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新約聖書

聖書と神の力(2010.7.11)

宣教題  : 「聖書と神の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  12章18節~27節
主イエスは、復活はないと理解していたサドカイ派の人々に対して、「あなたたちは大変な思い違いをしている」(24節、27節)と言われました。それは、単なる思い違い以上に、大いに誤っている、とんでもない所に迷い出ているという意味です。その理由は、「聖書も神の力も知らないから」でした。

1.神の力を知らない  25節
サドカイ派の人々は、モ-セ五書に明記されている御言葉だけに立つという立場でした。彼らは、家系と財産を保存するための規定を用いて(申命記25章5~10節)、復活はないと議論をしかけてきたのです(マルコ12章19~23節)。それに対し主イエスは、あらゆる領域において生きて働いておられる神の力を知らないから、聖書が語る教えに疑いが生じるのだと指摘されました(同24節)。
イエス・キリストの十字架と復活を信じる者は、「もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」との約束をいただいています(ルカ20章36節)。その復活のときには、結婚も死もない世界に生きるのです。

2.聖書を知らない  26~27節
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、サドカイ派の人々が重んじていた御言葉の一つでした(出エジプト3章6節)。その神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神であって、今の私たち一人ひとりに「わたしはあなたの神である」と語りかけていてくださるのです。私たちは、この語りかけを聴き取ることが大切です。
十字架上の二人の犯罪人は、最も主イエスの近くにいました。しかし、真に近くいたのは、悔い改めた者であり、そこに永遠の救いがあったのです(ルカ23章32~43節)。私たちも信仰によってイエス・キリストと結び合わされるならば、十字架と復活に現わされた神の力が「私の救い」となるのです。
御言葉と神の力に対する信仰があるならば、誤り、迷い出ることはありません。

人生を変える出会い(2010.7.4)

宣教題  : 「人生を変える出会い」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 9章32節~35節
私たちは、人生の途上において様々な出会いを経験します。それには、詩編に見るように、嘆きとの出会いがあり、神を讃える出会いもあります。大切なことは、私たちの人生を根本から変えてくださるイエス・キリストとの出会いが一人ひとりに求められていることです。

1.嘆きとの出会い
ここに登場するアイネアは、8年間も中風で床についていました。彼は、人には見離され、自らも治りたいと願う気力もなくなり、諦めて無力感と不安といらだちの中にいたと思われます。
今日、私たちは「失う」という様々な経験をします。病によって健康を失う、死別によって家族を失う、人間関係がこじれて友を失うといったことがあります。また、罪と汚れによって自分自身を失う、自らの死を迎えて将来を失う、あげくは、神に見捨てられたと錯覚してしまって神を失うこともあります。こうした喪失による嘆きとの出会いは、私たちを無力、諦め、いらだちの虜にしてしまいます。
しかし、私たちが失うという経験に向き合っていくなら、神が開いてくださる新たな世界を発見することができるのです。

2.キリストとの出会い
大切なことは、様々なものを失うという嘆きの中を通されても、魂の命を奪うことをなさらないイエス・キリストとの出会いを経験することです。アイネアは、ペトロによって「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と招かれ、「すくに起きあがった」と、信仰の応答をしました(34節)。
私たちは、誰ひとり例外なくイエス・キリストに出会い、その十字架による罪の赦しをいただく信仰に堅く立たせていただく必要があります。さらに私たちは、多くの人々がアイネアを見て「主に立ち帰った」ように、私たちを見る人々が、私たちを造り変えてくださったイエス・キリストを見ずにはいられないという、キリストの証人とされたいものです(35節)。その秘訣は、ただ信仰に立つことです。

仕えることの喜び(2010.6.27)

宣教題  : 「仕えることの喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 12章13節~17節
人が、主なる神に仕えることと、人に仕えることは大きな祝福です。それは、ちょうど、キリストと教会、夫と妻の間においても言えることです(ヱフェソ5章21~33節)。そして、主イエスが「神のものは神に返しなさい」と語られた根底には、神と人に仕えることの喜びが証しされています。

