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Kobe Central Church

生きた御言葉信仰(2014.8.10)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ 7章1~10節

ユダヤ人の長老たちは、「百人隊長」のよい行いを見て尊敬しました(4~5節)。しかし主イエスは、彼の信仰を見られて高く評価されました(9節)。このように主イエスを感心させ驚かせた信仰こそが、生きた御言葉信仰です。

1.御言葉に対する信頼を伴なう信仰
百人隊長は、病気で死にかかっている部下を助けに来てくださるように主イエスに懇願しておきながら、その後で来てくださることを遠慮する発言をしていま す(1~6節)。この矛盾するような発言をしたのは、憐れみ深い主イエスに対する彼の信頼から生じたものと思われます。
続いて、百人隊長が「ひと言おっしゃってください」と主イエスに語ったのは、主が語られる御言葉の権威に対する心からの畏れと尊敬を持っていたからであり、御言葉の力を信じ切った主への信頼があったからです(7~8節)。
御言葉信仰とは、どんな時にも、どんなことにも、どんな人にも、御言葉は必ず答えを持っているということを信じる信仰です。御言葉の重みを知ることが、御言葉に対する信頼につながるのです。

2.御言葉に対する服従を伴なう信仰
百人隊長は、御言葉をいただき、そして助けていただければそれでよいという以上の信仰を言い表わしています。すなわち、助けていただいた以上は、次に主 イエスが何を命じられても、その御言葉に従おうとしました。主イエスは、彼の信仰に感心し驚かれ、「これほどの信仰」と言われたのです(9節)。そして、 「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8章13節)と励まされたのです。このように、主イエスが喜ばれる信仰は、御言葉に対して服従 する信仰です。
御言葉信仰は、主イエスが評価してくださる信仰であるからこそ大切なものなのです。それを単なるお題目に終わらせてはなりません。実質の伴なった、生き た御言葉信仰を持たせていただきましょう。「ひと言おっしゃってください。そして」の後に、私たちは何と応答するのでしょうか。

真実で動かされないもの(2014.8.3)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録 28章11~16節

パウロは、「ローマでも証しをしなければならない」(23章11節)との御言葉を主イエスからいただいてから、災難また災難を乗り越えて、ついにローマに 到着しました。そこで彼は、「神に感謝し、勇気づけられた」(15節)のでした。ここには、復活の主によって、真実で動かされないものをいただいている者 たちの証しがあります。

1.復活の主の力を共に知る信仰
難破したパウロ一行は、マルタ島に上陸して三か月を過ごした後、シチリア島のシラクサ、続いてイタリア半島のレギオン、そしてプテオリに入港しました。 そこでは、パウロたちは『兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した』のでした(14節)。この時、聖日礼拝を含む日々を主にある信仰の交わりを深 め合い、祈りと御言葉を共にしたことでしょう。また、パウロたちがローマ近くまで来ていると聞いたローマ在住の信徒たちは、彼らを心から歓迎をしたのでし た。ルカは、その時のパウロを「神に感謝し、勇気づけられた」と語っています。
この感謝と勇気は、復活の主の御言葉から、また復活の主が共におられるとの信仰からくるのであり、聖霊の力によるものでした。周囲が揺れ動く中で、私たちも、真実で動かされることのない復活の主の力を共に知る信仰を抱き続けたいものです。

2.復活の主に共に仕える気概
ルカは、パウロたちがローマに到着したこと、そこで囚人でありながらも伝道する自由を与えられた不思議な摂理を淡々と語っています(14、16節)。そ う語られている背後には、パウロたちの意に反するようなことが起こっていたにもかかわらず、その意に反した事柄の中で復活の主が何をなされておられるのか を汲みとって、復活の主に仕え、宣教の業に勤しむ彼らの気概がありました。
私たちは、その信仰生涯で経験する病や事故、また人々の反対や批判といった困難と思われることも最善に用いなさる復活の主に共に仕える気概をもたせていただき、その自覚に生きることができるよう祈り求めていきたいものです。

傷つくまで愛する愛(2014.7.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ19章17~30節

全ての人に「傷つくまで愛する愛」を注ぎ与え尽くしてくださったのが、イエス・キリストです。それを具体的に現してくださったのが、主イエスがお架かりくださった十字架においてでした。このことを信じることによって、私たちに神の救いがもたらされたのです。

