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Kobe Central Church

キリストのために苦しむ(2014.5.4)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録25章1~27節 フィリピ1章29節

聖書は、キリスト信仰を持っていても、試練や苦しみを経験することを少しも否定していません。むしろ、そうした経験の必要と貴さを明らかにしています (フィリピ1章29節)。パウロは、その宣教活動において、神の御計画の中にあって「キリストのために苦しむ」ことを経験し、そこに自分の生きざまを見い 出していました。

1.神の恵みの深さを知ることを  1~12節、23~27節
パウロはカイサリアの慰留所に2年間監禁されていましたが、その間ユダヤの最高権力者たちの彼に対する憎しみは消えていませんでした。彼らは、なおパウ ロを違法者として訴え続けますが、誰もそれを立証できませんでした。そこで、パウロは、ローマ市民権を用いて「私は皇帝に上訴します」と発言したのでした (11節)。この道こそ、神の最高の摂理の道であり、最も安全かつ合法的な形でローマに行ける道でした。神のくすしい恵みによって、このように神の導きが なされていくのです。
その後、フェストゥス総督やアグリッパ王たちは、パウロと会見しました。前者のこの世の栄光と野心に満ちた姿と、後者の神の恵みに与って黙し毅然として いる姿とは対照的です。神の恵みによって私たちの特権となるものがあります。キリストを救い主として受け入れる信頼と、苦しみの学校によって鍛えられる試 練です。

2.復活のキリストを証しすることを  13~22節
繰り返されるパウロへの審問には、大切な真理、パウロが命を賭けた真理が証しされています。それは、「このイエスが生きている」との力強い証言であり(19節)、これこそ神の恵みの証しです。
十字架に死なれたキリストは、復活されて今も生きておられ、罪と死と滅びの中に死んでいた私たちを生かし続けていてくださいます。それによって、価値観も 人生観も変えられて、いかなる試練や苦しみを経験しても、復活の命と永遠の希望の中を歩み続けることができるのです。私たちは、神の霊に満たされて、今も 「このイエスが生きている」とパウロと共に証しし、歩み続けたいものです。

敗者復活の福音(2014.4.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ16章33節 1ヨハネ5章5節

福音という言葉には、味のある響きがあります。福音は、誰もが聞かなければならないものです。そして、福音を聞いたなら、心を開いて受け入れ、福音に生きることが大切です。この福音の本体は、イエス・キリストご自身です。

1.「負けの味」を知り尽くしていてくださる
私たちが「世に勝つ」ことを願うのは、「世で苦難がある」中に、負ける経験を踏むからです。失敗する、負けるということは、挫折感や敗北感がつきまと い、恥をかいたり、面子もなくなったりします。誰も敗北者になることを好みません。さらに、強くなったら負けない、一生懸命やれば失敗しない、この信心を していたら不幸にならない、信仰をもったら苦しみはなくなるなどと考えがちです。
さて、キリストご自身が、地上の生活のスタートから十字架の死に至るまで、苦しみの連続でした。これを神の大失敗と言う人がいますが、キリストは、人が 経験する苦難や罪や死といったことを知り尽くしてくださったのです。そのような経験をする私たちのところに、キリストがおられるのです。

2.「勝ちの味」を経験してくださった
キリストの救いは、敗者復活の福音です。キリストが捕らえられて十字架に架けられて殺されてくださったお姿は、人の目には敗者としか映らなかったでしょ う。しかし、神の前に立つ私たちは、罪と不信仰の結果、当然神の怒りに触れて滅びへと向かう者でしかなかったのです(ルカ23章41節)。そんな私たちを 救うために、キリストは、苦しみと痛みと辱めのどん底から復活されて勝利者となられたのでした。このようにして、キリストは、勝ちの味を経験されたので す。
それは、私たちが苦難に勝ち、罪に勝ち、死に打ち勝つ勝利者とされるためでした。これは、「イエスが神の子であると信じる者」が与ることのできる勝利で す。それは、私たちがキリストに結ばれて生きるときに、キリストが勝利されたことを共に経験するのです。ここから、「勇気を出しなさい」との人生が始まる のです。

キリストは生きておられる(2014.4.20)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ 24章13~35節

