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新約聖書

力に溢れて(2008.4.6)

題   : 「力に溢れて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 4章10~14節  2コリント 12章9~10節
私たちが、『わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたいのです』と言い表すことができるのは、『わたしの惠みはあなたに十分である』と宣言してくださるキリストによって出来るのです。私たちは、満ち足りた中でも渇き求めて生きるのです。

1.キリストの「愛の力」に満ちている
ここで言われている満足は、悟りとか精神修養の類ではなく、また特別な信仰者が身につけているというものでもありません。全てのキリスト者に与えられています。それは、『わたしを強めてくださる方』が私たちの全てをご支配してくださるとき、すなわちダイナマイトのように力ある『キリストの力がわたしたちの内に宿る』ことによって可能となるのです。
このキリストの力は、愛の力です。私たちが、この愛の力によって満ち足りていないと、他の人や環境に責任転嫁をしたり、トラブル・メ-カ-となったりしかねません。キリストの愛の力によって、真に実力あるキリスト者また教会とさせていただきましょう。

2.キリストの「惠みの力」で十分である
私たちがキリストの惠みの力で十分であれば、どんな境遇にあっても満足することができます。その惠みの力は、『弱さの中でこそ十分に発揮される』のです。
だれもが持っている弱さは、罪と死に自分で打ち勝つことが出来ないということです。その罪を担われたキリストの十字架と、罪の結果である死に完全に勝利されたキリストの復活において、キリストの惠みの力が最大に発揮されました。

私たちがこの惠みにあずかり続けるなら、自分の人生を肯定して受け入れることができます。また、生きる力が湧いてきます。
そして、ゆるす力、愛する力、祈る力、伝道する力、献げる力、奉仕する力が生まれてきます。『わたしを強めてくださる方』に主役になっていただき、私たちが脇役に徹していくことが、一切の力に溢れる歩みの秘訣です。

主を見て喜んだ(2008.3.23)

題   : 「主を見て喜んだ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : ヨハネによる福音書 20章19節~23節
イエス様が墓に葬られて三日目の朝、マグダラのマリアはイエス様がよみがえられて空っぽになったお墓を見て、ペトロともう一人の弟子に伝えました。彼らもお墓を見て、不思議に思いながら家に帰って行きました。しかし、マグダラのマリアは墓に留まっていました。このようなマリアにイエスはご自身を現して下さったのです。

1.心にかかる鍵
マリアは「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えました。しかし弟子たちは人を恐れて、家の鍵をかけて中に隠れていました。しかし、そんな家の中に復活のイエス様が入ってこられたのです。そして「あなた方に平和があるように(シャローム)」と言われました。
ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様を見捨てて逃げ出した弟子たちに、なんと優しく語りかけられたことでしょう。わたしたちがどんな困難や問題の中にあっても、心を固く閉ざしていても、心に来てくださるお方です。

2.主を見て喜んだ
イエス様は、弟子たちに手とわき腹を見せられました。そこには釘穴があり、わき腹には槍で突き刺された大きな傷がありました。紛れも無くイエス様です。
弟子たちは、この時初めて喜んだのです。この「喜んだ」には歓喜した、大喜びをしたという意味があります。わたしたちもどのような状態にあっても、死に勝利された復活のイエス様が共に居てくださるなら、神からの平和が与えられるのです。

3.使命に生かされる
主を見て喜んだ弟子たちに、もう一度「平和があるように」と語られました。そして続いて「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。
イエス様は弟子たちに最高に崇高な使命を与えられたのです。弟子たちにはこの使命を果たす力はありません。ましてわたしたちにはそのような力はありません。
しかし、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。弟子たちがその使命を達成するために必要なことをしてくださったのです。

不信仰で無力なわたしたちを用いるために、聖霊が今日も与えられています。復活のイエス様を喜び、愛し、愛する人々に福音を伝えさせて頂きましょう。

キリストに倣って(2008.2.24)

題   : 「キリストに倣って」   宣教:  鎌野 善三 牧師
聖書  : フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節
キリスト教の中心は、キリストご自身です。クリスチャンは、常にキリストご自身を意識し、このお方の生き方に倣って歩む必要があります。パウロは、フィリピ教会の信徒たちに、そのような歩みがどういうものかを次のように解き明かします。

