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Kobe Central Church

降る愛(2011.12.18)

宣教題  : 「降る愛」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一   4章9節~10節
クリスマスは、大いなる神が小さくなられて、幼子イエスとして、この地上に最も低く降ってくださった時です。私たちは、この出来事を「神は、独り子を世にお遣わしになりました。・・・ここに愛があります」と言い表していることに目を向け、そこに立ち帰り、そこから新たに出発するのです。

1.人を生かす愛  9節
神は、私たちに愛する価値があるから愛してくださったのではありません。神の愛は、神の方から示してくださったものであり、愛するに値するものを発見できなくても愛されるのであり、愛することによって価値あるものと造り変えてくださるのです。
それは、イエス・キリストによって私たちを生かす愛です。命の源である神と断絶して死んだような状態にあった者に、生きることの意味や目的や生きる力を与えられるのです。さらに、もうダメだと思われた人の生き方を変えて、その持ち味を生かして用いられるのです。そして、肉体の死で終わることなく、永遠にまで生かされるのです。
人は誰でも、自分を気遣ってくれて、自分の人生を肯定的に生かしてくれる人を求めます。イエス・キリストこそが、私たちにそれを成し遂げてくださるのです。

2.罪を贖う愛  10節
神に生かされることをとどめるのが、私たちの内にある「罪」です。罪は、神と人の本来の関係を破り、人と人との関係も人と自然との関係も破るもので、人間にとっての最大の問題です。それは、人間世界に悪や不義や不正や対立や争いとなって表れます。
愛の神は、この罪を放置しておくことができないので、ご自身の方から救いの手を差し伸べてくださったのです。それは、神の独り子が十字架にお架かりくださり、「罪を償ういけにえ」となってくださったことによって明らかにされました。このことを信じる者に与えられる罪の赦しは、私たちが勝ち取った赦しではなく、贈られた赦しです。罪を赦された者は、真に生きる者となるのです。
「ここに愛がある」とは、何という素晴らしい宣言でしょうか。ほんものの愛に必ず会える「ここ」と呼び得るところは、イエス・キリストです。

光の中に生きる(2011.12.11)

宣教題  : 「光の中に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一   1章5節~10節
イエス・キリストの来臨は、まことの光が失われてしまった世界に、神ご自身がまことの光であることを現わされた出来事でした(ヨハネ1章9節)。私たちには、この「光の中を歩む」のか、「闇の中を歩む」のかが問われています。
光の中に歩み続けるとは、どういうことなのでしょうか。

1.神と交わり続ける  5節~7節
イエス・キリストを信じる者は、光の中を歩み、神との交わりに生かされているのです。ところが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩んでいることがあるというのです。具体的には、信仰と生活が関係なくばらばらになっている生き方をしていることです。しかし、神との交わりとは、主イエス・キリストに堅く結ばれ、主のものとされている交わりです。主に愛されていることを知るがゆえに主を愛し、礼拝に生きる者とされている交わりです。
闇の中に生きるならば、人は孤立し、互いに信頼し助け合うことができなくなります。しかし、光の中に生きるならば、互いに交わりを持つ健やかな人生がつくられ、新たな交わりを築き上げていきます。

2.神の真実に触れ続ける  7節b~10節
もし私たちが、これまで罪を犯したことがないとか、今も自分に罪がないといって罪を軽く考えるなら、それはイエス・キリストによってなされた救いの業を意味のないものとしてしまい、自分を欺くことになります。しかし、神は、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちが心にある罪の事実をそっくりそのまま神に告げて悔い改めることによって、あらゆる罪を赦し、罪から清め続けてくださるのです。この神の真実に触れ続けることが、光の中に生きることなのです。
光の中に生きることは、あやふやな生き方をすることではなく、私たちの日常生活を力ある歩みとします。ですから私たちは、自分の力で光を輝かせようとすることをやめて、まことの光であられるイエス・キリストに立ち帰り、その光の中に生き続けることが大切なのです。

