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Kobe Central Church

2017.5.21 チャペルコンサートのご案内

5月21日(日) チャペルコンサートを開催します。ぜひお越しください。

・日 時 : 2017年5月21日(日) 14時開演(13時30分開場)
・入場料 : 全席無料
・場 所 : 日本イエス・キリスト教団 神戸中央教会
・出演者・プログラム : 下記をご参照ください。(表示に時間がかかる場合があります)

http://www.kobe-central-church.com/wpress/wp-content/uploads/2017/04/170521.pdf

キリストを中心として(2017.4.16)

宣教題  「キリストを中心として」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  2テモテ2章8~13節
イースターは、「イエスは生きておられる」(ルカ24章23節)と告白し、主の主であられるキリストに賛美と感謝の礼拝をささげる時です。このお方の福音にあずかることは、すべてのものの中心であられる「イエス・キリストのことを思い起こす」(8節)、すなわち一人ひとりの存在にキリストが刻み込まれることなのです。

1.最高の喜びにあずかる  9~10節
パウロは、福音のために苦しみを受け、獄中での生活を余儀なくされましたが、「神の言葉はつながれていません」でした(9節)。いかなる状況下でも福音が語られ、神の言葉は生きて働いたからです。
そのようにパウロを動かしたのは、彼自身が福音に生かされている喜びがあったからであり、キリストに招かれている人々が救われ、共に永遠の栄光にあずかることのできる喜びがあったからです。ですから、あらゆることに耐え忍ぶことができたのです(10節)。ここに、キリストを中心において生きる者の喜びがあるのです。

2.キリストと共に生きる  11~13節
この箇所は、初代教会の讃美歌であり、信仰告白でもありました。今日まで、多くのキリスト者の心に刻み込まれてきました。
キリストの復活信仰に生きることは、自分の願い、考え、思い、計画といった自分自身がキリストと共に十字架につけられ、キリストの願い、考え、思い、計画と共に生きるということです(11節)。そのように生きるならば、不誠実に生きることはできなくなります。ただ、心ならずも不誠実になったとしても、ご自身に対して真実であり続けられるキリストは、真実の限りを尽くしてくださいます(12~13節)。
キリストを中心において生きることは、真実なキリストを信頼して共に生きることです。そこから、恵みと力と希望がわいてくるのです。

主は死にて葬られ(2017.4.9)

宣教題  「主は死にて葬られ」           宣教 今田好一牧師
聖 書  ルカ23章50~56節
当時、十字架で処刑された人をきちんと墓に葬ることはありませんでした。

1.神に用いられたアリマタヤのヨセフ
アリマタヤのヨセフは金持ちで、議員で、隠していたがイエスの弟子でした。彼はピラトの所へ行き、イエスの体の引取り方を願い出ます。彼はイエス様の十字架を見て、弟子であることをもう隠すことはできませんでした。そして、自分のための墓をイエス様に献げたのです。イエス様が死なれた後で、彼にできることはこれだけでした。しかし、死んでからではもう遅い、生きている内に多くのものを献げれば良かったのにと思われますが、決して遅くはありません。神はこの墓を用いて、イエス様の栄光の復活の場とされました。

2.陰府にまで降られた主イエス
主が埋葬されるのを、イエス様と一緒にガリラヤから来た婦人たちが見届け、家に帰り、香料と香油を準備しました。それは、安息日が明けたらもう一度丁寧に主を埋葬するためでした。彼女達にできることは、ただそれだけでした。しかしこの時、イエス様はどうされていたのでしょうか。使徒信条においては、「陰府にくだり」と告白しています。この言葉は、イエス様が十字架において、言い難い憂いと苦痛と恐れを肉体のみならず魂において引き受け、忍ばれたことを語り示しています。それによって、私達の罪、古き自分が主の十字架と共に葬られたのです。そして、罪の奴隷状態から解放されるという救いが実現したのです。
このお方を私の神、私の救い主と信じ受け入れ、共に歩ませて戴きましょう。