1.同じ思いとなる
私たちは、そんなに熱心なクリスチャンでないかもしれません。けれど「幾らかでも、キリストによる励まし」があるのなら、「同じ思い」となるように努めましょう。主が私たちのために命を捨ててくださったことを思うとき、私たちも他の人々のために、幾らかでも犠牲を払う生き方ができるのです。フィリピ教会にも意見の対立があったと思われますが(4:2参照)、どの教会もそんな問題を抱えています。しかし、主イエスに倣うなら必ず一致でき、みんなの「喜びが満たされる」のです。

2.へりくだる
一致の妨げとなるのは、利己心と虚栄心です。逆に一致をもたらすのは「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることです。自分ができないことを他の人がやってくれていると考えるとき、教会は生きた「キリストのからだ」となります。へりくだるとは、「自分は何もできない」と言うのではなく、積極的に「他人のことにも注意を払う」ことです。もし何かをして「ありがた迷惑だ」と言われたときに、「ごめんなさい」と言えることこそ、本当のへりくだりです。

3.神に従う
主ご自身がへりくだりの最高の模範を示して下さいました。神の身分でありながら、自分を無にして、人間と同じ者になられました。さらに主は、父なる神の御心に従って、十字架の死に至るまで従順であられたのです。神の子であるお方さえ従われたのですから、私たちも当然そうすべきです。聖書を通して、悔い改めるべきことを示されたなら、奉仕の姿が問われたなら、献身の招きがあったなら、従順にその声に聞き従いましょう。従う者に、神は豊かな報いを用意しておられます。

キリストのことを思う機会が多ければ多いほど、私たちはこのお方に似たものとされます。本来私たちは、神の姿に似せて創造されたのですから。

生きることはキリスト(2008.2.24)

題   : 「生きることはキリスト」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  1章12節~26節
パウロ先生は、自分が獄中にとらわれている時にも、神様によって愛され、神の愛のふところに捕われている実感をもっているために、いつも周囲の人たちを愛の心をもって励ますことができたのです。

1.福音の前進
パウロは、自分が捕われて牢獄にいることも前向きに捕らえています。それは彼が捕われの身でありながら、看守や牢獄の中にいる犯罪者たちにもイエス・キリストについて語り続けたために、福音が兵隊たちの間にも知られ、救われる者が起こされるほどでした。
わたしたちは小さな困難も愚痴やひがみの原因にすることが多い者です。しかし、困難も福音の前進に役立つように求めるべきです。

2.愛の動機
わたしたちが福音を伝えるのはどこに動機があるでしょう。パウロの時代も現代も同じような動機があります。
ある人たちは、伝道をすることさえ自分の利益のために、つまり自分が人からほめられたいためにしています。
このような人々は、伝道や主のための奉仕でさえ自分の見栄のためにしています。このような人は、ほめられると奉仕をしますが、人に認められなかったらしなかったり、不満をおぼえたりします。

3.生きるとはキリスト
「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」とパウロは言います。わたしたちの生きている意味はどこにあるでしょう。
わたしたちは、神のご愛のゆえに、キリストの十字架によって罪ゆるされ、復活によって新しい命に生かされ、神に導かれ、神と共に歩むお互いです。
つまりわたしたちは、キリストから離れては一瞬たりとも生きることはできないはずです。キリストを信じるということは、キリストと共に生きるということです。
本気でキリストと共に生きましょう。

目標を目指して(2008.2.3)

題   : 「目標を目指して」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  3章12節~21節
本日は、教会総会の礼拝でもありますので、1月6日の新年礼拝で語った同じ箇所の、今年の標語の箇所から導かれています。さて、わたしたちは新年を迎えて一ヶ月を送り、どれほどの前進が出来たでしょう。一年間を振り返るときに神様の前にも、自分自身にも喜び、感謝のできる目標に向かって近づけるものでありましょう。

