によってイスラエルに対抗しようと考えて、諸国連合を結成した。これは愚かな計略であった。10章以降に描かれているように、彼らはイスラエルの前に無残にも敗北する。いのちさえも失った。
彼ら同様に愚かさであったのは、イスラエルの民自身である。旧来の住民たちを滅ぼし尽くすように主から命じられていたのだが、ギブオンの民の計略を見抜くことができず(疑問には思ったが)、主の指示を求めることもなかった(14節)。善かれ悪しかれ、ギブオンの民との共存が彼らの運命となった。

3. 賢明な計略
最も賢明であったのは、2章に登場したラハブである。主のなされたわざを聞いて、主を神として認めた一方で、ギブオンの民のような策略を立てることはしなかったからだ。彼女は、イスラエルの神とその民を信頼することを選び取り、その結果、命が救われ、イスラエルの一員となる。
自分の知恵が神の偉大なみわざを見えなくしてしまうことがある(1コリント3章18節)。不安は確かに残る。しかし、「神を信頼する」選択を「あえて」行うとき、ラハブが味わったように主の真実を体験することができる。神を「あえて」信頼することこそ、最も賢明な計略である。