喜びが満ち溢れて(2011.12.4)

宣教題  : 「喜びが満ち溢れて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一  1章1節~4節
神が人に近づかれ、その人生に介入される時、人は不安や恐れを覚えることがあります。とともに、それが大きな喜びに変わり、新たな出発となる経験をします。それは、最初のクリスマスの出来事においても見られました(ルカ2章8~11節)。本日の聖書箇所には、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と証言しています。

1.永遠の命に与かる喜び  1~2節
イエス・キリストは、天地が創造された時すでに存在しておられた永遠の神であり、永遠の命そのものであり、私たちに永遠の命を与えるために現れてくださったのです。そして、人の言葉をもってご自分の意志・考え・計画を私たちが分かるように語りかけてくださいました。
使徒たちが経験したように、私たちは、信仰の耳をもってキリストの言葉を聞き、信仰の目を開いていただいてキリストを見、信仰の手を差しのべてキリストに触れることができるのです。そうすることによって、私たちは永遠の命に与かり、魂の深みにおいてキリストによって慰めを受けるのです。そして、最初のクリスマスの出来事に出会った人々と同じように、私たちは恐れではなくて喜びに溢れるようになるのです。

2.交わりを持つ喜び
永遠の命であるイエス・キリストを証しし、伝えることが教会の使命です。そうするのは、人々が「わたしたちとの交わりを持つようになるため」なのです。罪と死は、人と人を引き離し、交わりを削ぎます。しかし、命は人と人をつなぎ、交わりをもたらします。わたしたちの人と人の交わりを支え、守るのが、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」なのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰と、それによって与えられる永遠の命を共有する交わりです。このような神との交わりに生きる人々の交わりが拡大され、強められていくのが生きた教会です。
私たちは、永遠の命に与かる者たちの交わりに加えられていることを喜びましょう。さらに私たちは、喜びが満ち溢れる交わりを与えてくださるイエス・キリストを喜びをもって証しし、伝えていきましょう。

平和の王イエス(2011.11.27)

宣教題  : 「平和の王イエス」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書  11章1節~9節
「地には平和」とクリスマスによく語られるのはイエスが平和の王だからである。

1.平和をもたらす王
大国が支配を広げ、小国は絶望せざるをえない時代。「私たちは切り倒された切り株に過ぎない」とユダの民は思った。しかし、ダビデの父であるエッサイにたとえられる切り株から若芽が伸びるとイザヤは語る。ダビデの子孫の王が誕生する(11:1)。主の霊によってその務めを全うする王には、善悪を判断し、国と民を導く知恵、主を畏れ敬うことに基づく知恵が溢れている(11:2)。正当なさばきと公平と真実をもって国を治める(11:4~5)。主のみこころにかなう統治をする王が誕生する。

2.来るべき平和の希望
弱肉強食の世界に平和の王国が誕生する(11:6~9)。喰う者が喰われるべき者を喰わず、毒をもって相手を傷つけるものがそれを行わず、異なるものが共に住むのにお互いを傷つけない。平和の王が国を治め、その統治によって「水が海を覆っているように大地が主を知る知識で満たされる」(11:9)からだ。世界は根本的に変わる。民も平和の民へと変えられる。

3.平和の希望に支えられて
平和の王イエスは二千年前に生まれた。しかし、平和はいまだに到来しておらず、弱肉強食の世界に私たちは生きている。平和の王国は単なる幻に過ぎないのか。ちがう。「希望の源である神が・・・聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださる」(ローマ15:13)。イエスが平和を実現してくださるという希望に満たされ、主を畏れることを教える聖霊によって生きていく時、神は私たちを通して平和の王国を少しずつ実現していってくださる。イエスの再臨の時に平和の王国は実現する。人と人、国と国、そしてすべての被造物の間の平和がやがて世界に訪れる。だから、希望に生き、聖霊に押し出されて、私たちにできる平和のわざに参与しよう。