1.愛のあまりに黙された  17~24節
主イエスは、人々の裏切り、離反、嘲笑、ののしりの中にあっても、それらの人々に対して愛を貫かれました(ヨハネ13章1節)。そのために、口を開くことなく黙し続けられました(イザヤ53章7節)。
主イエスがそのようにされたのは、彼らの無知蒙昧さ、愚かさの罪からの救いのためだったのです。そのことが分かると、主イエスが十字架にお架かりくださったのが「私の罪のため」であったことが、はっきりするのです。

2.愛のあまりにとりなされた  25~27節
一方、十字架上の主イエスは、その周りにいる人々に対して、とりなしのわざをなさいました。母マリアと弟子を引き合わせることによって新しい神の家族の 交わりを作られました。そのように忠実に主イエスに従う人たちだけにではなく、悔い改める人のため、悔い改めずにいる人のためにもとりなさいました(ルカ 23章32~43節)。
私たちも、今も変わらずに、主イエスが愛の限りを尽くしてとりなしていてくださる「十字架のそばに」身を置こうではありませんか。

3.愛のあまりに身代わりの死を遂げられた  28~30節
主イエスが十字架の上で「成し遂げられた」ことは、私たちの罪と死の責めを身代わりに受けとめ、救いを完成してくださったことでした。
この時、主イエスは身代わりとなって、罪の審きを体で味わい「渇く」と言われました。それは、神からも人からも捨てられるという苦痛の叫びです。このよ うに主イエスが代わって十字架に死んでくださったからこそ、私たちの魂の渇きが癒されるのです。私たちはこの招きに応答して、ただ信じるのみです(ヨハネ 6章35節)。

揺るがない心で

「揺れ動く地に立ちて・・・」と歌う賛美は、まさに、地が揺れ動く地震のなかから生まれた歌なのだそうです。
私たちの人生には、まるで地震のように足元が揺れ動くようなさまざまな場面に直面します。家庭の崩壊、経済的な破綻、また健康に不安を覚える、そのようななかで、私たちはどう対応したらいいのか分からなくなることがあります。私たちは、さまざまな変化するもの、動くものに目を留めていると、自分自身もグラグラ揺れて心まで動揺してしまう、ということがあると思います。
しかし、聖書は『イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です』と語っています。このイエス・キリストに私たちの心が固定されているならば、心は揺れ動くことがないとの確信をいただいて生きることができるのです。

神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

何を土台に(2014.7.20)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ6章46~49節

私たちの歩みまた教会の歩みは、家を建て上げていくようなものです。そこには洪水のような思いがけない苦難や試練が押し寄せてきます。それに耐えられるのは土台しだいです。その土台に関心をもち、揺るがない確かな土台に立つことが大切です。

1.主の御言葉に立つ
私たちは、恒産なければ恒心なしと言われるような目に見えるものを土台とした人生を構築しようとします。しかし、揺るぐことのない確かな土台は、主イエ スが語られた御言葉が神の御言葉であると間違いなく聞きとって、それに生きることなのです。同じように主の御言葉を聞いても、それとは異なった生き方を し、時に間違った生き方をしてしまうことがあるからです(46~47節)。それが、岩の上に土台を置いて家を建てているか、土台なしで地面に家を建ててい るかの相異なのです。
私たちは、「御言葉が与えられた」との信仰に立って歩むという良い伝統をいただいています。しかし、それが神の名を利用し、実は自分の考えや意思を貫こうとするように土台が傾いていたり、土台が無いような状態となったりしていないか、と問いかけることは必要です。

2.主の御言葉を深める
私たちは、思いがけない洪水が押し寄せるような不幸と思える出来事に遭遇します。たとえ平穏無事であっても、罪と死の洪水は全ての人に訪れます。しか し、ここで主イエスが語っておられることは、私たちは、叫んでも泣いても崩れることのない土台である主の御言葉の上に立っているのです。
従って、家を建てるに際して、土台に労力や資材をつぎ込んで元手をかける必要があるように、「地面を深く掘り下げ」る必要があるのです(48節)。すなわち、主の御言葉に立ち続けるには、熱心さと真剣さ、時には犠牲をも必要とするのです。
主の御言葉を聞いて、その御言葉に立って深めていく時に、その御言葉の真実が分かるのです。その御言葉に生きてみて初めて、その強靭な力を味わい知るのです。