1.キリストに捕らえられているわたしたち
パウロは、熟練し、聖徒として練り上げられ、不純物を取り除けられ、キリストの形に造り上げられたかと思える大聖徒が「既に完全な者となっているわけでもありません」と言っています。
しかし、パウロは「捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と言います。
わたしたちもキリストに捕らえられたお互いです。捕らえられたものらしい生き方をしたいものです。

2.完全な者にされているわたしたち
キリストに捕らえられているということは、キリストの完全な救いに与かった者です。そのような特権に与ったわたしたちは、毎日、ひたすら走ることが大切です。
完全な救いすなわち、完全な神の子どもにされたわたしたちです。そのわたしたちがさらに神様からの賞が与えられると言うのです。あのパウロの言う「義の冠」(2テモテ4:8)であり「命の冠」(ヤコブ1:12)、「栄冠(栄光の冠)」(1ペテロ5:4)です。

3.本国の備えられたわたしたち
先の賞をいただいたわたしたちは、主イエス・キリストのおられる御国に入れて頂ける特権が与えられていますが、そこは、新しい命をいただいて神の子とされた者たちの本国なのです。
しかも、イエス・キリストはそこから再臨されます。わたしたちが御国に移される前に再臨があれば、また感謝なことに約束の御国に移していただけるのです。
この地上においてこうした、このような輝く目標の与えられた恵を覚えて教会の前進、成長を願い、愛と平和に輝く神戸中央教会として頂きましょう。

信仰の前進(2008.1.6)

題   : 「信仰の前進」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピの信徒への手紙 3章12節~16節
今日は、教会の標語である「信仰の前進」から語らせていただきます。パウロは、わたしたちから見れば完成された信仰者で、だれも近づくことの出来ないほど偉大な聖徒だと思われます。
しかしパウロは「わたしは、既に完全な者になっているわけでもありません。」と告白しています。ここに信仰の成長の秘訣があります。つまり、「自分は既に完成された者である。」というところには成長は望めないのです。
パウロはここで、完成を目指すクリスチャンを競技場でゴールを目指して走るスポーツ選手にたとえています。

1.後ろのものを忘れて走る
かつての経験、かつては熱心であったことはあまり重要ではありません。神様は今あなたがどのような信仰生活を送っているかに興味をもたれます。
かつての栄光にしがみついていては前に進みません。かつての罪や弱さを引きずっていては走れません。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ12:1)。

2.目標を目指して走る
マラソンのような長距離走でも、短距離走でも選手の目標はゴールです。ここでパウロの示すゴールは、キリストの復活の力と喜びに与ることです。さらに賞を得るために走るのです。ここでいう賞とはパウロの言う「義の栄冠」(2テモテ4:8)です。
ひたすら目標を目指しましょう。先日ベラカで学んだロトの妻のように、後ろを振り返ることなく走るのです。

3.完全な者として走る
完全な者になっているわけではありませんと言いながら、ここでは「完全な者は」と言っておられます。
わたしたちは完全な救い、すなわち、イエスキリストの完全なあがないの十字架と復活という救いに与った者です。そうであれば、完全な救いに与った者らしく信仰生活を走り抜きましょうと言うのです。

聖霊による洗い(2007.1.28)

題 : 「聖霊による洗い」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : テトスへの手紙  3章 1節~ 7節
  この世は、無分別、不従順、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎みあっています。しかし、これらのことはわたしたちがクリスチャンとしていただく前に持っていたものに他なりません。
 そのために、これらの結果から生まれる罪のために悩み苦しんでいました。しかし、御子イエス・キリストの十字架と復活という、神の最高最善のご愛があらわされたことによって、信じる者が救われ、この大きな悩み苦しみから解放されるという、すばらしい恵みに与らせていただいたのです。

1.新生の洗い
 神はわたしたちを新しく造りかえるために、イエス・キリストを十字架にかけて下さいました。そのところで惜しげもなく流された血潮によって、わたしたちの罪が洗われたのです。
 また「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリ12:3)とあるように、この十字架の血潮による救いも聖霊の洗いであるということができます。