グッド・ニュ-ス

もう完全に日本語になってしまっている「ニュ-ス」という言葉は、英語で「NEWS」と書きますが、東西南北の頭文字を集めたものだと言われたりします。ニュ-スは東西南北から集められ、東西南北に伝えられるということでしょうか。

ところで、全ての人の救い主イエス・キリストの誕生のニュ-スは、世界中すべての人々のためのものでした。それは長い間、多くの人が待ちこがれていたニュ-スだったのです。それが、他のどんなニュ-スにもまさってグッド・ニュ-スであることは、今も変わりません。

『今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである』(聖書)。
神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

窮地に生きる信仰(2011.11.20)

宣教題  : 「窮地に生きる信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章16節~25節
聖書には、信仰をもっているのに試練があることと、そのような試練にあったときにそれを喜びとしている証しが多く記されています。パウロのフィリピ伝道は、順調な出来事ばかりでなく、パウロやシラスの投獄というような窮地に追い込まれたこともありました。しかし、その時にも別な意味での喜びがありました。

1.主イエスに試される喜び
占いの霊に取りつかれた奴隷の女は、精神的にもバランスを欠いた状態で雇い人に利用されていましたが、主イエスの十字架と復活の福音によって、その罪の奴隷の悲惨な生活から解き放たれ、救いにあずかりました(16~18節)。ところが、この女の雇い人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、ありもしない罪状を作って、パウロとシラスを捕えて訴え、牢に投げ込んだのでした(19~24節)。パウロたちは、この難を避けるために正当な訴えもせずに、甘んじて受け入れました。このことが、続く看主の家族の救いにつながっていくのです。
私たちは、「神を信じているのに、神は約束されているのに、なぜこのような試みを通されるのか」と、信仰の土台を揺さぶられる経験をします。主イエスは、私たちの信仰が本物になるように、敢えて試みを通されるのです。そこには、主イエスに試されることによって得る喜びがあります(ロ-マ5章1~5節)。

2.主イエスを想う喜び
このような窮地の中で、しかも真夜中ごろ、パウロとシラスは神に賛美をして祈っていました。他の囚人たちはそれを聞き入っていました(25節)。普通ならば意気消沈してつぶやき、不満が出てくるものです。
彼らは、主イエスの十字架を想い起こし、罪の罰である死を受けてくださり、罪の奴隷から解放し、復活の命に与からせてくださったことに感謝して、神に賛美し、祈ったのでした。
私たちも窮地に追い込まれた時に、主イエスの十字架と復活の福音を想い起して賛美し、祈ろうではありませんか。必ず主の御業が拝せられることを信じて!

神の教育(2011.11.13)

宣教題  : 「神の教育」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 出エジプト 2章11節~15節、ヘブライ11章24~27節
愛の神が、人間が生きる社会に働かれるとき、必ず贖われた人を神の器として用いられます。そのために、神の最大の関心事は、神の器の教育です。そこでは、神が人をどのように取り扱われるかが中心のテーマとなります。今回は、モ-セの生涯の第一の転機とも言える出来事から学びます。

1.神の民であることを選び続ける
モ-セは、ヘブライ人の母親から、創造者であり歴史を導かれる神を信じる信仰を受け継ぎ、エジプトの王女に引き取られてからは、そこでの最高の教育を受けました(使徒言行録7章22節)。彼が40歳になった時に、同胞のヘブライ人をかえりみる心が起こされ(同7章23節)、エジプト人から同胞を助けました(出エジプト2章11~14節)。
この事件を通して、モ-セはエジプトの富と栄誉よりも、神の民と共に苦しみとあざけりを受けることを選び取ったのです(ヘブライ11章24~26節)。彼は、神から与えられる報いに目を向けつつ、信仰によって神を仰ぎ見つつ耐え忍んだのでした(同11章27節)。
このように、神に選ばれた人生を選んでいくことは、見栄えのする華やかな生活、また楽な人生を追及することではなくて、たとえ試練があっても神が備えてくださったところに踏みとどまることです。それを通して、神からの使命が明らかになるのです。

