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旧約聖書

主の道を守る民(2011.10.9)

宣教題  : 「主の道を守る民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 創世記 18章16節~22節
教会の宣教のわざは、決してきれいごとですむようなものではない。教会にはソドムやゴモラのような世界に祝福を届ける使命が与えられているからだ。

1.ソドムとゴモラの現実
ソドムとゴモラは邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた(13章13節)。そして、町から天に上る公正な審判を求める叫び声は大きい(18章20節)。正義が行われず、立場の弱い人々が食い物にされていたからだ。主はそこに行かれ、現実を知り、介入される(18章21節)。ソドムとゴモラは現代日本を映している。

2.主の道を守る民
主はアブラハムを選ばれた。ソドムとゴモラと無縁ではない場所で、彼自身がソドムや他の神々の道ではなく、主の道を守るためである。さらに、彼の子孫たちも主の道を守って正義に生きるよう、彼らに命令し、教えることを主は彼に求めた(19節)。宣教のために、主への従順に生きる人々が継続して起こされ、主の道を守ることが伝統として引き継がれる必要がある。つまり、イエスの命令のすべてを守るように教えることによってイエスの弟子を養成することは、教会の宣教に必須である(マタイ28章18~19節)。

3.主の祝福を届ける
宣教のゴールは、アブラハムとその子孫たちが主に従って歩むことではなく、主が結ばれた約束、つまり世界の民の祝福の実現だ(18章19節)。そして、ソドムへの宣教を願っておられたからこそ、主はアブラハムに介入の機会を与えた(18章17節)。そして、アブラハムは大胆にソドムの民のために主ににじり寄り、主はその交渉に応じられた(18章23~32節)。
神の恵みによって選ばれた私たちは、神の宣教のわざが教会によって実現するため、主に従うよう招かれている。だから、主がソドムへ下って行かれたように(18章21節)主の道を守る者として積極的にこの地に関わっていこう。

最高の祝福(2011.9.11)

宣教題  : 「最高の祝福」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 民数記  6章22節~27節
モ-セとアロンとミリアムは、80歳を超えてから、神に遣わされて神の民イスラエルの先導者となりました(ミカ6章4節)。特にモ-セの兄であったアロンは、神の祝福を執り成す者として用いられました。

1.祝福を受ける
アロンは、徹頭徹尾モ-セの脇役に甘んじたという点で、たぐいまれな人物です。アロンが表面に立って語る時があるとすれば、それはモ-セの代弁者としてでした(出エジプト4章16節)。しかし、どこまでもモ-セを支えるものであって、とりわけ彼の祈りを支えました(同17章8~12節)。
ところが、モ-セが大祭司を選ぶための諸規定を神から教えられていた間(同28~29章)、アロン自身は民の要求に従って金の子牛作りに精を出していました(32章)。神は、そんなアロンの罪を赦し、「主の聖なる人」(詩編106編16節)として、神と罪人の間に立つ仲保者とする祝福を与えられました(出エジプト32章)。これは、私たちの姿を映す鏡であり、イエス・キリストの救いという祝福を受ける者の姿です(エフェソ1章3節)。

2.祝福を告げる
アロンは、神の祝福を告げる祭司として用いられました(民数記6章22~27節)。ここには、「あなた」と言われる神の民全体に対して、神の祝福と守りが(24節)、主の臨在の恵みと導きが(25節)、主の臨在の顧みと平安が備えられることが告げられています(26節)。そしてこの祝福は、全キリスト者に及び、三位一体の神の名による祝祷でもあります(1コリント13章13節)。
今日の教会の礼拝は、牧師の祝祷で終わりますが、互いの日々の歩みがこの祝福を受けたところから始まります。この祝祷は単に祝福を祈るという以上に、祝福を告げることなのです。そして、祝福のうちに死を迎え、祝福の確信をもって試練と戦うのです。私たちは、イエス・キリストに信仰によって結び合わされ、神の祝福を告げる祭司なのです。

世界への祝福となる民(2011.8.21)