1.神に仕えることの喜び
ユダヤ人指導者たちは、税金問題を持ち出して主イエスを捕え、十字架に追いやろうと巧妙な罠をしかけています(13~14節、ルカ23章2節)。その偽証を見抜いておられた主イエスは、皇帝の肖像と銘が記された銀貨を見せながら、それが「皇帝のものです」と指導者たちの口を通して答えさせられました(15~16節)。そして、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と命じられたのでした(17節)。
主イエスが、このように答えられたのには根拠があります。神にかたどって造られた人間は(創世記1章27節)、与えられている全てのものは神のものであり、神にお返しするのが当然のことだからです。このことが明確になるなら、私たちは神に仕えることが喜びとなります。

2.人に仕えることの喜び
神に仕える喜びがあるところには、人に対しても健やかに仕える喜びが生まれてきます。「皇帝のものは皇帝に・・・返しなさい」との生き方ができるのです。
はからずも主イエスを陥れようとした指導者たちは、「人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と語りました(14節)。主イエスにとって「神の道」とは、十字架と復活の道でした。十字架に死んで復活されたキリストと結び合わされて新創造された者は、神のものとされ、神に仕え、人に仕える喜びの中を歩むことができるのです(2コリント5章17節)。
神のものとされた私たちは、健やかな時も病める時も、順境の時も逆境の時も、生きている時も死を迎える時も、神と人に仕えることを喜びとして生きるのです。

神様の愛・真実な愛(2010.6.20)

宣教題  : 「神様の愛・真実な愛」   宣教:   水谷 潔  師
聖    書  : ルカ 19章1節~10節
この聖書箇所において私たちは神様の真実な愛を三つの面で見ることができます。

1.価値創造的な愛(6節)
イエス様は最も愛するに値しない人物を最優先で愛されました。人間の愛の多くは「価値発見的愛」です。相手の中に価値を見出し、それを根拠にその価値の持ち主である相手を愛します。
しかし、神様の愛は相手の価値に無関係で愛し、愛された側に価値を造り出す「価値創造的愛」なのです。価値があるから愛されているのではなく、この愛で愛されているから、私たちは価値があるのです。

2.すすんで犠牲を払う愛(7節)
愛は犠牲を惜しみません。イエス様はザアカイと交わりを持つことによって、本来ザアカイが受けるべき非難を身代わりとなって受けています。しかも「あなたの家に泊まることにしてあるから」(新改訳)とすすんで自分から非難を受ける愛の配慮をしておられます。
このすすんで犠牲を払う愛は、ローマ5章8節が示すように今日、十字架の愛として私たちに注がれているのです。

3.人を造り変える愛(8節)
そのようなイエス様の真実の愛はザアカイを内側から劇的に変えました。あるままで愛された者はあるがままではいられません。そのような愛に応える生き方、愛してくださった方に喜ばれる生き方へと内側から変えられるのです。

結論「木の上から木の下に」(10節)
「失われた」とは「定位置から外れている」という意味です。この愛を知らず、受け止めず、応答しないならそれは「失われている」のです。
私たちの定位置は、木の下です。ザアカイのように木の下でイエスをお迎えするのが定位置です。まだ、木の上でイエス様を眺めている方は、呼びかけに応えて木の下に降りましょう。また、クリスチャンは木から降りた者らしい生きかたをと願います。

こうして教会は(2010.6.6)

宣教題  : 「こうして教会は」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 9章19b節~31節
生きている教会は、キリストの命が溢れています。そこには、喜びや希望が満ちていますが、時には痛みや失望を経験することもあります。
「こうして教会は」(31節)とキリストの御業が展開され、教会が生きものであることを証ししています。