エルサレムからエマオへの道にあった「二人の弟子」は、当初は「目が遮られて」復活されたキリストが分からなかったのですが(16節)、後に「目が開け」 て復活されたキリストが分かるようになりました(31節)。信仰の目が開かれると、生きておられるキリストがどのように見えるのでしょうか。

1.共に歩んでくださるキリスト  13~27節
二人の弟子は、失意の中にあり、途方に暮れていました。というのも、信頼していたキリストを失ったことと、十字架の死のショックに打ちのめされて、キリ ストが見えなくなっていたからです。同様に、私たちは、キリストに対する信仰上のことだけでなく、私たちの日常の生活上のことなどで二人の弟子たちと同じ 経験をするときに、キリストが分からなくなることがあります。
しかし、復活されたキリストは、二人の弟子と一緒に歩き、話しかけ、聖書を説明しておられます。この時、彼らは、その「心は燃えていた」という経験をし ていました(32節)。今も変わらずに生きておられるキリストは、永久に私たちと共に歩んでくださり、御自身を示して、私たちの心が燃えるまで親しく臨ん でくださるのです。

2.共に留まってくださるキリスト  28~35節
その日の夕方、キリストはなおも先へ行こうとされたので、二人の弟子は「無理に引き止め」留まるように懇願しました。その時、キリストと彼らの間には、 賛美の祈りが伴なった聖餐と愛餐、また御言葉による語りかけを通しての親しい交わりが生み出されました。その結果、彼らの目が開かれ、共に留まってくだ さっているキリストが分かったのです。このような交わりは、復活されたキリストによって、今の私たちの間にもつくられています。
復活されたキリストは、今も生きておられます。そして、私たち一人一人にふさわしく、先立って共に歩んでくださり、留まってくださり、私たちの目を開いてくださいます。いかなる時にも、御言葉に立つ信仰をもたせていただきましょう。

栄光の王の入城(2014.4.13)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: 詩編24編1~10節 ヨハネによる福音書1章11~12節

パームサンデーはイエスがエルサレムに入城されたことを記念する主日である。あえてエルサレムに上っていかれたのは、そこに神殿があったからだ。

1.エルサレムの神殿
「主の家」(詩編23:6)とはエルサレムに建てられた神殿のことである。この神殿を主が特別に選ばれた(聖別)(24:3)。だから、イスラエルの民 は、神に会い、ささげものをし、礼拝するために神殿に上っていった。そして、この神殿を、世界の所有者であり(1)、世界の創造者であり(2)、それを確 かに支えておられる神、天と海と地の王である方が自らの住まいとされた。

2.エルサレムに住むべき人
世界の王である主が住んでおられるエルサレムの神殿に上り、この方に会うことができるのは、どのような人だろうか。人の血を流すことのない「潔白な手と 清い心」をもつ人であり、人を欺く、むなしい偶像を慕わない人である(4)。むしろ、この神殿を住まいとされる主にだけあらゆる求めを祈り求め(6)、力 に満ちた、雄々しい主を自分の王として喜んで迎え入れる人(7−10)こそ、エルサレムの神殿に上るにふさわしい。栄光の王のそばにいて、その祝福と恵み を一杯に受けることができる(5)。

3.イエスが向かわれたエルサレム
イエスはエルサレムに入城され、人々はイエスを王として歓迎した。ところが、エルサレムはいまや流血の町であり、ローマ兵、さらにはユダヤ人によっても 偶像崇拝が行われている町であり、イエスを喜んで迎え入れず、いつ殺そうかと企てていた町であった。そして、イエスを王として迎え入れず、彼を十字架に架 けた。自分の民の所に来たのに、民はこの方を拒絶した(ヨハネ1:11)。王であるイエスはそのような場所に進んでいかれた。
しかし、王であり、主である方を拒絶したエルサレムが栄光に輝く場所となった。拒絶の象徴である十字架が、栄光の王の王座となったからである。だからこ そ、この受難週、私たちが拒絶しても、そこでイエスが神の栄光を表されることを覚え、十字架を通して、神の祝福が神を拒絶する私たちの真ん中に差し込んで いることを覚えたい。この神の恵みがあるからこそ、イエスを王として受け入れるという応答が生まれてくるのだから(1:12)。