宣教題  : 「世界への祝福となる民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 創世記  12章1節~3節
アブラハムに対する「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という主のことばこそが福音である、とパウロは語っている(ガラテヤ3:8)。信仰によってアブラハムの子孫とされた私たちにもこの福音を宣教する使命が与えられている。

1.神の祝福
アブラムに与えられた使命は「祝福となる」こと(創世記12:2)、つまり彼を通して世界の諸国民が神の祝福をいただく事である(12:3)。この神の祝福は、天地創造の初めに神が世界中を満たす被造物へと与えられたいのちの祝福を指す(1:28)。人はそれを自分たちの力で獲得しようとするが(バベルの塔)、神は造られたものすべてにこの祝福を与えようと願っておられる。神の祝福は賜物である。

2.すべての国民
神はすべての民(異邦人)がこの祝福を経験することを願っている(12:3)。一部の人だけ(たとえばイスラエルの民)に閉じられてはおらず、ノアの子孫として世界中に散り、広がっていった(10章)「地上の氏族すべて」がその対象である。すべての国民と出会うためにアブラムはカナンの地へと出ていったことを忘れてはいけない。まわりにクリスチャンがいないことは嘆くべき事ではない。祝福が「すべての国民」に与えられるチャンスを生み出す場にあなたは置かれている。

3.あなたによって
アブラムは他者のために選ばれた。聖書における選びとは、神の祝福が広がるという宣教を目的としている。だからこそ、選ばれたアブラムにとって、「離れ、行きなさい」(12:1)という主の命令に対する積極的な応答、歓びに満ちた従順が大切となってくる。主が私たちに求めておられるのも、主への従順である。主の招きに従って、安住の地から一歩進み、人々と関わることによって、祝福とならせていただきたい。

造られたものを治める民(2011.7.24)

宣教題  : 「造られたものを治める民」   宣教:   鎌野 直人  協力牧師
聖    書  : 創世記  1章26節~28節
東日本大震災に続く福島第一原発の事故は、福島県一帯を中心に甚大な土壌汚染を生み出している。環境を破壊している人の現実に対して教会はどのように向き合うことが求められているのだろうか。

1.神は天地を創造された
「初めに、神は天地を創造され」(創世記1章1節)、「万物をただ御子によって、御自分と和解させられ」(コロサイ1章20節)、「新しい天と新しい地」(黙示録21章1節)を終わりの日に創造される。このように、神のご計画は天地創造ではじまり、すべての造られたものの完成というゴールへと進んでいる。
しかし、世界が神の目指すゴールと真逆の方向に進んでいるように私たちは感じる。それは、神ご自身のかたちに造られた人(創世記1章:27節)がその使命を果たしていないからである。被造物が人の必要を満たそうと手を伸ばしているのに、人は万物のよき管理者として働こうとはしない。

2.教会の使命
神は人を御自身のかたちに創造され、地を従わせ、すべての造られたものを支配する使命を与えられた(1章28節)。つまり、神が愛をもってこの世界を王として治められているように、この世界を治めるために人は造られた。さらに、神は人を農夫として造り、土を耕し、守る使命を与えられた(2章15節)。人間は世界のすべてを自分の利益を生み出す道具と考えているが、この世界にいのちが満ちあふれるようにすべての造られたもの、特に「地」のしもべとして働くことこそが人の使命である。
すべての造られたものを治める使命が与えられている教会は、神が造られた世界を守り、キリストによってなされた万物との和解を実現する働きへと召されている。世界のよい管理人となることによって、新しい天と新しい地の前味を神の恵みによって今、この世界に現すことができるのだ。

主に新しい歌を(2011.7.10)

宣教題  : 「主に新しい歌を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 出エジプト  15章20節~21節
私たちは、普段から多くの賛美を歌っています。出エジプトに際してささげられた賛美は、聖書に登場する最初の賛美です(15章1~21節)。そこには、変わることのない賛美のスピリットが明らかにされています。

1.主に向かって
神の民は、今にもエジプトの軍隊に滅ぼされようかというところから、神の御手によって奇跡的に救われました。神の民もミリアムたちも、その「主に向かって」歌っています(1節、21節)。
当たり前のことですが、私たちは、讃美歌という歌をただ歌うというのではありません。賛美は主にささげられるものなのです。聖霊に満たされて、主に向かって心からほめ歌うのです(エフェソ5章18~19節)。