1.キリストが崇められる
サウロが回心し、宣教者パウロと変えられたことは、人々に非常な驚きを与えています(19b~22節)。その背後には、教会の祈り、支援、配慮がありました。まず、サウロが救いに与かるに際しては、アナニアが用いられましたが(10~19a節)、それはダマスコの教会とそのメンバ-が用いられたことを意味しています。続いて、サウロがエルサレム教会に受け入れられるに際しては、エルサレム教会のメンバ-であったバルナバが仲介者また保証人として用いられています(26~28節)。そして、無名の身辺警護をする聖徒がいました(23~25節、29~30節)。教会の痛みをご自身の痛みとしてくださる主イエスは、このような仕方で教会を用いられるのです。
教会が前進していく中での中心は誰でしょうか。サウロでも、アナニアでも、バルナバでも、無名の人々でもありません。生きておられる復活のキリストご自身であり、このお方が崇められているところに主の御業が進んでいきます。
2.聖霊が生き生きと働かれる
教会は、聖霊に満たされた器を用いて働かれる所です(1章8節)。また教会は、お互いの間に異なった文化や習慣があっても、「平和を保ち、主を畏れ」る聖霊の一致が与えられる所です。そして教会は、「聖霊の慰め」と励ましとをいただいた一人ひとりを通して造られていく所です(9章31節)。
私たちは、この聖霊の火が消され、燃え尽きることのないようにしたいものです。
聖霊の火が消えていくと、御言葉が軽んじられていきます。そうさせてしまう、不信仰と不従順の罪から遠ざかりたいものです(1テサロニケ5章19~22節)。聖霊が、生き生きと働かれるところに勝利があるのです。

私の願い(2010.5.30)

宣教題  : 「私の願い」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖  書  :  マルコ10章46節~52節
エリコの町に、道端に座って物乞いをしていたバルティマイがいました。彼は、イエスが来られたと聞くと、心の願望をぶつけたのです。

1.わたしたちの願い事は何か?
バルティマイには目に障害がありました。当時の社会は、体に障害がある人たちが生きるには物乞いをする以外に道はありませんでした。彼は、心の中にあるその無くてはならないもの、目が心の目が見えるようになることをぶつけたのです。
私たちにはいつも願い事があります。しかし私たちにとって一番大切な願い事は、心の目が開かれていることなのです。

2.求めるべきお方は誰か?
バルティマイは、イエスが自分の目を開いて下さるお方であると知っていたため、大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい」と叫びました。
バルティマイが正しい人に叫び求めたように私たちもいつも求める相手を間違わないようにしないといけないのです。

3.どのように願い事は成就するか?
イエスがバルティマイを呼びかけられた時、彼は着ていた上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに行きました。彼にとって上着は唯一の持ち物でした。その上着を脱ぎ捨てたのです。今までの生活を惜しいと思わないほどの価値がイエスの呼びかけにはあったのです。
バルティマイを呼び寄せたイエスは「何をしてほしいのか?」と聞きました。彼は「先生、目が見えるようになりたいです」と正直に答えたのです。
イエス・キリストによって、バルティマイは直ぐ目が見えるようになり、今までとは全く違う新しい生活をイエス・キリストと共に、永遠に始めることが出来たのです。

私たちも、上着を脱ぎ捨てて、イエス・キリストに求める時、心の目が開かれて、イエス・キリストが私たちと共に永遠に歩んで下さるのです。
バルティマイは、すぐ見えるようになると、なお道を進まれるイエスに従いました。すぐに従ったバルティマイの姿は、イエス・キリストに対する信仰の現れでした。私たちも、心の目を開かれた時、バルティマイの様に、直ぐにイエス・キリストに従ってまいりましょう。

選びの器(2010.5.23)

宣教題  : 「選びの器」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : 使徒言行録 9章1節-19節
神の時、神の霊、神の人が相重なるように展開されているのが、使徒言行録です。
聖霊の注ぎと満たしによって、どのような神の人が造られていくのでしょうか。その良い一つの例として、サウロが選びの器として祈る中に見い出すことができます。