喜びに満ちあふれて生きる秘訣(2014.7.13)

宣教:池口留都 伝道師
聖書:1ヨハネ1章5~10節

ヨハネの手紙一が書かれた目的(3、4節)でもある、クリスチャンが喜びに満ちあふれて生きる秘訣は、2つの交わりに生きることです。それは、御父と御子イエス・キリストとの交わりと、互いの交わりです。この2つは切り離せません。

1.御父と御子イエス・キリストとの交わりに生きる
(1)ありのままの自分を受け入れる難しさ
「神は光である」(5節)とあるように、光である神様の前ではすべてが明らかにされます。一方私たちは闇の中にいます。闇の中で自分探しをしますが、現実の自分を受け入れるのは難しいことです。特に、神様の光は、それまで知らなかった、罪深い自分の現実の姿も明らかにします。それを認めて受け入れること に、難しさを感じます。こんな自分は受け入れられないのではないか恐れるからです。
(2)ありのままの自分を受け入れてくださる方
そんな私たちの本当の姿をすべて知った上で、私たちを受け入れてくださる方こそ、イエス様です。イエス様は私たちをそのままで受け止めてくださり、私た ちを闇から光へ招き入れるために十字架にかかってくださいました。もし私たちが、光によって照らし出されるありのままの姿、罪を「その通りです」と認める なら、神様は赦して下さいます(9節)。イエス様の血が私たちを覆い、清め続けてくださるからです(7節)。私たちの恐れは取り除かれ、自由に神様との交 わりを持ち、その中に憩うことができます。そこに、喜びが満ちあふれます。

2.教会の交わりに生きる
愛と赦しを受け取った私たちは、他の人と関わる勇気と、一緒に歩む交わりを与えられます。それが教会の交わりです(3節)。神様との交わりは私たちを教 会の交わりに導き、また、教会の交わりを通して、私たちは成長させていただき、さらに神様との交わりを深めさせていただきます。2つの交わりに生かしてい ただきましょう。

元気を出しなさい(2014.7.6)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録27章13~38節

パウロのローマ行きという神の御計画は変わらず、度重なる困難を経て実現されていきました(13~20節)。彼は、暴風で荒れ狂う海に漂流する船の中で、神の必然を信じつつ、同船者に「元気を出しなさい」と語り続けたのでした(22節、25節)。

1.愛の励ましをもって  21~26節
暴風が激しく吹きすさぶので、「ついに助かる望みは全く消え去ろうとしていた」(20節)時、同船者たちはパウロの救いの言葉を聴くことができたのでした。彼は、絶望と無力のどん底にある彼らに、「元気を出しなさい」と励ましたのです。
パウロは、なぜこのように並はずれの寛容と愛をもって人々を励まし、助けようとしたのでしょうか。彼がローマに行って福音を語ることは、神からの必然的 使命だったからです。神は、航海中の全ての人を彼に任せておられたからです。神が彼に告げられたことは、必ずそのとおりになるとの御言葉信仰に立っていた からです。彼は、死をも乗り越えさせる復活信仰に立って、最後まで諦めなかったからです(24~26節)。このように、いかなることが起こったとしても、 それを神の恵みへの応答のチャンスとしようという捉え方で歩む生き方が求められます。

2.愛の連帯感をもって 27~38節
漂流中の船か浅瀬に乗り上げようとした時、船員たちは乗船員を助けようとしないで逃げ出そうとしたのをパウロは阻止しました(27~32節)。そして、 すでに全員が助かると語っていたパウロは(22~26節)、疑心暗鬼になっている乗船員に、信仰の確信に立って元気づけたのです。それは人々の心を奮い立 たせました(33~34節)。
さらに、復活の主イエスが共におられ、人々に元気を与えてくださることを分かち合うために、パンを裂いて共に食しました。自分たちだけ助かろうとした船員 を排除することなく、愛の共同体として受け入れ合ったのです(35~37節)。そこにいた全ての人が、同じ苦難を経験した者として、愛の連帯感の中に導か れたのです。
このように、神の御業は、日々に御言葉を聴き従いつつ歩む信仰者を通して展開されていくのです(23章11節、27章23~24節)。