信仰による再出発(2017.4.2)

今日の宣教要旨
宣教題  「信仰による再出発」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  創世記22章1~14節 ヘブライ11章17節
アブラハムを祝福される神は(創世記12章2節)、全能の神(17章1節)であり、永遠の神(21章33節)であられます。ところが、それを覆すかのように、彼に信仰の試練を与えられました(ヘブライ11章17節)。彼にとっては、神が約束されたことと(17章19節)矛盾する要求をされたことが理解できなかったでしょう。

1.説明はできないが
アブラハムは、約束の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられたことに対して、自らも納得できない、人にも説明して語る言葉を持たないままで「その場所」に来たのでした。これは、神を信じているのになぜ、神は約束されたのになぜ、といった信仰の土台が揺さぶられるようなことでした。
神の前に試され、扱われ、訓練されつつ前進できるのは、「信仰によって」です。人には説明出来ないことであっても神は何もかも分かっておられます。神はある必要からこのようにされるのです。神は必ず備えてくださるのです。神は後で、試練の中にある者にも他の人にも説明してくださるのです(ヨハネ13章7節参照)。

2.二人は一緒に
「二人一緒に歩いて行った」(22章6節、8節)とは、何と幸いな父と子でしょうか。試練の中で、二人が一緒でないことがあるからであり、一緒であっても前進しないことがあるからです。しかし、二人のうちどちらかが欠けても成り立たない中を歩き続けることができたのは、父の信仰に子が従い、子の信頼に父が励まされていたからです。神は、そのような二人を守り続け、導き、備えられたのです(11~14節)。
私たちは、信仰者としての様々な関わりの中で、アブラハムとイサクであることを知る必要があります。このような神の試みの中あって、なお神を信頼し、神に従うことを通して、神は祝福され、勝利を与えてくださるのです(22章16~18節)。

受け入れる愛(2017.3.26)

宣教題  「受け入れる愛」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルか19章1~10節
ザアカイは、キリストとの出会いを通して、彼の過去がいやされ、赦され、新しくされたゆえに、彼は生かされ、周囲を生かす幸いな者とされました。キリストとの出会いのあるところ、その人の人生に同じことが演じられています。

1.キリストに受け入れられる
ザアカイは権力と富を所有し、才能にも恵まれていましたが、人との人格的な友情関係を持てない孤立した生き方をしていました(1~3節)。さらに、神の祝福にあずかる「アブラハムの子」として選ばれていたにもかかわらず、清い生き方ができないでいました。このような生き方が、本来あるべき状態にない「失われたもの」、愛の神から離れて、神との交わりを拒んでいる者の姿です。
切なる渇きをもってキリストに近づくザアカイに対して、キリストは最大の関心を持って彼の名を呼び、彼との交わりを持とうと愛の限りを尽くして受け入れておられます(4~5節)。このキリストの愛の招きは、誰に対しても変りません。

2.キリストを受け入れる
ザアカイは、そのままで受け入れてくださっているキリストを喜んで迎え入れ、登っていた木から急いで降りて来ました(6節)。それは私たちが、恐れ、罪や汚れ、不信仰といった木に登っていたところから降りて来る姿を表しています。そして、キリストの愛に触れることにより、罪に目覚め、罪を告白し、償いの実を結んでいます(8節)。そこから、キリストとの生きた交わりの生活が始まったのです(9節)。
キリストは、「失われたものを捜して救うために」私たち一人ひとりのところに来てくださっています(10節)。救いにあずかるのに、長い年月をかけることはありません。「今日」です。善行や償いをすることが、救いの条件ではありません。救いの結果湧き出てくるものです。