2.主の救いを感謝して
「女預言者」と言われたミリアムは、神のみこころを人々に伝えた人でした。彼女は、弟モ-セが用いられて「主は大いなる威光を現し」と、出エジプトという主の大いなる救いを感謝しています。
賛美は、敵に追い詰められた崖っぷちのイスラエルのように、罪のために滅びるべきであった私たちに注がれた神の愛と、救い主イエス・キリストの十字架と復活の救いを感謝して歌うことなのです。

3.主の御前に謙って
この神の民の賛美のスピリットは長続きしませんでした。荒野に導かれた彼らは、不信仰に陥り不平を述べています(16章2節)。また、ミリアムとアロンは、神が立てられた指導者モ-セに対する嫉妬と高ぶりを抱いて、主に賛美をささげることを忘れてしまいました。その後、彼らは悔い砕けた心を与えられ、回復の恵みにあずかりました(民数記12章1~16節、ミカ書6章4節)。
キリストの謙遜が、私たちの救いです。そしてキリストの救いが、私たちを謙遜に導きます。そこには、絶えることのない主への新しい賛美があります。

祭司の王国という使命(2011.5.22)

宣教題  : 「祭司の王国という使命」   宣教:     鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト記 19章1節~9節
なぜ、神はイスラエルをエジプトの手から救い出され、神の声に従うという型に生きることを求められたのか。それはイスラエルが「祭司の王国、聖なる国民となる」(19:6)ためである。「聖なる国民」とは神の所有の民(19:4)を、さらに神の声に従う生き方をする民(19:5)を表している。それでは「祭司の王国」とはどのような姿だろうか。

1.神を王とする
エジプトの王ファラオの支配下にあったイスラエルは、出エジプトを通してその父祖の神、天地の創造者である主を王とする民となった。教会は、この世を愛され、イエスを送られた方の支配下に生きる、神の王国の民である。しかし、キリスト者もこの神以外の何ものかの支配下に生きることがある。主が王となり、その王国に歩み続けない限り、キリスト者はイスラエルと同じ失敗を繰り返す(32章)。

2.祭司たちの群
祭司は、イスラエルとその神である主の間に立って主の祝福を取りなすために選ばれた人々である(民数6:23−27)。しかし、祭司が主の声に聞き従わなかった時、主は彼らを罰する(レビ10章)。そして、主の祝福は民には届かない。教会は神の祝福をこの世に取りなす祭司として立てられている。祝福となって地上の民を祝福するという約束(創世12:3)は、教会が主に従い続けることを通して実現する。
しかし、キリスト者がひとりぼっちでいるならば、この使命を果たすことはできない。「祭司たち」とあるように、お互いを助け、支え合う群だからこそ使命を果たすことができるのだ。霊の導きに従って歩み、霊の実を結ぶ命令は、個人ではなく教会に向けて語られ(ガラテヤ5:16)、お互いの間での挑み合いを禁じていることからも(同5:26)、支え合うお互いが教会の使命の完遂のために必須であることは明らかだ。

母よ、子よ(2011.5.8)

宣教題  : 「母よ、子よ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 出エジプト2章1節~10節 、ヘブライ11章23節
人は、愛されることによって安息を覚え、愛することによって満足を知ります。母と子の間において、愛され、愛することが培われていく信仰について、モ-セの母であるヨケベド(民数記26章59節)の信仰から学ぶことにします。

1.神に委ねる
エジプトで苦役を強いられたイスラエルの民は、団結力が強くなり、ますます数が増え広がっていきました(1章1~14節)。それに恐れをなしたエジプト王は、ヘブライ人で生まれた男の子はナイル川に放り込んで殺すように命じました(1章15~22節)。ここに、イスラエルの民の精神的・生命的な苦悩と危機は極限に達しました。
そのようなただ中に、後のイスラエルの解放者モ-セが誕生したのです。この苦悩の期間、彼の両親を支えたのは、神への「信仰によって」でした(ヘブライ11章23節)。神に自分たちの子を委ねるという道を選んだのです(2章1~3節)。このように「信仰によって」神の御手に委ねることは、私たちにとっては信仰の学課なのです。