愛の秘密(2014.6.29)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ18章15~18節、25~27節 1ペトロ3章18節abc

聖書は、多くの人の神との出会いが記されている書といえるでしょう。ここでは、ペトロと主イエスとの出会い、その出会いが閉ざされずにどのように続いていったのかが語られています。それは、神の愛の秘密とも言えるような出来事でした。

1.私ではない  18章17節、25節、27節
ここでは、主イエスが十字架にお架かりなる前日に、その主イエスを裏切るペトロが語られています。ペトロは、主イエスの弟子だと指摘されたことに対し て、「違う(私ではない)」と言って、三度も主イエスを拒んだのでした。ここには、強い決意を持っていたペトロの無力さ、自分の決意や努力で神の前に正し く歩むことのできない彼の姿があらわにされています。この時、ペトロと主イエスとの距離は門の内外のわずか数メートルに過ぎなかったことでしょう。そんな に近くにおられる主イエスに「私ではない」「知らない」と言ったのでした。
「私ではない」と言い張って主イエスと関わりを持とうとしないで、神に背を向けて生きていこうとすることが罪なのです。その意味では、ペトロと私たちとは同じであることを認めざるを得ないのです。

2.わたしである  18章5節、6節、8節
この時同時に、主イエスは人々に捕らえられて、大祭司のもとに連行され尋問を受けておられました(1~14節、19~24節)。「ナザレのイエスだ」と 答える人々に対して、主イエスは「わたしである」と言われたと三回記されています。ここで主イエスは、ご自分を公然と明らかにされたのでした。このように して、裏切る者たちのために、主イエスは裏切ることなく十字架の道を歩まれたのでした。
このように主イエスは、私たちの弱さや罪ある者であることをよくよく知ったうえで、それらを包みこみ、見捨てることなく、身代わりとなって十字架に架 かって救いを全うしてくださったのです。それは、主イエスの愛を受けるに値する者として「神のもとへと導くため」だったのです(1ペトロ3章18節)。こ の主イエスの愛に包まれて歩み続けていきましょう。

どうしても伝えられなければならない福音(2014.6.22)

宣教 :宇井英樹 宣教師
聖書 :ルカ4章43節

貧しさや弱さ、社会的不公平や抑圧の中にいる人々、またそのような状況により壊れた家族、愛を経験していない人々に間近に接するなか、福音宣教とは何かについて考えさせられる。
人は「神のかたち」に造られた(創世記1章27節、口語訳聖書)。しかし、それが壊れている。その回復こそが、福音宣教の本質である。福音が良い知らせであるのは、神の国の訪れ、つまり神の義と神の愛の支配が、生活の中に具現化されていくからである。

1.誘惑 (ルカ4章1~12節)
(1)パンをあげる:一時的に物質的な必要に応える。「与える側、受ける側が定着する時、人間としての尊厳が失われる」(本田哲郎)。
(2)政治的な権威:軍事力、経済、科学などの人間的な支配力、影響力で変えようとする。「富や権力によっては人も社会をも救済できない」(本田哲郎)
(3)神をコントロールしようとする:自分たちの思い描く理想を立てあげようとする。そして、神の愛、あわれみ、助けを疑う。

2.神の国の具現
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)。
悔い改めとは、神の視点で物事を見る。神の国のパースペクティブ(展望)で生きること。福音宣教は神によってなされる。神と心一つにする人々を通して進められる。
一般的な人々と強い立場の人々は、悔い改めの実として、公義を行うようになる、神の国と神の義を求めて生きるようになる(ルカ3章10~14節)。
神は、神の国を具体化するために、弱い立場にいる人々、貧しい人々を用いる(イザヤ26章6節)。彼らも悔い改めが必要。彼らに意識の転換が起ことなし に、彼らの「神のかたち」は回復されない。彼らが自分たちを神の視点で見ることなしに、彼らの社会のなかに神の国は具現化されない。(ルカ14章34節) 「世が腐ってきた、光が失われたと、クリスチャンが文句を言うときは、自分たちが世の光、地の塩としての責任があることに目覚めるべき時」(ジョン・ス トット)。