キリストを主とあがめる(2014.4.6)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録24章1~27節 1ペトロ3章15節

私たちがキリストに対する信仰の歩みに徹していくとき、キリストの受難と同じような試練を通されることがあります。その経験は、パウロと同じように、十字 架に死んで復活されたキリストにある望みを弁明し、キリストの勝利を先取りする歩みに導かれます。それが、「キリストを主とあがめる」歩みなのです(1ペ トロ3章15節、マタイ6章2節)。

1.キリストにある希望を弁明する  1~23節
パウロは、大祭司アナニアの弁護士テルティオのおべっかと偽りの訴えを受けて、フェリクス総督すなわちローマ法廷に、たった一人で立っています(1~9 節)。彼は、神と人に対して、確かな信仰と責められることのない良心を保ちつつ、弁明しています(10~21節)。彼は、一人で戦ったのではなく、神の前 に、神と共に戦っていることを証ししたのでした。
私たちは、いかなる状況下にあっても、神からの知恵をいただいて、揺るぐことのない復活信仰の希望を、穏やかにして尊大ぶらず、神を畏れて敬意を持っ て、正しい良心で、「あなたがたの抱いている希望について」弁明し語ることが大切です(1ペトロ3章15~16節)。

2.キリストの勝利を先取りして生きる  24~27節
パウロは、総督フェリクス夫妻を救いに導こうとして、「正義や節制や来るべき裁き」について語りましたが、彼らは信仰の応答をしませんでした。このよう に、パウロが潔白で純粋かつ堂々と語ることができたのは、彼自身が、来たるべき神の最後の法廷を目指して、否それを先取りして今を生きていたからです (24~26節)。十字架と復活のキリストが弁護人ですから、常勝不敗の勝利者となれるのです。
さらに、パウロは、時間が経過して状況が変わっても、復活のキリストの約束に立って、神の時を待ったのです(27節)。私たちは、このように待つことを通して、忍耐を学び、御言葉を深く学び、自分自身を深く掘り下げることかできるのです。

神を知る者の愛(2014.3.30)

宣教: 鎌野直人 協力牧師
聖書: ホセア5章6節~6章6節 1ヨハネ4章20節

旧約聖書に登場する北王国(エフライム)と南王国(ユダ)は本来、一つの王国であった。ところが、分裂し、神から与えられた使命を果たすことができなくなった。

1.兄弟国の間の争い(5:8-15)
分裂から200年後、二国の間で争いが生じた。アッシリアという強国に対抗するか、属国となるか、という路線の違いから生まれたこの争いは、北王国から 南王国への攻撃で始まったが、アッシリアの助けを得た南王国による北王国への侵攻と進んで行った(5:8)。北王国は廃虚と化し、南王国は主からの相続地 を奪い取ろうとした。主は両者に対して激しい審判をもたらす(5:12, 14)。互いに攻撃しあい、主を求めなかったからである(5:13)。主はイスラエルから去ることを決意された(5:14)。

2.深みのない祈り(6:1-5)
このことを聞いた時、人々は祈った(6:1-3)美しい悔い改めの祈りである。しかし、人々にとっての「主のもとに帰ろう」「主を知ろう」はホセアが 語っているのと同じ意味なのだろうか(12:7や2:22)。そうではない。自分たちの都合が悪くなり、「わたしを尋ね求めよ」(5:15)と言われたか ら、いつもの祈りをより丁寧に行ったにすぎない。主は、祈りに深みのないことを見抜き、「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」(6:4) と切り返し、裁きを宣告する(6:5)。

3.神を知る者の愛(6:6)
普段から献げている献げ物をより増やすことなど主は求めておられない。普段より美しい祈りをすることを主は求めておられない。ホセアが語っている意味 で、「主を知り、愛すること」である(6:6)。危機において主が開かれる道をベストと信じ、自分の計画に固執しないこと。さらに、本来一つであるべき 人々との関係を時間をかけて整えること。北王国と南王国の関係改善に取り組むことなしには、すべては不十分である。
神を愛する愛は、隣人を愛する愛という形で必ず現れる(1ヨハネ4:20)。配偶者、親や子、隣近所、同僚、クラスメートとの関わりの中に神への表され る。美しい祈りのことばでもなく、より熱心な教会生活でもない。ひとつであるべき夫婦が、家族が、職場が、学校が、私たちを通してひとつになっていく時、 神への愛が表され、私たちの使命が果たされていく。