1.生きておられるキリストの御前における祈り  1~6節
サウロは、当初キリストの福音に対して敵意と反感と憎しみに凝り固まった迫害者でした。彼は、主イエスは過去の人であって、今も生きておられる神として信じていなかったのです。復活のキリストは、そんなサウロにご自身を現わされて、教会を迫害することが神であるキリストに対する罪であることを明らかにされました。そして、神の大きな憐みによって立ち直らせてくださる救いの道を示されました(1テモテ1章12~17節)。
私たちに聖霊が臨むと直ちに自覚することは、キリストが共におられるという現実です(使徒言行録2章25節)。生きておられるキリストの御前に自分自身を置いて心を開くなら、主が何をしてくださるかを見ることができるようになります。主が共におられることを自覚する生涯は、どのような障害をも乗り越えさせます。
2.砕かれ、へりくだる祈り  7~19a節
復活のキリストにお会いしたサウロは、何も見えない状態で人々の手に引かれ、ダマスコで三日間を祈りの中に過ごしました。この時、人の助けを必要としない誇り高い人物であったサウロが、砕かれていく経験をしたのです。
そのために、この時だけ神の歴史の舞台に登場した「アナニア」が用いられて、使徒パウロが生み出されたのでした。アナニアは、神の御言葉を信じ、神の救いの御業を信じ、サウロとその祈りを信じて、執り成し、サウロを新しい使命へと導きました。そのようにして、サウロは目が開かれ、聖霊に満たされて、真に神に生きる道を示されたのでした。
私たちは、サウロと同じように主から選びの器とされています。主なる神は、砕かれて、へりくだった霊の人の祈りを求めておられます(イザヤ57章15節)。

キリストの権威(2010.5.16)

宣教題  : 「キリストの権威」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 11章27節~12章12節
権威は、脅しなどによって無理やりに服従させるのではなく、自発的に従うことを促す力です。とりわけ、キリストの権威に服する信仰の歩みは、幸いな人生と変えられます。

1.キリストの権威の根拠
受難週の三日目、エルサレムにおける出来事です。ユダヤ最高議会の代表者たちは、前日に宮清めをされた主イエスに対して、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問いかけてきました(11章27~28節)。それに対して主イエスは、ヨハネのバプテスマの権威が神からのものか、それとも人からのものかと反問されました(同29~33節)。主イエスは、代表者たちが分かろうとしない頑なな心であることを見抜いておられたのです。
そこで主イエスは、譬えを用いてキリストの権威の根拠を明らかにされました(12章1~12節)。そこには、忍耐深い神の愛と、最終的には神の独り子イエスを死に追いやった人間の強情で貪欲な罪の姿があります。主イエスが十字架に架けられて「捨てた石」のようになられ、復活されて「隅の親石」となられることにより、人には「不思議に見える」救いの御業を成されたのです。これこそが、キリストの権威の根拠であり、私たちを喜び踊る礼拝へと駆り立てるのです(詩編118編)。

2.キリストの権威の支配
私たちは、父親の権威、母親の権威、教師の権威、牧師の権威といった様々な権威の下に生きています。これらは大事にしなければなりませんし、それには責任がともなってきます。大切なことは、それらの権威が、キリストの権威の支配の中に培われていくなら健全なものとなるのです。
ですから私たちは、心の領域だけでなく、生活と生涯の全ての領域に、キリストの愛の権威の支配をいただくことが大切です。主イエスに対して、「ここに入っていただいては困ります」という領域を作らないようにしたいものです。キリストの権威の支配の中に生きることが、私たちの歩みを確かなものとするのです。

神の導き(2010.5.2)

宣教題  : 「神の導き」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 8章26節~40節
異邦人であったエチオピアの高官がバプテスマを受けるに至った過程には、明確な神の導きがありました。それは、救いの御業がなされるために用いられた人にも、救いに与かった人にもありました。主イエスの救いの御業が展開される時には、この神の導きを誰しもが経験するのです。

1.神の導きの深さ  26~28節
フィリボの足跡をたどると、彼は聖霊の導きの中を縦横無尽に用いられています。そうしたなかで彼は、サマリアでの大きな働きから、突如として荒れた寂しいガザに下るように命じられました。彼は、柔軟にその導きに従って「すぐ出かけて行った」のです。
「折から」福音を必要としているエチオピアの高官がいました。思いがけない神の設定です。それは、フィリボにとっても、高官にとっても未知の遭遇と言うべきものでした。全てをご存知の神は、明らかに二人が出会うように導かれたのです。
神の導きは、福音を届ける人にとっても、福音に与かる人にとっても、人知を超えた深いものであるという信仰の気づきをいただきたいものです。
2.神の導きの確かさ  29~40節
これは、エチオピアの高官がエルサレムでの礼拝を終えて、帰国する途中での出来事でした。彼が「預言者イザヤの書」を朗読しながら旅をしていた時に、聖霊に導かれたフィリボが近づいてきました。彼は朗読されていた御言葉を通して(イザヤ53章7~8節)、そこに記されているのは受難のイエス・キリストであることと、福音の真髄を語りました。聖霊が御言葉を用いて働かれるとき、主イエスの救いの御業が成されます。
この確かな神の導きは、福音に与かっている人を通して進められます。そして、自発的な信仰告白とバプテスマへと導き、自立した信仰の歩みへと導きます。
神の導きを必要としない人は、一人もいません。そして、教会も神の導きを必要としています。
それに従える一人ひとりであり、教会とさせていただきましょう。