2.心の内側の洗い
 神は、わたしたちを罪からの救いの洗いをなしてくださったのみならず、洗いの聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださったというのです。なんという喜び、何という祝福でしょう。わたしたちの魂の内側までもきよめてくださるのです。
 父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神を信じる者のうちに実現される聖潔(きよめ)と言う魂の洗いをわたしたちは実体験させていただいているでしょうか。
すでに完成された、神の憐れみによる救いを信じ受け止めましょう。

3.洗いの結果
 聖霊の洗いを受けた者は、永遠の命の保証をいただくことができるのです。なぜなら、自分の行いや、善行によってではなく、ただキリストの十字架と、聖霊の洗いによって義とされたからです。したがって、死に直面する時も恐れを持つことなく、喜びと平安をもって、天国を望むことができるのです。

キリストがあがめられますように(2007.1.14)

題  :「キリストがあがめられますように」  
宣教 :仁科 共子師
聖書 :ルカによる福音書 5章1節~11節
  MSIの中国での働きのため、私のMSIでの働きのためお祈りいただきご支援いただいておりますことを感謝いたします。どのような働きも聖徒たちの祈りと献げものによって支えられ,また神様がその全てを用いておられることを覚え感謝いたします。

1.全てのことはキリストのため
パウロは彼の身におこる全てのことは神様の御手の中にあり,福音が前進するためであるという理解をしていました。ここに神様に対する信仰の目で全ての出来事をうけとめる姿勢があります。監禁されていることすらもキリストのためであり,このことが用いられているのを体験していました。
私も日々の生活と働きのなかで“ 神様がいつも共に働いておられる ”ということをたびたび教えられました。

2.キリストを告げ知らせている
福音を伝えるとはキリストを告げ知らせることです。それは言葉を通してだけではなく,クリスチャンを通して伝えられて行きます。

3.わたしの身によってキリストがあがめられるように
キリストのものとされたクリスチャンによってキリストが証しされ、あがめられていきます。わたしと共におられ,わたしのうちに生きておられるキリストがわたしの身によってあがめられますように。福音にふさわしい生活を送らせていただけますように。

沖に漕ぎ出せ(2007.1.7)

題 : 「沖に漕ぎ出せ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書: ルカによる福音書 5章1節~11節
  元旦礼拝にお会いできなかった方もおられますので、改めて「明けましておめでとうございます。本年も神様がみなさまを祝福くださいますようにお祈りします」
 ルカによる福音書5章4節には、今年の神戸中央教会の目標と重なり合う部分が多くあります。この記事によれば、後に驚くほどの大漁を見たのです。しかしここで、わたしはイエスの奇跡の中にわたしたちに与えられる大きな教訓を見ます。

1.教え始められた
 この時イエスはシモン・ペトロの船に乗り込まれました。わたしたちの領域にイエスはおられますか?あなたの家庭に、あなたの職場に、あなたの心の中にイエスは乗り込んでおられますか?わたしたちは主のお働きに与るためには、主のみ教えを聞く必要があります。主のみ言葉を聞かないで事を始めても何も得ることはできません。

2.沖へ漕ぎ出せ
 イエスのみ教えを聞いたら次にイエスのご命令に耳を傾けましょう。イエスは「沖へ漕ぎ出せ」と言われます、今年、あなたは今の浅瀬で満足していてはいけません。沖へ漕ぎ出すのです。もっと信仰生活に本気になるのです。
 今まで自分勝手に網を降ろしていませんでしたか?沖へ出て、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、イエスが言われる通りに従って行動をすると、主の不思議な奇跡を見せていただくことができます。

3.人間をとる漁師
 思いがけない大量を見せられた時、シモン・ペトロは自分の弱さに気付くと共に、罪深さにも気付きました。それでイエスの前にひれ伏したのです。
 あなたは、何かに成功した時、思い通りになった時自分の力を誇りますか、それともイエスのみ業のすばらしさを認め自分のちっぽけさを認めますか?
 自分の弱さと足りなさ、汚れを認める時、イエスは十字架の血潮でゆるし、永遠の命を与え、さらに神に喜ばれる清い心を与えてくださるのです。
 そしてわたしたちは、滅びに向かっている人々に福音を述べ伝え、イエスのもとに人々をお連れする者にしていただくのです。