心の友(2014.3.23)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ 15章11~17節

あなたは、何でも打明けることができ、本気で怒ってくれ、それでいていつでも一緒にいたくなるような友がおられますか(箴言27章9節b)。主イエスは、私たちに対して「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節C)と語りかけておられます。

1.愛の心をお持ちの友イエス  13節
「わたしがあなたがたを愛した」(12節a)と言われる主イエスの愛は、「友のために自分の命を捨てること」によって明らかになりました。主イエスは、 創造主である神を無視し、愛の限りを尽くしていてくださる神に背を向け、主イエスを信じようとしないで神を悲しませている罪人の友となってくださったので す。
主イエスは、神であられたにもかかわらず、自ら進んで十字架に死んでくださいました。そうすることによって、私たち罪人の身代わりとなって、神に捨てら れるという死を受け取ってくださったのです。それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節c)と十字架上で叫 ばれた御言葉に表れています。

2.真実な心をお持ちの友イエス  15節
主イエスは、十字架の死から三日目に復活され、私たちのために御自身の御心を知らせ、愛と恵みの御性質のみか全てをお与えくださることによって、真実な 友となってくださいます。その真実は、主イエスを裏切ろうとしたイスカリオテのユダを見捨てないで、「友よ」と呼びかけられたことに表れています(マタイ 26章50節a)。
主イエスは、いかなる時にも、いかなる状況下にあっても、私たちを捨てなさらない真実な友なのです(ヨハネ14章18節a)。
友となってくださる主イエスに対して、私たちも友となるように信仰の応答をさせていただきましょう(14節、16節c、12節、17節)。

私たちにあるものを知っているか(2014.3.16)

宣教: 小平 牧生 牧師
聖書: 使徒言行録3章1~10節

東日本の大震災以来、私たちの国全体を覆っている言いようのない不安と恐れがさらに増しています。政治家の語る「日本をとりもどす」とか「日本の力を信じている」という言葉もなんだかカラ元気のように聞こえます。
しかし、このような中にあってこそ、私たちは神様が私たちに与えておられるものをはっきりと知ることができます。あなたにあるもの、それは何でしょうか?

私たちに与えられているものは何か。

1.人々を見つめる
「使徒言行録3章3~5節」。
「マタイによる福音書9章35~38節」。

2.イエス・キリストの御名に対する
「使徒言行録3章6節」。
「使徒言行録3章16節」。

3.立ち上がろうとする人々を助ける
「使徒言行録3章7~8節」。
「ヨハネの手紙一 3章16~18節」。

憐れみに生きる(2014.3.9)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ6章27~38節

私たちは、父なる神の憐れみによって、人の痛みを自分の痛みとするという「憐れみ深い者」とされて生きていくように召されています(36節)。そのような私たちに、主イエスは、敵を愛して祝福を祈り、人を裁かないで赦しに生きるように求めておられます。

1.生きることは、愛すること  27~34節
先に、主イエスが幸いと不幸について語られたように(20~26節)、信仰を持って生きるとき、当然、信仰を持たないで生きることとは違った生き方にな ります。その際に、私たちは、信仰を持たないで生きている人たちを見返すかのような心になってしまいがちです。「しかし」主イエスは、それをお赦しになり ませんでした。主イエスは、信仰に生きることができない人々の不幸をはっきりと指摘しつつ、そうであるからこそ、人を愛し、親切にし、祝福を祈るように命 じられたのです(27~28節)。
主イエスは、日々の生活において、神のものとされた者の本来の生き方を生き抜くように問いかけておられます(29~34節)。私たちは、自分の力を過信 して、このように生きることはできません。主イエスに対する信仰に立ってこそ、愛する生き方をさせていただくのです。