2.神から託されている 
ヨケベドは、母親としての自然の感情と戦いながら、長女ミリアムに弟のモ-セを見守らせています。母親は、長女の機転によって再び自分の子を腕に抱き、乳を与えて育てることが許されました。彼女は、子どもが乳離れするまで、生ける神を教え、祈りつつ育てたのです(2章4~10節)。このことが、後にモ-セが神の民の救出に用いられる伏線となったのです(ヘブライ11章24~25節)。このようにしてヨケベドは、神がモ-セを自分に託して養育するようにされたとの信仰が確立されていったのです。
私たちは、全てのものを神から依託されていると信じる信仰に生きることが大切です。主イエス・キリストを信じる信仰を持っているということと、その信仰によって生きるということが同じでありたいものです。

主の宝の民となる(2011.4.7)

宣教題  : 「主の宝の民となる」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト記    19章1節~9節
主がなして下さった罪からの解放のわざを経験し続けることこそ、主と共に歩むキリスト者生涯の「型」に欠くことができない土台である。解放された民は、主の宝となる道を進む。

1.主の宝の民となる条件
主の宝の民となるための条件は、主の声に聞き従い、その契約を守ることである(19章5節)。これはその生き方において、これまでとは異なる、新しい型を学ぶことを意味する。意識的に選ばなくても、難しい訓練をしなくても、ガラテヤ5章19~21節に描かれている肉のわざを行うことができる。しかし、主の所有とされたキリスト者は、ガラテヤ5章22~23節に描かれている聖霊の実という「新しい型」を学ぶように招かれている。意識的に選びつづける訓練なしに、新しいこの型を身につけることはできない。
なぜ、このような型を学び、訓練する必要があるのだろうか。それは、主ご自身が「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」をもってご自身が創造された世界に関わり続けておられるからである。武道の型と同様に、主が働かれるその動線に従って、主の民はこの世界でからだを動かす。その結果、宝の民として主の働きに参加するという召命(19章5節)に応えることができるのだ。

2.律法主義?
この条件はいわゆる「律法主義」だろうか。そうではない。主が罪の奴隷から解放して下さっためぐみが私たちの内なるものを変え、それゆえに、聖霊の実という新しい生き方の型が私たちのからだに生み出されていく。あれができなかった、という減点主義で恐れおののく必要はない。解放という主のめぐみに応えて、喜んで、新しい生き方の型を選び続け、前にからだを伸ばすべきだ。
生き方の新しい型を選び続けていくとき、主の所有物であるこの全世界のまん中で主のわざに参加している、主の宝の民と成長する。きよめの生涯の成長をここに見いだすことができる。

鷲の翼に乗せられて(2011.3.27)

宣教題  : 「鷲の翼に乗せられて」   宣教:   鎌野 直人師
聖    書  : 出エジプト記   19章1節~9節
武道に「型」があるように、神と共なるキリスト者の歩みにもふさわしい「型」が存在する。この型は私たちを縛らず、神の導きに従って私たちが歩む事ができるようにする。旧約聖書と新約聖書で一貫し、その原型は出エジプト記19:4~6に描かれており、キリスト者生涯の過去、現在、将来をそこに見いだすことができる。キリスト者が覚えるべき過去について19:4から考えてみたい。

1. 主のもとに連れてこられる
シナイ山のふもとにイスラエルの民が連れて来られる(19:1)までに、様々なことが起こっている。主の召命によってパレスチナに来た父祖たちが、摂理の中でエジプトに導かれ、そこでパロの奴隷となってしまった。しかし、民の叫びを聞かれた主が、エジプトの王を十のわざわいで打ちのめし、その軍を葦の海での戦いで打ち破った。このようにして、主はエジプトの奴隷からイスラエルを解放した。それだけではなく、イスラエルの民は神のもとに連れて来られた。単に神のそばに来たのではなく、彼らは神の所有の民となった。
大切なことは、私たちを解放して下さり、神のものとされた過去の神のみわざに基づいてキリスト者ひとりびとりがあるという点である。