2.神の民をむなしくする
モ-セが神に用いられるためには、さらなる神の高等教育へと導かれる必要がありました。彼は、ミディアンの地に逃れて、再起の機会を伺っていたことでしょう。しかし、彼の荒野での40年は、自己過信や傲慢や衝動的な性格が聖別され、孤独と失意を通して神の助けを求め、神に信頼して委ねる信仰のレッスンを学ぶ時となったのです。このことを通して、モ-セは自分のうちに、もはや何の信頼も持つことができなくなったのです。
この世の教育は人を偉大にしますが、神の教育は人をむなしくします。神は、神の民をむなしくすることにより、造り上げていかれるのです。

真実な救い(2011.11.6)

宣教題  : 「真実な救い」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 16章19節~20節
主イエスが弟子たちと共に働かれたので、彼らは確信をもって福音の働きをすることができました。『彼らの語る言葉が真実である』ことが証しされ、人々に真実な救いとして受け入れられていきました。

1.勝利をもたらす救い
私たちが、「いまキリストはどこにおられるか」と問われたならば、「天に上げられ、神の右の座に着かれ」ていますと答えます。それは、遥か遠い所で静観しておられるということではなく、「主は彼らと共に働き」とあるように、弟子たちと共に歩まれた地上の在り方とは違った状態でおられるということです。すなわち、いつでも、どこでも共にいてくださって(マタイ28章20節)、福音の働きを共に進めてくださり、真実な救いへと導いてくださるのです。それは、「主イエス」の勝利の支配が、いつでも、どこにでも及んでいくということです。
私たちは、信仰者としても、教会としても様々な信仰の経験をし、試練を受け、また思わぬ方向へと導かれていくものです。そのような時、「神はこのことを通して何を教えていてくださるのか」と問いつつ、主イエスは私たちを勝利をもって支配しておられるということを本気で信じることが大切です。

2.拡がり続ける救い
主イエスがご自分の弟子たちと共に働かれて、彼らの語る言葉が真実であることを、主の臨在と同行という確かなしるしをもって明らかにされたことは、今も変わらずに続けられていることです。
また、主イエスは、ご自身の弟子たちを通して、「永遠の救いに至る・・・福音を広められた」(結び二)とあるように、今も変わらずに私たちを用いて、救いのご計画を進めておられます。
私たちは、十字架に死んで復活された福音の灯を消してはなりません。今も私たちと共に働かれる主イエスの恵みを無にするわけにはいきません。私たちが語る福音の言葉が真実であることを証ししないわけにはいきません。

信じること(2011.10.30)

宣教題  : 「信じること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 1章12節~13節、3章16~21節
聖書は、ひたすら神の恵みにより、ただそれを私たちが信じる信仰によってのみ、罪赦され、罪を全く犯したことのない義人と認められると主張しています。「信じる」という語を多く用いている「ヨハネによる福音書」は、それはどういうことで、何をもたらすのかを語っています。

1.受け入れて、未来の先取りを
私たちは、イエス・キリストを「信じる」に際して正しい事実を知ることから始める必要があります。まず、私たちは罪という事実を自分自身のこととして認め、死という事実から目をそむけないことです。そして、イエス・キリストの十字架と復活の事実は、罪と死の唯一の解決の道であることを認めることです。
イエス・キリストは、神の愛を伝える「言」として、愛そのものである神を明確に示されました(3章16節)。私たちは、この方の御人格と御業を「受け入れ」るのです。それは、単なる賛成や同感することではなく、ありのままの自分を任せて安んじてしまうことです(1章12~13節)。そうするなら神は、神に敵対する人生を歩んできた者を「神の子」として受け入れ、神と共に「永遠の命」に生きる者として天国の世嗣としくださるのです。このように、私たちは未来を先取りする者とされているのです。