2.愛することは、愛されていること  35~38節
愛することができないところには、裁きがあり、赦しがなく、与えたら取り戻そうとしたり、自分の量りでしか物事が量れなかったりします(37~38 節)。私たちは、このように主イエスが語られたことと自らの現実の前に、その罪の姿に立ちすくみます。そして、「あなたがたは敵を愛しなさい」(35節) と言われることに逆らっている自分自身を認めざるをえません。
「しかし」、主イエスは、そのような私たちを憐れみ、十字架の贖いの死を成しとげてくださり愛を現してくださったのです。私たちは、主イエスの愛に心か ら屈服し、降伏するしかありません。この主イエスと信仰によって一つにされるとき、「いと高き方の子」としていただき、憐れみ深い者とされるのです (35~36節)。

人知を越えた神の導き(2014.3.2)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録23章12~35節 イザヤ書55章11節

私たちは、主イエスとその御言葉に信頼し続けることにより、神の導きの中を歩ませていただくのです。ここでは、パウロ殺害の陰謀と露見とカイサリアへの護送という出来事の中に、人知を越えたとしか言いようのない神の導きを証言しています。

1.神の導きの不思議さ
ユダヤ人によるパウロの暗殺計画が実行されようとしました(12~15節)。これがそのまま放っておかれたなら、パウロによるローマでの伝道ができなく なるという危機を迎えたのです。「しかし」、そのことを聞きこんだパウロの甥によって、その情報がパウロに伝えられ、そのことがローマの千人隊長にも知ら されることとなったのです。千人隊長には、ローマの市民権を有するパウロの権利を守り保護する義務がありました(17~22節)。すかさず、千人隊長は、 万全の策を講じてパウロをローマ総督のもとに護送するようにしたのでした(23~35節)。こうした中にも、パウロは切迫した情況の中で、冷静な信仰的総 合判断をしたのでした。
神の救いの歴史を導いておられる神が、ご自身の計画を実現するために、パウロの甥や千人隊長を用いられたことに、不思議さを覚えます。神の時に、神の方法で、神の人を用いられるのです。私たち一人一人も、そうした神の人なのです。

2.神の導きの確かさ
こうした神の導きの背後には、先にパウロに語られた復活の主イエスの御言葉が゜働いていました(11節)。その導きは、復活された主イエスが共におられるという確かさであり、導きの時は確かであり、導きそのものに誤りはないという確かさです。
このことは、イザヤ書に語られている神の約束の御言葉にあるように(55章11節)、神は、苦難の中にあっては特別の支えをもって、試練の中にあっては希望を与えて導き、その使命を果たさせてくださるのです。
私たちの中に、神の導きを必要としない人は、一人もありません。また、教会も世界の全体も、神の導きを必要としています。神は、人知を越えた不思議な導きを、御言葉に立った確かな導きを与えてくださいます。皆が、それに従えますように。

確かな絆(2014.2.23)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ15章1~10節

人は、生活や社会の矛盾と苦しみに耐えながら、自分の居場所、心の絆、活躍の機会を探し求めています。それは、確かな愛、確かな繋がり、確かなことをやり 遂げたいと求める人の姿です。主イエスは、「人がわたしにつながって」いるならば、それによって主イエスの豊かな命に生きる者となると語られました(5 節)。

1.主イエスの御言葉にとどまることによって  7節
二人の弟子が、悲しみと失望の中をエルサレムからエマオに向かって歩いていました。復活された主イエスは、彼らに近づいてこられて、聖書全体から福音を 語りつつ一緒に歩かれたのです。夕方になって、二人は主イエスに「一緒にお泊まりください」と呼びとめます。そこでの食事の最中、彼らは目が開けて、とど まってくださった方が主イエスであると初めて気づいたのでした(ルカ24章13~31節)。
ところで、私たちが、弟子たちのように主イエスにとどまってくださいと願う以上に、主イエスが私たちにとどまり、御言葉にとどまり続けるように招いてお られます(5節、7節)。主イエスは、私たちとの命の繋がりを永遠まで持ち続けてくださるお方です。ですから、私たちは、主イエスの御言葉に信頼すること です。

