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新約聖書

生きることはキリスト(2008.2.24)

題   : 「生きることはキリスト」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  1章12節~26節
パウロ先生は、自分が獄中にとらわれている時にも、神様によって愛され、神の愛のふところに捕われている実感をもっているために、いつも周囲の人たちを愛の心をもって励ますことができたのです。

1.福音の前進
パウロは、自分が捕われて牢獄にいることも前向きに捕らえています。それは彼が捕われの身でありながら、看守や牢獄の中にいる犯罪者たちにもイエス・キリストについて語り続けたために、福音が兵隊たちの間にも知られ、救われる者が起こされるほどでした。
わたしたちは小さな困難も愚痴やひがみの原因にすることが多い者です。しかし、困難も福音の前進に役立つように求めるべきです。

2.愛の動機
わたしたちが福音を伝えるのはどこに動機があるでしょう。パウロの時代も現代も同じような動機があります。
ある人たちは、伝道をすることさえ自分の利益のために、つまり自分が人からほめられたいためにしています。
このような人々は、伝道や主のための奉仕でさえ自分の見栄のためにしています。このような人は、ほめられると奉仕をしますが、人に認められなかったらしなかったり、不満をおぼえたりします。

3.生きるとはキリスト
「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」とパウロは言います。わたしたちの生きている意味はどこにあるでしょう。
わたしたちは、神のご愛のゆえに、キリストの十字架によって罪ゆるされ、復活によって新しい命に生かされ、神に導かれ、神と共に歩むお互いです。
つまりわたしたちは、キリストから離れては一瞬たりとも生きることはできないはずです。キリストを信じるということは、キリストと共に生きるということです。
本気でキリストと共に生きましょう。

目標を目指して(2008.2.3)

題   : 「目標を目指して」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  3章12節~21節
本日は、教会総会の礼拝でもありますので、1月6日の新年礼拝で語った同じ箇所の、今年の標語の箇所から導かれています。さて、わたしたちは新年を迎えて一ヶ月を送り、どれほどの前進が出来たでしょう。一年間を振り返るときに神様の前にも、自分自身にも喜び、感謝のできる目標に向かって近づけるものでありましょう。

1.キリストに捕らえられているわたしたち
パウロは、熟練し、聖徒として練り上げられ、不純物を取り除けられ、キリストの形に造り上げられたかと思える大聖徒が「既に完全な者となっているわけでもありません」と言っています。
しかし、パウロは「捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と言います。
わたしたちもキリストに捕らえられたお互いです。捕らえられたものらしい生き方をしたいものです。

2.完全な者にされているわたしたち
キリストに捕らえられているということは、キリストの完全な救いに与かった者です。そのような特権に与ったわたしたちは、毎日、ひたすら走ることが大切です。
完全な救いすなわち、完全な神の子どもにされたわたしたちです。そのわたしたちがさらに神様からの賞が与えられると言うのです。あのパウロの言う「義の冠」(2テモテ4:8)であり「命の冠」(ヤコブ1:12)、「栄冠(栄光の冠)」(1ペテロ5:4)です。

3.本国の備えられたわたしたち
先の賞をいただいたわたしたちは、主イエス・キリストのおられる御国に入れて頂ける特権が与えられていますが、そこは、新しい命をいただいて神の子とされた者たちの本国なのです。
しかも、イエス・キリストはそこから再臨されます。わたしたちが御国に移される前に再臨があれば、また感謝なことに約束の御国に移していただけるのです。
この地上においてこうした、このような輝く目標の与えられた恵を覚えて教会の前進、成長を願い、愛と平和に輝く神戸中央教会として頂きましょう。

信仰の前進(2008.1.6)

題   : 「信仰の前進」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピの信徒への手紙 3章12節~16節
今日は、教会の標語である「信仰の前進」から語らせていただきます。パウロは、わたしたちから見れば完成された信仰者で、だれも近づくことの出来ないほど偉大な聖徒だと思われます。
しかしパウロは「わたしは、既に完全な者になっているわけでもありません。」と告白しています。ここに信仰の成長の秘訣があります。つまり、「自分は既に完成された者である。」というところには成長は望めないのです。
パウロはここで、完成を目指すクリスチャンを競技場でゴールを目指して走るスポーツ選手にたとえています。

1.後ろのものを忘れて走る
かつての経験、かつては熱心であったことはあまり重要ではありません。神様は今あなたがどのような信仰生活を送っているかに興味をもたれます。
かつての栄光にしがみついていては前に進みません。かつての罪や弱さを引きずっていては走れません。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ12:1)。

2.目標を目指して走る
マラソンのような長距離走でも、短距離走でも選手の目標はゴールです。ここでパウロの示すゴールは、キリストの復活の力と喜びに与ることです。さらに賞を得るために走るのです。ここでいう賞とはパウロの言う「義の栄冠」(2テモテ4:8)です。
ひたすら目標を目指しましょう。先日ベラカで学んだロトの妻のように、後ろを振り返ることなく走るのです。

3.完全な者として走る
完全な者になっているわけではありませんと言いながら、ここでは「完全な者は」と言っておられます。
わたしたちは完全な救い、すなわち、イエスキリストの完全なあがないの十字架と復活という救いに与った者です。そうであれば、完全な救いに与った者らしく信仰生活を走り抜きましょうと言うのです。