福音はどうしても伝えられなければならない。貧しい人々、弱い人々にも、一般の人々にも、強い立場の人々にも。福音のみが、神のかたちを回復し、そこに神の国をもたらすのである。

この喜びを地の果てまで(2014.6.18)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ24章44~53節

キリストは、十字架に死んで3日目に復活され、その後40日目に昇天されました。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(51節)とありま す。これは、キリストが弟子たちと一緒におられた地上の生活とは異なる在り方になられて、いつでも、どこでも私たちと共にいてくださるということです(マ タイ28章20節b)。

1.それで十分なのか  50~53節
「ルカによる福音書」を締めくくる記述は、この福音書の続編とも言うべき「使徒言行録」に受け継がれています。ここには、弟子たちがキリストから祝福を受け、「大喜び」で神殿の境内で神をほめたたえていた幸いが語られています。
キリストは、「祝福しながら」共にいてくださるお方です。弟子たちは、そのキリストのご支配にあることを覚えて伏し拝みました。そして、故郷のガリラヤ ではなく、いかなる困難が待ち受けていても「大喜びでエルサレムに帰り」、いかなる時にも「神をたたえていた」のです。
ここに、キリストの福音の喜びに与かっている人々の姿があります。では、これでもう十分であり、この上何も必要ないのでしょうか。

2.なお必要を  47~49節
キリストは、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節、使徒言行録1章3~5節)と命令されています。ペンテコステの日に、聖霊が降り、聖霊に満たされる必要があったのです(使徒言行録2章1~4節)。
確かに、弟子たちは、神をほめたたえていましたが、その信仰は個人的な領域にとどまっていたものでした。神の計画は、彼らが教会を形成し、地の果てまで 福音を宣べ伝えるキリストの証人となることでした。その意味で、信仰が個人の幸せにとどまっていてはならないのです。そのためには、困難をも乗り越えさせ る聖霊の力が必要だったのです(使徒言行録1章8節)。
私たちは、救いの喜びを与えられています。しかし、ルカによる福音書で終わらずに、今もなお、使徒言行録に生きる必要があるのです。

主のもとへ立ち返れ(2014.6.15)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: ホセア14章2~10節 ルカ15章22~24節

父親と子どもとの関係は、結構難しい。その関係が崩れてしまったとき、その回復には非常に時間がかかる。ルカによる福音書15章に登場する弟息子とその父 との関係もそうだった。父の財産を生前に受け取り、自分の村から都会へ出た息子は、父を裏切ったという思いを持ちながら生きていただろう。父は自分に対し て憤っていると考えたに違いない。息子は落ちぶれて、間違いに気付いたが、父のもとにすぐに帰ろうとはしなかった。父は自分など受け入れてくれない、と 思っていたからだ。この息子と同じような状況にあったのが、ホセアの預言のことばを聞いたイスラエルである。そして、彼らにとっての父とは、イスラエルの 神であった。

1.もう憤ってはいない(ホセア14章5~9節)
神はイスラエルになんと語るのだろうか。「わたしの怒りは彼らを離れさった」(5節)。神がもう憤ってはいない。裏切り、背いたイスラエルを神はいや す。憤りではなく、喜んで愛し、関わる。神の癒しは、「露のようにわたしはイスラエルに臨」(6節)む。真夏の夜に降りる露によって、雨など一滴も降らな い地にも命を保持されるように、主はイスラエルの命を回復し、その美を回復する。そこは麗しい楽園となる(6~8節)。命が回復されたイスラエルが神に求 める時、神は彼らに答え、彼らを見守る(9節)。イスラエルは確かに裏切ったが、彼らへの神の憤りは終わっている。