2.主イエスの愛にとどまることによって 9節
主イエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と私たちに向き合ってくださいます。この愛の出会いが最も明らかにされたのは、主イエスの十字架と復活においてでした。この出来事によって、私たちは、抱えている罪と死とから解き放っていただくことができるのです。
そして、私たちは、主イエスとその愛にとどまり続けるときに、神を愛する、人を愛する、教会を愛する愛の実を結ばせていただけるのです。私たちの内にそうする力はないのです。
また、私たちは、主イエスとその御言葉と愛にとどまり続けることによって、互いの間にも確かな絆を築くことができるようになります。天の御国を目指して、主イエスに繋がる信仰の一歩を踏み出させていただきましょう。

祝福の言葉に満ちて(2014.2.16)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ルカ6章20~26節

聖書がいう「幸いである」とは、一瞬のつかの間の幸いではなくて、いつまでも続いている幸いであり、祝福されている状態を表しています。それは、主イエスの口から出た祝福の言葉によって明らかにされています。

1.新しい祝福の言葉を明示する
ここで語られていることは、弟子たちが望んでいたこととは大きく違っていました。それは、この世の価値観とかけ離れており、人間が思い描く在り方とは大 きな隔たりがあります。うずくまるように神だけに全信頼を置いている「貧しい人々は」、神の恵みの支配の中に生かされるのです。神を慕って、愛に「飢えて いる人々は」、神によってのみ満たしていただくのです。自らの真相に「泣いている人々は」、神の救いに与る喜びを知るのです(20~23節)。
このように主イエスが明らかにされた新しい祝福の言葉によって、私たちは、物質的・表面的な尺度による生き方から解放されて、不変的・永遠的な尺度によ る生き方に変えられていくのです。それは、主イエスに結ばれていることによって、死と終わりを直視しながら知る幸いです(ヨハネの黙示録14章13節)。

2.確かな祝福の言葉を告知する
主イエスの祝福の言葉は確かなものです。それは、もともと私たちの内にあるものではなく、語り主であるイエスにあるものです。私たちの内には、喜ぶもの、満足しうるものを持ち合わせていないのです。そして、私たちの口が祝福をもたらす力を持っていないのです。
ところで、私たちは、主イエスの祝福の言葉の取り次ぎ役です。従って、主イエスに仕え、教会に仕え、人に仕える者は、主の祝福の言葉を取り次ぐために仕えているのです。
そのように、確かな祝福の言葉が私たちに告げられているのですから、拒むことなく、受け入れる者となりましょう。また、確かな祝福の言葉が告げられ続けているのですから、いかなる時にあっても、その祝福の中を歩み続けましょう。

畏れを抱いて(2014.2.9)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 詩編111編1~10節

主イエスは、迷信からくる恐れに対して励ましを(マタイ14章27節)、良心の呵責からくる罪の畏れに対して赦しを(マタイ9章2節)、死への恐れに対して勝利を(ヨハネ20章19節)与えられました。しかし、こうした恐怖の恐れではなくて、私たちが畏敬の畏れを抱くならば、活きた信仰の歩み、活きた教会の歩みとなります。

1.活きた信仰の歩み
詩編111編は、主への賛美で始まり、主に感謝をささげ、主の御業を喜ぶ中から、「主を畏れる」ことを歌っています(5節、10節)。恵み深く憐れみに 富んでおられる主であるからこそ、人は主に深い畏敬の念を抱くのです(4節)。主を畏れるとは、主なる神の救いに対して、自分の心と思いと生活を傾けるこ とであって、信仰者の財産です。
主を畏れることは、私たちの信仰生活を息苦しくしたり、力を失わせたりするものではありません。逆に、私たちがますます主なる神に引き寄せられて、私た ちに豊かな心と力と真剣さとを与えるのです(ローマ8章15節、11章20節)。主を畏れる心に生きることは、主への信仰を活き活きと生きることなので す。