2.あなたたちは見た
しかし、神のわざが過去の事実では終わってはならない。神のわざを「見た」、すなわち経験することが強調されている。知的なものに止まらない。「君もそこにいたのか」とあるように、神のわざを臨場感をもって自分の体験とすることこそがキリスト者には必須である。
イスラエルの民であるならば五書を読み、まさに出エジプトの神のわざを体験する。キリスト者は福音書を読み、イエスの生涯と十字架と復活を弟子たちと共に目の当たりにする。これを日々体験し続けることのなしに神と共なる歩みはありえない。私たちは神の救いのわざを日々見ているだろうか。

ヨセフの骨(2011.1.9)

宣教題  : 「ヨセフの骨」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 50章22節~26節
聖書に登場する人物の多くは、信仰をもって神の深いご計画の中を歩んでいます。ヨセフに関しては、その信仰の生涯を総括して、『信仰によって・・・自分の遺骨について指示を与えました』(ヘブライ11章22節)と証言しています。これは、今日の私たちに何を語っているのでしょうか。

1.継承される信仰
ヨセフの骨は、出エジプトに際して、モ-セによって携えられていき(出エジプト13章19節)、ヨシュアによって約束の地が平定されたときに埋葬されました(ヨシュア24章32節)。これは、神の民が神の約束の地に導き入れられるまで、ヨセフの生涯を通してなされた神の御業に対する信仰の証しとメッセ-ジが彼らを導くことを明らかにしたのでした。
ヨセフの骨は、過去から現在、そして将来に受け継がれていく信仰の伝統を意味しています。私たちは、信仰の伝統から信仰のいのちを受け継ぐことが求められています。ですから、私たちは、受け継いでいる信仰の遺産を無視したり、変質させたり、無駄にしてしまうことのないようにすることが大切なのです。

2.生きた信仰
ヨセフは、波乱万丈の信仰の歩みをしました。その結果ヨセフは、出エジプトという大きな神の救いの計画につながる大切な役割を果たしたのです。
ヨセフを支えたものは、いかなる時にも主が彼と共におられたことでした(39章)。主の臨在信仰は、あらゆる不安、不公正、試練に耐える力を与えるのです。さらに、真実な神は、人の意図や画策や悪意すらもすべて最善に導かれました(45章5節、50章19~21節)。真実な神への摂理信仰は、人を神の器としてに用いるのです。
生きた信仰とは、何をしたかではなく、何を信じたか、いかに信じたか、いかに生きてその信仰を証ししたかです。生きた信仰が受け継がれていくとき、その信仰は偶像化されることはないのです。

起きよ、光を放て(2010.12.26)

宣教題  : 「起きよ、光を放て」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : イザヤ  59章21節~60章3節
私たちは、イエス・キリストの救いの恵みに対して、いつも信仰によって応答していくことが求められています。それは、「起きよ、光を放て」と立ち上がらせていだくことであり、まことの光であるキリストをこの世に持ち運ぶ者に造り変えていただくことです。

1.光である主に引き寄せられている 
主なる神は、罪ゆえに神の恵みを受けられないでいる者に対して(59章1~2節)、執り成し、燃えるような情熱をもって、ご自身の方から救いの手を差し伸べられました(59章16~17節)。ここに、初臨のキリストが預言されています。また、全世界を支配される栄光の輝きをもって「贖う者」として来られます(59章18~20節)。ここに、再臨のキリストが預言されています(60章19~20節)。
私たちは、自ら輝くことはできませんが、主に引き寄せられ、主の栄光に照らされて輝く者となるならば(60章1~2節)、他者もその感化を受けて光なる主に引き寄せられていくのです(60章3節)。闇の中から起き上がり、主なる神の光を放つ者となりましょう。