2. 生きるために帰る(14章2~4節)
息子が父のところに帰るように、イスラエルは自分の神である主のもとへ帰れ、と預言者は招いている(2節)。もうゆるされているから、他の神のもとでは なく、自分が帰るべき神のもとに帰るのだ。元気になったから帰るのではない。つまずき、倒れているそのままで帰るのだ(2節)。彼らが神のもとに帰ったな ら、神の癒しがそこで現実となる。ゆるされ、よいものが与えられ(3節)、新しい生活、神のあわれみに満ちた生活がそこで始まる(4節)。
放蕩息子は、勇気を出して父の家に帰った。父は憤ってはいなかった。むしろ、走り寄り、最大の祝いの場を準備した(ルカ15章22~24節)。イエスが 十字架に掛かられたゆえに、父である神はもう憤ってはいない。むしろ、最大の祝宴を準備して待っていて待って折られる。父である神のもとに帰る父親にも、 子どもにも、神は新しい生涯、新しい関係を備えておられる。

天からの光(2014.6.1)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録26章1~23節

使徒言行録には、パウロの回心の証しが3回記されています(9章、22章、26章)。その回心は、決して人間の思索の積み重ねによって生まれたのではあり ません。「天からの光」によるのであり(13節)、パウロは「天から示されたことに背かず」、「光を語り告げる」ことに専念しました(19節、23節)。

1.人生を変革する  1~15節
回心するまでのパウロは、律法を重んじ、律法に生きることが何よりも第一のことと考えていましたので、復活のキリストを信じる信仰によって生きている 人々の群れがあることを受け入れることができませんでした(9節)。そこで、彼らを壊滅させることに熱心になったのでした(11節)。キリストは、そんな パウロの行く手を「天からの光」で遮られたのでした(12~13節)。
キリストは、キリスト者の群れの傍らに身を置いて一つになっておられるので、「なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけられ、「わたしは、あなたが迫害し ているイエスである」と語りかけて、パウロを捕らえられたのでした(14~15節)。このように、キリストは、様々な状況にある一人一人に出会ってくだ さって、その全生涯を変革されるのです。

2.周囲に波及する  16~23節
キリストは、人生を変革されたパウロに、「起き上がれ、自分の足で立て」と命じ、キリストの証人として遣わされました(16~17節)。それは、キリス トを信じる人々を大いなる救いの祝福に与らせるために、福音を宣べ伝えるためでした(18節)。かくして、パウロは天から示されたことに忠実で、福音の光 を語り告げたことにより、それが周囲に波及して行ったのです(19~23節)。
このようにキリストは、キリスト者がその言動と存在をもってキリストを証しするように遣わされるのです。私たちは、いかなるところであっても、その置か れたそこを足場として、復活のキリストの証人となるのです。そこにおいて、福音の光が放たれ、波及して行くのです。

最高の愛の犠牲(2014.5.15)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ17章15~19節

主イエスのこの時の祈りの中には(ヨハネ17章)、父なる神が主イエスを通して、弟子たちに、そして今も変わらずに私たちに与えてくださったものが語られ ています。それには、「永遠の命」(2節)があり、「(御)言葉」(8節)があり、「栄光」(22節)があります。さらに、次のようなものを与えていてく ださっています。

1.特別な身分を  15節、19節
私たちは、イエスを救い主として信じて行こうと願いつつも、不安や疑いが生じることがあります。そこで、主イエスは、神の愛から離れることのないように 私たちを守ってくださいます(11節、15節)。さらに、主イエスは、私たちが神のものとされ、「真理によってささげられた者となる」という特別な身分を 与えてくださるのです(19節b)。
実は、このことのために、主イエスは、「わたしは自分自身をささげます」(19節a)と言われました。すなわち、罪のないお方が十字架に架かられるとい う、全く理屈に合わないことを一身に負ってくださった、最高の愛、最高の決意、最高の犠牲を表してくださったのです。このようにして、神のものとされると いう特別な身分に与ると、自分の心の現実とはっきりと向き合うことができるようになります。

2.新たにされた使命を 16~18節
そして私たちは、この世から逃避して生きるのではなく、この世の現実の中で生活しながら、神のものとされた者として生きていくのです。それを主イエス は、「彼らも世に属していないのです」(16節)、そして「わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)と言わたのです。
ここで礼拝を共にした私たちは、聖書の御言葉によって整えていただき(17節)、新たにされた使命をもって、職場に、学校に、家庭にと赴いて行きます。私 たちは、御自身を献げ尽くしてくださった主イエスの最高の愛の犠牲に立って、日々新たにされた歩みをさせていただきましょう。