祈りの力(2010.4.25)

宣教題  : 「祈りの力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : マルコ 11章20節~25節
主イエスが呪われたいちじくの木は、翌日の朝には根元から枯れていました。その光景に驚嘆する弟子たちに、主イエスは信仰に裏打ちされた祈りの力について教えられたのです(20~21節)。

1.疑わないで信じる祈り  22~24節
主イエスが「少しも疑わず」にと語られたのは、弟子たちが風に吹かれて揺れ動く海の波のような状態であったからです。つまり、一方では神の御言葉に基づいて信じ祈っても、片方では神の言われるとおりにはいかないと疑う心があったのです。それは、「生き方全体に安定を欠く人」の姿を表しています(ヤコブ1章6~8節)。
主イエスは、そんな弟子たちに「神を信じなさい」、すなわち神への祈りを信じなさいと命じられました。それは、山をも動かすことのできる祈り、すなわち不可能を可能とされる神への信仰の祈りであり、それによって人が経験する困難・試練などが除き去られると言われたのです。私たちにとっての最大最高の山は、全ての人に共通する罪と死です。これらは、主イエスの十字架と復活による救いによって、すでに取り除かれているのです。今私たちには、「既に取り除かれたと信じる」信仰の祈りが求められるのです。
2.赦しの恵みに立ち続ける祈り  25節
主イエスは、祈る者が備えておくべき大切なこととして、正しい対人関係をつくり、また保つことを勧められました。それは、神との関係が正しくつくられていてこそ可能となります。これを妨げるのは、「あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」との神の赦しの恵みを疑わせる罪だけです。
私たちが神を疑い、主イエスの救いを疑い、祈りを疑う不信仰の罪を持ったままで祈っても、神は自動的にその祈りを聞いてくださるお方ではありません。主イエスの十字架の赦しの恵みに堅く立ち続けて祈ることが大切です。
信じて祈る祈りにこそ力があります。私たちは、祈りにおいて取り扱っていただくことにより、豊かな実を結ばせていただけるのです。

今も生きておられる主(2010.4.11)

宣教題   : 「今も生きておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : マルコ 16章19節~20節
主イエスが死から復活され、命あふれる恵みをもたらしてくださったことを心から祝い、讃えるのが聖日礼拝です。この時私たちは、全存在をもって、今も生きておられる主に向かうことが大切です。
今も生きておられる主は、どのように私たちと関わってくださるのでしょうか。

1.私たちと共にいてくださる
主イエスは復活された後、「天に上げられ、神の右の座につかれ」ました。これは、私たちが日常経験する悲しみの別離とは違って、主イエスはいつでも、どこでも私たちと共にいてくださることを意味しています(マタイ28章20節)。
このイエスを主と告白することは、罪と死に支配されて生きるのではなく、神の恵みの支配の中に生きることなのです。主イエスが「どういうお方か」を知ることは大切ですが、「今どこにおられるか」を知ることはさらに重要なことです。行き詰まりを覚えている真っただ中に、死を迎えるその場に共におられる主イエスは、私たちの苦痛や死と一つになってくださり、それに勝利してくださいます。そして、一時だけ共にいてくださるのではなくて、常時共にいてくださるお方です。