2.信頼して、生活の改革を
イエス・キリストを信じる者は、罪を拒否する生活改革を行います。私たちは、「真理を行う者は光の方に来る」(3章21節)とあるように、真理の御言葉に照らされることにより、真面目な罪意識を持ってそれを告白するならば、イエス・キリストの十字架の血潮ゆえに、神の無限の赦しの愛を信じて立ちあがることができるのです。
このように、イエス・キリストを信じるとは、このお方の真実に身を委ねて、信頼していくことです。私たちは、罪人から徐々に義人になるのではなくて、きっぱりとした決断をすることにより、そこから神の祝福に生きる歩みが始まるのです。
私たちの生活改革がされる解決の糸口は、私たちの側にあるのではなくて、神の側すなわちイエス・キリストの十字架と復活にあるのです。

身代わりとして十字架に架かられたキリスト(2011.10.23)

宣教題  : 「身代わりとして十字架に架かられたキリスト」   宣教:   唐木 照雄 師
聖    書  : マルコ 15章25節~39節

1. 十字架を背負い処刑場に向かうキリスト
主イエス様は、十字架に架かる為にゴルゴタの丘に向かいます。そこは犯罪人が処刑される場所であります。そしてその十字架と言うのは、想像するのに、犬きくて、重たくて荒削りの十字架ではなかったであろうか。恐らくその十字架は主イエス様の肩にぐいぐいと食い込んで来た事と思います。しかも十字架を背負った主イエス様に対して死刑執行人であるローマの兵士は、時間までにその刑を終わらせたいという思いから早く歩けと言わんばかりに急き立ててまいります。

2.想像を絶する苦しみを受けられるキリスト
やがてゴルゴタの丘に着いた主イエス様は、自ら背負って来た十字架上に両手、両足を縛られ、死刑執行人によって有無を言わさずに、あの太い犬釘にも似た釘がガン、ガンと打ち込まれたと言うのであります。この時の肉体的な痛みについては、ある方は『痛みは、時とともに増して行き、裂かれた肉体の痛み、ことに不自然な姿勢の結果、手足は硬直し頭脳、肺、胃におけるはなはだしい充血、血管の膨張、身を焼かれるような渇き、めまい、頭痛、しかもこうしたものが、すべて同時になされる時、しかも意識はまだ失うまでにいたらず、その苦しみは、人間の想像を絶する耐え難い苦しみとなって起こって来る』と語っています。

3.キリストは何故このような苦しみを受けなければならなかったのか
何故キリストはこのような苦しみをしなければならなかったのであろうか、私たちの罪の身代わりとしての苦しみであったと聖書は告げております。いわば十字架とは、捨てられなくても良いお方が捨てられ、捨てられて当然の者、いや、捨てられなければならない者が捨てられることなく救われる為であったと言うのです。今まで父なる神様を喜ばせてばかり来たお方が、父なる神様を少しも喜ばせなかったような者として取り扱われ、今まで、父なる神様を少しも喜ばせなかった者が、全く父なる神様を喜ばせてばかり来た者のように受け入れられる。つまり上なる者が下に、そして下なる者が上に、この交差、クロスこそがイエス・キリストの十字架であったと言うのであります。

新たな出発(2011.10.16)

宣教題  : 「新たな出発」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 16章12節~18節
聖書には、多くの出発(旅立ち)の出来事が記されています。何よりも主イエスご自身が、その弟子たちとともに日々旅に生きたお方でした。そして、今日の私たちの信仰の出発は、復活された生ける主イエスの命令と約束に生きることから始まります。

1.主イエスを仰ぎ見るときから  14節
主イエスと一緒にいた人たちの中には、キリストの復活の事実を聞いても「信じなかった」とあります(11、13、14節)。彼らが信じようとしない原因は、「かたくなな心」にありました。主イエスは、それをお叱りになっています。
このように「信じなかった」者たちは、その後、神のあわれみによって、不信仰な心、かたくなな心を取り去られ、神の救いの恵みにあずかる者と変えられました。それは、彼らが「復活されたイエスを見た人々」と同じように、キリストを仰ぎ見る者となったからです。
信仰とは、現実を見て失望したり、他人を見てうらやんだり、自分を見て惨めになるのではなくて、主イエスを信じて仰ぎ見ることなのです(詩編34編6節)。この仰ぎ見る日々の連続が、仰ぎ見る生涯となるのです。