心を激しく動かす方(2014.5.18)

宣教: 鎌野直人 協力牧師
聖書: ホセア11章1~11節  ヨハネ11章35節

ラザロの死に直面した時、イエスはどのように泣かれたのだろうか(ヨハネ11:35)。単に涙が流れたのではなかっただろう。イエスがそうであるように、 聖書が証ししている神は、遠くにいて、冷静に物事を見つめているだけの方ではない。心を激しく動かす情熱的な方である。

1.神が心を激しく動かされる理由(11:1~7)
神が心を激しく動かされる理由がホセア書に書かれている。神は父、イスラエル(エフライム)はその子であった(1)。出エジプトというその誕生から神は 関わりを初め、与えられた地に住み、そこで神の栄光を示す使命を与えられた。愛することで自らのすべてを与え、呼び出すことで世界のすべての民のなかから 選び出された。ところが、エフライムは神を裏切り、他の神々を慕う(2)。それでも神は、彼らに歩くことを教え、癒し、救った(3)。選びと愛のゆえに、 絆は切れない(4)。しかし、エフライムは諸国を王とし、自己破壊の道を歩み続ける。そのかたくなな心のゆえに。この長い歴史があるからこそ、神は、わが 子エフライムに心を激しく動かされる。

2.ほとばしる情熱的なことば(11:8~11)
神はその心を情熱的なことばをもって表される(8)。「見捨てることなどできない、引き渡すことなどできない」。憐れみに胸を焼かれる神はそう叫ぶ。人 はあきらめる。しかし神は、あきらめはしない。人は罰を与える。しかし、神は裏切るエフライムに罰を与えず、それを滅ぼさない(9)。人はどこかに捨て置 くだろう。しかし、神はエフライムを集め、帰るべき地に連れ帰る(10−11)。情熱的なことばは、自らが呼び出し、愛しているエフライムにすべてを神が 献げられている証拠である。
エフライムがそのままでいていいはずがない。自らの感情をあらわにされる神の情熱に押し出される。このことばを語ったホセアも、ラザロの死を見て泣いた イエスも、神の情熱の現れであった。人がその使命を果たすことができるようにと、すべてのすべてをかける情熱の神の現れである。そして、私たちに与えられ た使命は、神と同じ情熱で世界に対する神の愛を表すことではないだろうか。

愛の気づき(2014.5.11)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ルカ 6章39~45節

親を、家族を大切にするということは、聖書が一貫して教えていることであり(箴言1章9節、15章20節、ヨハネ19章26~27節他)、互いに愛のきづ なで結ばれていることが大切です。そうした「愛の気づき」は、人と人とが関わるすべての領域において必要なことです。

1.愛のまなざしをもって  39~42節
とかく私たちは、主イエスの教えに対して(41~42節)、自分自身に無頓着であったり、他の人に無関心であったりします。しかし、「人を裁くな」 (37節)と語り出された主イエスは、真に人を裁くことができるのは主なる神のみであると言っておられるのです。つまり、主イエスの愛のまなざしが、自分 の目にある丸太のような罪を気づかせ、それを取り除く十字架の救いの道を開いてくださったことに気づかせてくださっているのです、
そして、この主イエスの愛に気づかせていただくならば、他の人の目にあるおが屑のような罪からの救いのために、私たちの愛の目を回復していただき、他の 人を生かす目を開いていただき、証しの目、伝道の目を持たせていただきたいと願うようになるのです(1テモテ1章15節参照)。

2.愛の心をもって  43~45節
ここで語られている「良い実を結ぶ」とか「良いもの」とは、人を生かし、家族を生かし、教会を生かす言葉を語ることです。他の人の目からおが屑を取り除 いてくださることを願って、意味があり、説得力があり、力がある言葉を溢れるように語ることです。そして、そのような言葉は、主イエスの愛の心が溢れてく るところから生まれてくるのです。そのためには、神の愛の現われである主イエスの十字架を信じ、受け入れることと、主イエスと愛のきずなで結ばれ続けてい ることが大切です。
私たちの家族の交わりと教会の交わりにおいて必要なことは、自らとお互いを包み込んでしまう主イエスの愛の心がいつも溢れていることです。この愛の気づきを抱き続けたいものです。