2.私たちと共に働いてくださる
続いて、「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教」しました。主イエスの救いの御業、そして「イエスは主
である」ことを宣ベ伝えたのです。そのとき、「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」のです。それは、確かな地盤の上に「安定した錨」を下ろすように(ヘブライ6章19節)、主イエスが共に働いていてくださるという確かな信仰をもって神の御言葉を語ることなのです。
私たちは、神の御言葉を担って生きています。ところが、その御言葉を宣べ伝えることに自信を無くし、また臆しやすいものです。しかし、私たちは、いかなる時も信仰をもって聖書の御言葉を伝えていく時に、主イエスが一緒に働いてくださることを経験するのです。

復活からの道(2010.4.4)

宣教題   : 「復活からの道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 16章9節~18節
キリストの復活という喜びの知らせが(6節)、「ここにはおられない」という言葉だけが残った人々には恐れを生じさせました(8節)。そこで、キリストは弟子たちをはじめとする多くの人々に、ご自身を現わされました。それによって、キリストの復活が確かであることを明らかにされたのです。

1.信じなかった人たちによって証明された  9~14節
キリストは、マグダラのマリアを通して「イエスと一緒にいた人々」に、二人の弟子を通してエルサレムに留まっている「残りの人たちに」、「復活されたイエスを見た人々」を通して11弟子たちに復活の事実を知らせましたが、誰も「信じなかった」のです。このように、キリストの復活を容易に信じなかったことが、キリストの復活が彼らの思いこみでもなく、だまされたからでもなく、逆に確かな事実であることを証ししています。
こうした人々がキリストを信じなかったのは、信じようとしない心のかたくなさが原因でした。ですから、真実な証人の証言を通して、キリストの復活の事実を信じる信仰が求められるのです。
2.信じた人たちによって証言された  15~19節
キリストは、不信仰でかたくなな弟子たちに恵みを注がれ、「滅びの宣言」ではなく、キリストを信じることによって「救われる」ことを語られました。そして、「信じて洗礼を受ける者は救われる」と招かれました。
キリストは、必死になって、ご自身の救いの中に人間を引き戻そうとされるお方です。そのために、信じた主の弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命じて、彼らを用いて神の救いを進めてこられました。その時、キリストの名によって種々の不思議な御業がなされるとともに、何よりも救いと祝福と慰めの「新しい言葉」を語ることによってなされてきたのです。
キリストを信じた者の人生は、恐れで終わることなく、キリストによって神を讃え、神の救いの言葉を語る者に変えられるのです。

十字架への道(2010.3.28)

宣教題  : 「十字架への道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 14章32節~42節
エルサレムの町の東側にあたるオリ-ブ山の中腹にあった「ゲツセマネ」でのことです。そこで主イエスは、迫り来る受難を間近に控えて、その心の思いを父なる神に向かって訴えるように祈られました。さらに弟子たちに向かっても、その思いをはっきりと告げられました。

1.キリストの苦しみが現われている
ゲツセマネの祈りは、主イエスの壮絶な苦しみ、苦闘、苦悶の様を伝えています。主の苦しみは十字架上だけではなかったのです。そこに現わされた主の恐れと悲しみは、神を否む罪と死に対して抱かれたものでした(33~34節)。
それに対して主イエスは、神の御心に適う道を求められ、全ての人の罪に対して注がれる神の怒りを一身に引き受ける祈りをささげられたのです(35~36節)。
しかし弟子たちは、眠りこけてしまいました(37節)。肉体の疲れによって眠っただけではなく、魂も眠ってしまって神の御心に無頓着になっていたのです。主イエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)と語られたように、キリストの苦しみを覚えつつ、魂が目覚めていたいものです。

2.キリストの従順が現われている
ゲツセマネの祈りに見る主イエスのお姿は、徹底して人となられた神、どこまでも私たち人間の側に立ち続けておられる救い主を伝えています。主イエスは、「御心に適う」道を選ばれて、全てを明け渡されました。主は死に至るまで父なる神に従われたことを通して、従順を学ばれたのです(ヘブライ5章7~8節)。ですから私たちも、神への従順を学び続けていくことが大切なのです。
さて、ゲツセマネの祈りを終えられた主イエスは、「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう」(41~42節)と言われました。人間の罪がどれほど絶望的であっても、死の闇がどんなに深く覆っていても、行き詰まりの中に八方塞がりでうめいていても、主イエスは立ちあがって歩み出してくださいます。今私たちは立ち上がって、信仰の従順の一歩を踏み出させていただきましょう。