2.主イエスの弟子になるときから  15~18節
主イエスは、ご自身を仰ぎ見る者たちに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。福音が、神に造られた人々に宣べ伝えられることによって、人々が主の弟子になることができるからです(マタイ28章19節)。主イエスは、ご自身を信じて洗礼を受け、神のものになることを欲しておられるのです。しかも、主イエスは、人々を悪魔的な力から解き放ち、キリストとその御業が語られることによって、不可能と思われることを可能とされるのです。
マルコによる福音書は、イエス・キリストの素晴らしさを証言するとともに、人間の弱さや罪深さをストレ-トに語っています。こうした弱く罪深い者が造り変えられて主イエスの弟子となり、福音を証言していったのです。私たちは、主イエスの弟子とされて、新しい出発をさせていただきましょう。

ボランティアの祝福

16年前の阪神淡路大震災のとき、遠くから近くからボランティアの人々が駆けつけ、無償の奉仕を喜んでささげてくださいました。今年の東日本大震災においても、祈りと支援金と時間と労力がささげられています。
そこには、ボランティアが生み出す多くの祝福があります。

ある専門家が、「明確な説明はまだされていないが、他人を支援することは、強力な健康促進剤になる。他人を思いやることによって目的意識が高まり、生きがいを感じるからである」と語っていました。聖書には、「愛によって互いに仕えなさい」とありますが、ここに大きな祝福があるのです。
神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

神の必然としてのリバイバル(2011.10.2)

宣教題  : 「神の必然としてのリバイバル」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章11節~15節
主の恵みが満ち満ちて、それが溢れ出でて周囲を変革していくのが「リバイバル」と言われています。その「リバイバル」の本質は、主イエス・キリストが崇められ、主イエス・キリストが拡大されていくことです。それは、日常的なことであり、その備えがいつもなされていることが求められます。

1.「主が」心を開かれる  14節
主がヨ-ロッパ伝道に導いておられると確信したパウロ、シラス、テモテ、ルカたちは、当時小ロ-マと言われた「フィリピ」に到着しました。彼らは、そこの祈り場に集まっていた婦人たちに福音を語りました。その中に居合わせたリディアは、「神をあがめる」敬虔な婦人で、主がその彼女の霊の目を開かれたので、語られることを集中して聴き、回心へと導かれました。
真のリバイバルは、このような「敬虔の気風」を生み出し、それが教会の気風となり、教会を決定づけます。そのためには、一人ひとりが不敬虔から敬虔への人生に変えられ(ルカ23章40節)、それが深められることが必要です。何よりも、毎週繰り返される礼拝において、私たちは信仰の基本に立ち返り、敬虔であることを慕い求め、敬虔の鍛錬をされていくことが大切なのです(1テモテ4章7節)。

2.「主に」忠実である  15節
リディアとその家族は、共に洗礼を受けました。そして彼女は、自宅にパウロ一行が泊まるように愛をもって招待しています。こうして、この家族が中心となって、「喜び」を最大の特徴とするフィリピ教会が誕生しました。それ以来、彼女の家を拠点としてフィリピ伝道がなされ(16章40節)、「献身的な気風」に満ちた教会となりました(フィリピ4章15~16節)。
こうした気風は、「主を信じる者」すなわち「主に忠実な者」たちが、一つになって集まる所に生まれます。「世界聖餐日礼拝」は、こうしたことを重んじて生まれました。私たち一人ひとりは、主イエスを信じる信仰をもって、主に忠実に、また主に真実に生きるならば、途絶えることのないリバイバルが生まれるのです。