2.活きた教会の歩み
さらに、神を畏れ敬う聖徒の群れこそが教会です(使徒言行録2章41~47節)。そこには、福音の教えに聴従し、聖徒の交わりをなし、聖餐に与り、祈る ことに「熱心であった」教会の姿があります(42節)。これは、時代や場所や状況が変わっても、変わらない教会の活きた歩みであり、主を畏れることを知る 教会であることを証ししています(43節)。
主を畏れる教会の礼拝、祈祷会、奉仕、交わりは、必然的に伝道する教会となるのです(44~47節)。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一 つにされたのである」と、伝道の主体は、いつも主イエス・キリストであることを証言しています。主を畏れつつ歩む日々が、活き活きと生きる信仰者の歩み、 教会の歩みとなっていくのです。

勇気ある日々(2014.2.2)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書 : 使徒言行録23章6~11節

キリストは、十字架の受難を前にして、弟子たちに「しかし、勇気を出しなさい」(ヨハネ16章33節)と語られ、また宣教の前進を命じられるなかから、パ ウロに「勇気を出せ」と語っておられます(使徒言行録23章11節)。キリストは、今日の私たちにもキリストを信頼し続けて生きる勇気を必要としておられ ます。

1.苦難の中にあって
キリストは、私たちに「世で苦難」を経験することを避けるようにとは言われませんでした(ヨハネ16章33節)。その苦難には、試練があり、嘆きもあり、闘いもあるでしょう。それによって、キリストのものとされた信仰者が、整えられ、造り上げられるのです。
同様に、教会も苦難を経験することによって前進してきました。パウロは、キリストを証しすることが最も難しいと思われたユダヤの最高法院の議員たちに対 して、キリストが救い主であることを証しするチャンスを与えられました。しかも、彼は不思議な方法で、危機一髪のところで助け出されました(使徒言行録 23章6~10節)。伝道の画期的な展開は、迫害などの危機の中で推進されていくのです。

2.主の勝利に与る
私たちは、世にある苦難にあっても、キリストの十字架と復活によって明らかにされた究極的な勝利に与っています(ヨハネ16章33節)。それは、私たち の罪と死という最大の敵に対する勝利です。従って、勇気を出すとは、このキリストの勝利に信仰によって与ることなのです。
さて、パウロは、願っていた通りに最高法院においてキリストを証しできたことにより元気づけられました。にもかかわらず、その夜、勝利の主がパウロのそ ばに立たれて、エルサレムでと同じように、ローマでもキリストを力強く証しすることが必ずできると語られたのです。伝道の画期的な展開は、キリストの臨在 の確かさの中で推進されていくのです。私たちは、ただキリストに信頼し(マタイ14章27節)、勇気ある日々を歩ませていただくのです。

 

わたしの平安(2014.1.26)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ14章27~31節

キリストは、十字架にお架かりになられる直前に、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と語られました。それは、今の私たちとってどういう意味があるのでしょうか。

1.キリストの遺産、それは平安
人の内側に平安があるとき、外側に平和となって表れてきます。しかし、人の内に恐れや怒りや妬み憎しみといったものがあると、争いや破壊といったものが 生まれてきます。平和であるように、平安があるようにとあいさつを交わし合う間柄においてすら、対立や抗争が続いている有り様です。個人的な関係も国家間 などの関係も根っこにおいては同じなのです。
キリストは、そんな私たちに、この世が与えるものとは違う、いやこの世は与えることができ得ない、キリストのみが与え得ることのできる遺産として「平 安」を残していくと言われたのです。十字架にお架かりくださり、三日目に復活されたキリストが、今も生きておられて、私たちに平安を与えられるのです。

2.平安、それはキリストの平安
キリストは、平安についての説明や希望を述べられたのではありません。十字架の死を目前にした極限状態の中にあって、なお持ち続けることができたキリス トの平安です。それは、ご自分の生き方が父なる神の御心にかなっているとの確信があられたゆえに(31節)、世の力である悪魔の力の支配下にはおられな かったゆえに(30節)、いかなる時にも信頼できる父なる神を知っておられたゆえに(28節c)、十字架の死はキリストにとって「父のもとに行く」ことに ほかならないことを知っておられたゆえに(28節b)、持っておられた平安です。
私たちは、キリストがお持ちであった平安を持っていません。キリストが「わたしの平和」と言われるものをいただく以外にないのです。十字架に死んで復活 されたキリストをまるごと信じ受け入れることによって、キリストの平安をそっくりそのまま「わたしの平安」とすることができるのです。