聖霊による洗い(2007.1.28)

題 : 「聖霊による洗い」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : テトスへの手紙  3章 1節~ 7節
  この世は、無分別、不従順、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎みあっています。しかし、これらのことはわたしたちがクリスチャンとしていただく前に持っていたものに他なりません。
 そのために、これらの結果から生まれる罪のために悩み苦しんでいました。しかし、御子イエス・キリストの十字架と復活という、神の最高最善のご愛があらわされたことによって、信じる者が救われ、この大きな悩み苦しみから解放されるという、すばらしい恵みに与らせていただいたのです。

1.新生の洗い
 神はわたしたちを新しく造りかえるために、イエス・キリストを十字架にかけて下さいました。そのところで惜しげもなく流された血潮によって、わたしたちの罪が洗われたのです。
 また「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリ12:3)とあるように、この十字架の血潮による救いも聖霊の洗いであるということができます。

2.心の内側の洗い
 神は、わたしたちを罪からの救いの洗いをなしてくださったのみならず、洗いの聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださったというのです。なんという喜び、何という祝福でしょう。わたしたちの魂の内側までもきよめてくださるのです。
 父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神を信じる者のうちに実現される聖潔(きよめ)と言う魂の洗いをわたしたちは実体験させていただいているでしょうか。
すでに完成された、神の憐れみによる救いを信じ受け止めましょう。

3.洗いの結果
 聖霊の洗いを受けた者は、永遠の命の保証をいただくことができるのです。なぜなら、自分の行いや、善行によってではなく、ただキリストの十字架と、聖霊の洗いによって義とされたからです。したがって、死に直面する時も恐れを持つことなく、喜びと平安をもって、天国を望むことができるのです。

キリストがあがめられますように(2007.1.14)

題  :「キリストがあがめられますように」  
宣教 :仁科 共子師
聖書 :ルカによる福音書 5章1節~11節
  MSIの中国での働きのため、私のMSIでの働きのためお祈りいただきご支援いただいておりますことを感謝いたします。どのような働きも聖徒たちの祈りと献げものによって支えられ,また神様がその全てを用いておられることを覚え感謝いたします。

1.全てのことはキリストのため
パウロは彼の身におこる全てのことは神様の御手の中にあり,福音が前進するためであるという理解をしていました。ここに神様に対する信仰の目で全ての出来事をうけとめる姿勢があります。監禁されていることすらもキリストのためであり,このことが用いられているのを体験していました。
私も日々の生活と働きのなかで“ 神様がいつも共に働いておられる ”ということをたびたび教えられました。

2.キリストを告げ知らせている
福音を伝えるとはキリストを告げ知らせることです。それは言葉を通してだけではなく,クリスチャンを通して伝えられて行きます。

3.わたしの身によってキリストがあがめられるように
キリストのものとされたクリスチャンによってキリストが証しされ、あがめられていきます。わたしと共におられ,わたしのうちに生きておられるキリストがわたしの身によってあがめられますように。福音にふさわしい生活を送らせていただけますように。

沖に漕ぎ出せ(2007.1.7)

題 : 「沖に漕ぎ出せ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書: ルカによる福音書 5章1節~11節
  元旦礼拝にお会いできなかった方もおられますので、改めて「明けましておめでとうございます。本年も神様がみなさまを祝福くださいますようにお祈りします」
 ルカによる福音書5章4節には、今年の神戸中央教会の目標と重なり合う部分が多くあります。この記事によれば、後に驚くほどの大漁を見たのです。しかしここで、わたしはイエスの奇跡の中にわたしたちに与えられる大きな教訓を見ます。

1.教え始められた
 この時イエスはシモン・ペトロの船に乗り込まれました。わたしたちの領域にイエスはおられますか?あなたの家庭に、あなたの職場に、あなたの心の中にイエスは乗り込んでおられますか?わたしたちは主のお働きに与るためには、主のみ教えを聞く必要があります。主のみ言葉を聞かないで事を始めても何も得ることはできません。

2.沖へ漕ぎ出せ
 イエスのみ教えを聞いたら次にイエスのご命令に耳を傾けましょう。イエスは「沖へ漕ぎ出せ」と言われます、今年、あなたは今の浅瀬で満足していてはいけません。沖へ漕ぎ出すのです。もっと信仰生活に本気になるのです。
 今まで自分勝手に網を降ろしていませんでしたか?沖へ出て、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、イエスが言われる通りに従って行動をすると、主の不思議な奇跡を見せていただくことができます。

3.人間をとる漁師
 思いがけない大量を見せられた時、シモン・ペトロは自分の弱さに気付くと共に、罪深さにも気付きました。それでイエスの前にひれ伏したのです。
 あなたは、何かに成功した時、思い通りになった時自分の力を誇りますか、それともイエスのみ業のすばらしさを認め自分のちっぽけさを認めますか?
 自分の弱さと足りなさ、汚れを認める時、イエスは十字架の血潮でゆるし、永遠の命を与え、さらに神に喜ばれる清い心を与えてくださるのです。
 そしてわたしたちは、滅びに向かっている人々に福音を述べ伝え、イエスのもとに人々をお連れする者にしていただくのです。