喜びの拡大を(2010.3.21)

宣教題  : 「喜びの拡大を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 8章1節~8節
キリストの十字架と復活の福音は、迫害の中にあっても前進し続け、勝利をもたらしました。その結果、人々に大きな恵みが注がれ、「人々から非常に好意を持たれて」いました(4章33節)。
さらに、散らされた主の弟子が福音宣教を拡大していったことにより、人々に救いの喜びが拡がって行ったのです(8章8節)。

1.試練を通して拡がっていく  1~4節
ステファノの殉教の死は、人々に大きな悲しみをもたらしました。また、教会は大迫害を受け、使徒以外の主の弟子たちは散らされるという試練を経験しました。
しかし、神は生きておられ、試練を試練のままで終わらせなさいませんでした。それを逆手にとるかのようにして、散らされて行った主の弟子たちによって福音宣教が拡げられて行きました。また、この出来事を通して、サウロが救われる伏線となりました。神が働かれると、どんなに荒れ狂った迫害者も、神によって新たに用いられるようになるのです。
このように、福音がもたらす神の創造的な御業は、いかなる状況下であっても、それを価値あるものとされるのです。

2.恵みの器を用いて拡がっていく  4~8節
宣教の領域は拡がって行きます。散らされて行った主の弟子たちは、ギリシャ語を使う人たちで、ギリシャ語を使う地域へと遣わされて行きました。彼らは、使徒ではなくて、言わば信徒でした。その中の一人に教会に仕えるフィリポがいました。このように、教会に対して起きた迫害は、むしろ信徒の働きに拍車をかける結果となったのです。
主の弟子は、関わることのできる領域や地域や関係筋といった恵みの場に遣わされて行きます。そこにおいて、キリストの救いに与かっている者は、生きておられるキリストを見ることはできませんが、キリストを愛するという喜びに生きるようになるのです(1ペトロ1章8~9節)。このようにして、集められては散らされて行く恵みの器は、福音に与かっている大きな喜びを拡大していくのです。

ひとり子をたもう神の愛(2010.3.14)

宣教題  : 「ひとり子をたもう神の愛」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖    書  : ヨハネ 3章16節~21節
私たちはこの世に生まれてから、いつも愛を求めて生きています。赤ちゃんの時はお父さんお母さんの愛、大人になると家族や仕事などです。このように私たちはいつも誰かに愛を求めて生きているのです。

1.神はこの世を愛して下さった。
神様はこの世を愛して下さいました。しかし、この世は神様を無視し、罪によって失われた世界と言えます。神様に背いて、罪に満ちた私たちを、神様は限りなく愛して下さっているのです。その愛は、無私で無償の愛、人種的偏見や人間的差別もありません。神様は、私たちが罪人であろうとも愛して下さっているのです。神様の愛は、どのように表されたのでしょうか?

2.神はそのひとり子を賜ったほどに愛して下さった。
キリストの十字架によって、神様の愛が具体的に表されました。人間は罪を持ったままでは絶対に御国に行くことは出来ません。でも神様は、全ての人が救われて御国に行くことが出来るように、キリストをこの世に送られたのです。
神様はどうして、これほどまでにキリストの十字架と言う大きな愛の犠牲を払って下さったのでしょうか?

3.神は滅びから永遠の命に移すほどに愛して下さった。
キリストは、私たちが永遠の滅びから救われて永遠の命を得る為に、私たちの罪の罰の代わりに十字架で受けて死んで下さったのです。
永遠の命とは、肉体の死だけではありません。誘惑に打ち勝つ命であり、試練や困難の中にいても私たちが生き続けることが出来る命なのです。
献身する前、私は試練に遭いました。私を支えてくれたのは、私の祈りを聞かれていた神様だけでした。それまでの私は、人に言えない罪もありました。それにも関わらず私を愛し続けて下さっている神様は、信じ求める者に勝利を与えて導いて下さるお方なのです。日々、神様の愛を求めて、キリストによる救いの勝利を得ましょう。