礼拝ご案内・行事予定(2017年4月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
2日(日) 第1聖日 礼拝「信仰による再出発」
創世記22:1~14
世に勝つ者
ヨハネ16:29~33
鎌野 健一
9日(日) 第2聖日 パームサンデー礼拝「主は死にて葬られ」
ルカ23:50~56
十字架による新しい絆
ヨハネ19:23~30
増永  茂
16日(日) 第3聖日 イースター感謝礼拝 「キリストを中心として」
第2テモテ2:8~13
祈りと証し 
23日(日) 第4聖日 伝道礼拝「神の子イエス・キリストの福音」
マルコ1:1~4
天地創造
創世記1:1~31
大塚 章信 
30日(日) 第5聖日 子ども礼拝「驚くばかりの恵み」
ルカ23:32~43
罪の起源
創世記2:15~17、3:1~7
真田 重治

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

4月行事予定

2日(第1聖日) 礼拝 教師任職式 奉仕者任命式 歓迎愛餐会
教会学校教師研修会1 教会だより配布
9日(第2聖日) パームサンデー礼拝 聖餐式  4月誕生者祝福   エノク会例会 役員会
11-14日 受難週祈祷会
16日(第3聖日) イースター感謝礼拝 洗礼式 召天者合同記念会 臨時役員会
23日(第4聖日) 伝道礼拝
30日(第5聖日) 子ども礼拝   CS遠足

5月行事予定

7日(第1聖日)礼拝 聖餐式 5月誕生者祝福  チラシ配布
14日(第2聖日)礼拝 母の日礼拝 銀婚式  役員会
21日(第3聖日)礼拝 バルナバミッション祈祷会  チャペルコンサート
28日 (第4聖日) 礼拝  質問受付会

起きよ、光を放て(2017.3.19)

宣教題  「起きよ、光を放て」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ60章1~7節、19~22節 マタイ5章14節a

「あなたがたは、世の光です」。だから、「起きよ。光を放て」。聖書はそう招いている。世界や教会や自分が暗やみに包まれていても、いやそうだからこそ、「起きよ。光を放て」。

1. 主の栄光が輝いているから
私たちの光はどこから来るのだろうか。そして、捕囚からの回復にあってもいまだ苦しみもだえているシオンの光はどこから来るのだろうか。主の栄光がもうすでにあなたの上を照らしている(1~2節)。だから、主の光を映す鏡として、あなたは光を放つことができるのだ(19~20節)。事実、十字架で死なれたキリストが復活されたのだから、復活の光はもうすでに輝いている。

2. そうすればあなたの使命を果たせるから
シオンが主の光で輝く時、主に求められていた使命(2章1~5節)が実現する。失われていた者たちが戻り(4節)、これまで見向きもしなかった者が訪れ(3節)、豊かさと平和がもたらされ(5b~7節, 10~11節, 1節, 16節a, 17節, 18節)、シオン自身が喜びに満たされる(5節, 14~15節)。主のもとに人を導く使命が果すことができるようになったから喜ぶのだ。そして、主がそのあわれみによってこのことを実現してくださる。

3. 主を知り、強くされ、美しくされる
主の光に照らされて輝くとき、シオンも変えられる。救い主である主をさらに知り(16節)、主に従うゆえに強くされていく(21~22節)。そして、輝きに満ちた美しさが与えられ、その美しさがシオンを包む(7節, 9節, 13節, 19節, 21節)。主のあわれみが満ちるところこそ美しく輝くからだ(10節)。
だから、世の光よ、起きよ、光を放て。2000年前、時は来た。主はなしてくださった(22節)。十字架と復活の大きな恵みに押し出されて、あわれみの御手のうちに、復活のいのちによって歩み続けようではないか。

聖なる生活(2017.3.12)

宣教題  「聖なる生活」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ4章1~12節
ご自身の独り子を十字架に架けるほどに私たちを愛し抜かれた神は、私たちを「聖なる者」(1節)とし、「聖なる生活」(7節)に生きるように招かれます。それは、満ち溢れた豊かな生活となっていきます(1節C、10節b)。