2.御言葉の光に照らされ続けている 
主なる神は、人が持っている力によってではなく、神の霊が伴う神の御言葉の力によって、ご自身の光を放ち続けられます。そのためには、人は自らの不信仰と不従順の罪を悔い改めることが大切です(59章20~21節)。
いつの時代であっても、聖霊が働かれるところには、御言葉が語られ、それが聴かれ、その実が結ばれていきます。御言葉に聴従しているならば、そこには聖霊が働いておられるのです。
神の子とされた私たちは、御言葉の光に照らされ続けて、「起きよ、光を放て」との主なる神の招きに、信仰による応答をしていきましょう。

実を結ぶ若木(2010.11.14)

題   : 「実を結ぶ若木」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記   49章22節~26節
ヤコブは、その臨終に際してヨセフに祝福の言葉を述べています。ヨセフの生涯は波瀾万丈に満ちていましたが、神への信仰によって「実を結ぶ若木」となって祝福されたのです。

1.いのちを得させる神によって
幼かったヨセフは、父ヤコブと伯父ラバンとの不仲な関係を知ったことによる不安(創世記31章)、ヤコブと神との格闘やエサウとの和解を通して知った強烈な印象(同32~33章)、兄たちが報復の殺害をしたことによる恐れ(同34章)、ヤコブの一夫多妻がもたらした家庭悲劇などを経験して心を痛めたことでしょう。さらに、若い時のヨセフが、兄たちの妬みによってエジプトに奴隷として売られるという悲惨な経験をしました(同37章)。
そんなヨセフが、「泉のほとりの実を結ぶ若木」となったのです(詩編1編3節)。それはちょうど、神のいのちのない世界に生きていた者が、恵みによって神の世界に移されて、神のいのちに生きる者となったことを意味しています。それは、ただ信仰によって受け取るものなのです。

2.共に歩まれる神によって
ヨセフは、「主が共におられたので」幸運な人となり、人からの信用も勝ち取りました。また、誘惑に際しても勝利し、言われなき訴えにも主の支えがありました(創世記39章)。境遇は変わっても、ヨセフと共におられた神は変わらないお方です。続いての失望と孤独の中で信仰が萎える時にも、神に励まされて神に祈ることは衰えませんでした(同40章、イザヤ62章6節)。
ヨセフは、エジプトの責任者となった時も、永遠に変わらない全能の神の前を歩み、自らも他者もすべて神の御手にあることを覚えて、人を恨まず、さばかず、常に神から与えられた立場と使命に生きたのです。主が共に歩んでくださってこそ、「その枝は石垣を超えて伸びる」生涯となるのです。

祝福を祈る(2010.9.12)

題   : 「祝福を祈る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  48章1節~4節 15節~19節
長生きは、神の祝福です。喜び、人生の厚み、神の恵みといったことは、長生きする中から深く分からさせていただけるからです。
ヤコブは、147歳まで長生きし(創世記47章28節)、その晩年において子どもたちや孫たちに祝福の祈りをしています(ヘブライ11章21節)。

1.牧者なる神への祈り
ヤコブは、エジプト王の前に立たされたとき、自分の生涯を振り返って「苦しみ多く」と語っています(創世記47章9節)。彼の一生は、時に禍に振り回され、人の策略に苦しみ、子どもたちの勝手な生き方の犠牲となり、生きた年数を重ねた分だけ苦しみました。
ヤコブは、そのような背後に、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」(48章15節)と告白できる神を体験的に知っていました。このお方は、アブラハムやイサクが信頼して「その御前を歩んだ神」(同15節)であり、ヤコブを「あらゆる苦しみから贖われた」お方でした(同16節)。
私たちは、今日まで導かれた牧者なる神を証しし続けたいものです。

2.最大のとりなしの祈り
ヤコブは、その生涯を閉じるに当たり、人生最後の仕事をしました。彼は、全能の神によって自分が祝福されただけではなく、自分が祝福の源となって、「力を奮い起して」息子ヨセフと孫たちを祝福したのでした(48章1~4節)。その行為は、神の約束に堅く立って神を礼拝し、後に続く者に神の祝福を祈るということでした。
ヤコブは、財産や何らかの教えを残したのではなく、自分が信じてきた神の恵みと神への信仰を残したのでした(1コリント15章10節)。以前は利己的なヤコブでしたが、今や祝福の器として召されていったのです。
私たちは、神の祝福を祈り、神の恵みを証しし続ける父親また母親、祖父母でありたいものです。