主の道を守る民(2011.10.9)

宣教題  : 「主の道を守る民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 創世記 18章16節~22節
教会の宣教のわざは、決してきれいごとですむようなものではない。教会にはソドムやゴモラのような世界に祝福を届ける使命が与えられているからだ。

1.ソドムとゴモラの現実
ソドムとゴモラは邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた(13章13節)。そして、町から天に上る公正な審判を求める叫び声は大きい(18章20節)。正義が行われず、立場の弱い人々が食い物にされていたからだ。主はそこに行かれ、現実を知り、介入される(18章21節)。ソドムとゴモラは現代日本を映している。

2.主の道を守る民
主はアブラハムを選ばれた。ソドムとゴモラと無縁ではない場所で、彼自身がソドムや他の神々の道ではなく、主の道を守るためである。さらに、彼の子孫たちも主の道を守って正義に生きるよう、彼らに命令し、教えることを主は彼に求めた(19節)。宣教のために、主への従順に生きる人々が継続して起こされ、主の道を守ることが伝統として引き継がれる必要がある。つまり、イエスの命令のすべてを守るように教えることによってイエスの弟子を養成することは、教会の宣教に必須である(マタイ28章18~19節)。

3.主の祝福を届ける
宣教のゴールは、アブラハムとその子孫たちが主に従って歩むことではなく、主が結ばれた約束、つまり世界の民の祝福の実現だ(18章19節)。そして、ソドムへの宣教を願っておられたからこそ、主はアブラハムに介入の機会を与えた(18章17節)。そして、アブラハムは大胆にソドムの民のために主ににじり寄り、主はその交渉に応じられた(18章23~32節)。
神の恵みによって選ばれた私たちは、神の宣教のわざが教会によって実現するため、主に従うよう招かれている。だから、主がソドムへ下って行かれたように(18章21節)主の道を守る者として積極的にこの地に関わっていこう。

わたしたちを生かす信仰(2011.9.25)

宣教題  : 「わたしたちを生かす信仰」   宣教:   中川 利行 師
聖    書  : マルコによる福音書 16章1節~8節
キリスト教信仰の中心は、イエス・キリストを神の御子、罪よりの贖い主、そしてこの方をわたしの個人的な救い主と信じる信仰です。そして福音とは、イエス・キリストの御生涯、彼が受けられた十字架による苦難、その死よりの復活を言います。

1.「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
マルコ16章1~8節は、主のご復活の記事です。この時の三人の婦人たちは、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という天使の声を聞いた時でさえ、持参した香料のことをすっかり忘れてしまうほどに、疑いの心、落胆しきった気持ち、絶望感を抱いたままでした。婦人たちは、ここに至るまで主イエスから何度も十字架の死と復活の予告を聞いてきたにもかかわらず、結局死んだらお終いだとの疑いの心に捕らわれていたのです。続いて婦人たちは、復活された主にガリラヤでお目にかかれると聞いても、震え上がり、正気を失って墓から逃げ去りました。戦慄を覚えたからです。
しかし、主イエスの復活は事実起こりました。主が復活された三つの証拠があります。(1)三人の婦人の証人=彼女たちは目撃者でした。(2)大きな証拠品=封印された大きな石が転がされていました。(3)天からの証し=天使が「あの方はよみがえられた」との伝言がありました。

2.復活されたイエス・キリストをいつも思う。
キリストの使徒となったパウロは若き伝道者テモテに、「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(2テモテ2章8節)と語っています。
主イエスは今日も復活されて生きておられます。私たちが信仰生活を続けていく上で特に記憶しなければならない事は、「死者の中から復活された」イエス・キリストの事を思うことです。パウロは「イエス・キリストをいつも思い起こす。これがわたしの福音である」と生き生きと表現しています。
私たちを生かす信仰は、十字架に死んで復活されたイエス・キリストを信じる信仰以外にありません。私たちは、この信仰に立つ者となりましょう。