神が願っておられること(2010.8.15)

宣教題  : 「神が願っておられること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 32章23節~33節
ここには、かつて弟ヤコブの偽りと裏切りを恨んで殺意を抱いた兄エサウと、それを恐れて不安の日々を送った弟ヤコブが登場します。このような戦いや争いは、人の内にある欲望から生まれるものです(ヤコブ4章1~2節)。
神は、ヤコブのような性質を持つ私たちに何を願っておられるのでしょうか。

1.人の顔を恐れないで
ヤコブは、かつて神の祝福の約束をいただいて信仰の歩みを始めましたが(28章15節)、その時から20年過ぎたこの時に至るまで、大きな悩みと恐れの中を歩んでいました。成功をおさめたヤコブの記憶の底にあったものは、エサウの怒りに満ちた顔でした。それを思い出すたびごとに、彼はエソウをだまして長子の権利を奪った自分の醜さに気づかされたのでした。
ヤコブ一行が渡った「ヤボク」とは、格闘という意味があります。彼はエサウの怒りをなだめるために、多くの人間的策略をしつつ、自らはヤボクの渡しに残って祈りの格闘をしたのでした(23~25節)。
私たちは、人の顔を恐れて様々な策略をめぐらしますが、根本的な解決にはならないことを知る必要があります(箴言29章25~26節)。

2.神の顔を仰ぎ見よ
神は、ご自身と祈りの格闘をするヤコブを愛されました。神は、ヤコブの求めに対して屈してくださるお方でした(26~27節、ルカ24章29節参照)。ここに、求める者に対する神の謙遜があり、神の愛があります。
続いて神が「お前の名は何というのか」とヤコブに尋ねられたのは、彼が自分の本当の姿を直視できるようにするためでした。そして、神によって新しく変えられる恵みへと彼を導かれたのです(28~29節)。ヤコブは、神の顔を仰ぎ見て、そのご支配に自らを委ねたのでした(30~31節)。
神が最も願っておられることは、祈りの格闘ができるほどの情熱ある信仰と、あるがままの真の自分を認めて十字架の主にすがりつく砕かれた心です。

祈りと涙(2010.6.13)

宣教題  : 「祈りと涙」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 21章9節~21節
ハガルが「声をあげて泣いた」(16節)とあることに代表されるように、涙を流したことがないという人はいないのではないでしょうか。そのような中で、人が神の御前で涙を流すときには、それが祈りとなる経験をします。それはまた、神がどういうお方であるかを知る経験ともなるのです。

1.顧みられる神
これより先にアブラハムは、妻サラとの間に子が与えられなかったために、女奴隷ハガルとの間に子をもうけることになりました。
その結果、この家族は複雑な関係となりました。神が荒野に逃亡するハガルに、歩むべき道と息子イシュマエルの将来を予告された時、ハガルは「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)」と告白しました(16章1~13節)。このように体験的に神を知ったハガルは、その後の彼女の生涯に多大の影響を与えたのです。
やがて、イシュマエルが誕生し、またイサクが誕生すると、状況は悪化しました。ハガルとイシュマエルは追い出され、彼らはあてどもなく荒野をさまようことになりました。彼女は、人生の理不尽さや無情そして自らの無力さを悲しみ、「声をあげて泣いた」のでした(21章9~16節)。
しかし、こうした涙を顧みられる神は、その涙を貴いものとして蓄え、記録しておかれるのです(詩編56編9節)。
2.祈りを聞かれる神
息子イシュマエルは、泣いている母ハガルを見て、代わりに祈っています。神は、その祈りを聞かれたのです(17節)。神は、祈っているイシュマエルと、祈られているハガルの間に立っておられたのです。
ところで、主イエスは、私たちの人生の悲しみ、痛み、罪の苦悩を、涙を流しながら受けとめ、その祈りを聞いてくださるお方です(ヨハネ11章35節、ヘブライ5章7節)。
泣く者がいて、共に涙する者がいます。祈る者がいて、祈られる者がいます。その間に主イエスが立っていてくださるのです。これが、教会の家族なのです。