1.神に喜ばれる生活に満ち溢れる  1~8節
パウロは、テサロニケの信徒たちに、「神に喜ばれる」生活をこれまでも歩んできたし、今も歩んでいるし、「その歩みを今後もさらに続けて」満ち溢れてほしいと勧めています(1節)。
その歩みは、神の御心と深く関係していて、罪から分離されて神のものとなるという積極的な生き方となっていきます(3節)。具体的には、純潔であり、性的な汚れから聖別されていることです(4~7節)。そのような聖なる生活を歩めるように、神は聖霊を与えて支えてくださるのです(8節)。私たちは、切なる渇きと、誠実な求めと、砕かれた心をいただいていることが大切です(詩編51編12~14節、19節参照)。

2.互いに愛し合う生活に満ち溢れている  9~12節
パウロは、テサロニケの信徒たちが「互いに愛し合う」という「兄弟愛」の実践を神から教えられていることを高く評価しています。そして、そのことに「なおいっそう励」み、満ち溢れるように勧めています(9~10節)。愛することにおいての弱さを覚えたとしても、十字架の主イエスを信じ仰ぎ、兄弟に対する愛を豊かにしていただくことです(1ヨハネ3 章16節参照)。
そのように互いに愛し合うことに満ち溢れてくることと、他の人への豊かな配慮に満ちた落ち着いた生活となることとはつながっています(11~12節)。兄弟愛に満ち溢れた落ち着いた生活を造り上げられていくことが、主の再臨を待望する者たちがなし得る最善の備えです。

主は心を見られる(2017.3.5)

宣教題  「主は心を見られる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章37~44節
人は、目に見える外側のことがらに気遣いをし、内側とりわけ心の状態に対する気遣いをすることにはおろそかになりがちです。主イエスは、ファリサイ派の人たちだけでなく、全ての信仰者の心が清められ続けることを求められるお方です。

1.あなたの心は汚れていませんか
主イエスは、ファリサイ派の人たちとの交わりを持たれながら、「あなたたちは不幸だ」と三度も語られました(42~44節)。彼らは、「外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちて」いたからです(39節)。十分の一の献げ物をするが、人に対する誠実な態度と、神への真実な信頼の心があるかと問いかけておられます(42節)。虚栄と自己中心の心でないかと問いかけておられます(43節)。気づかないで罪を犯している心の状態を問いかけておられます(44節)。
主イエスは、不幸な姿を告げることによって人を退けられるのでなく、汚れた心の状態であることを気づかせるために促しておられるのです。全ての動機は、主と人への愛からですか、それとも自分自身の欲からですか。

2.清めてくださる主を仰ぎ続けていますか
神は、人の体(外側)をお造りになられました。また人の心(内側)をもお造りになられましたので、汚れている人の内側を造り変え、他者に施しをすることに対しても喜んでさせていただけるように清くしてくださるお方です(40~41節)。人は、それによって成長していくのです。
私たちは、主イエスによって造り変えられ、心を清くし続けていただく必要があります。主イエスが十字架で流された血潮は、私たちの罪を清め続ける力があります(1ヨハネ1章7節)。ですから、私たちは主イエスの十字架を仰ぎ続け、十字架の血潮に信頼し続けるのです。

父の愛あふれて(2017.2.26)

宣教題  「父の愛あふれて」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ15章11~24節
この「放蕩息子のたとえ」は、今日の私たちと関わりのない話が語られているのではなく、私たちの人生そのものが描き出されている物語です。正確に言うならば、「失われた息子のたとえ」なのです。

1.人は自由を求める  11節~16節
弟息子は、自由を求めて旅立っています。ところが、その自由を放蕩の限りを尽くして身を持ち崩し、動物以下の生活を強いられました。
人は、自由を誤らせると、罪の誘惑に陥って本来の自由に生きることを失わせます。善悪を区別する力を失わせます。愛情を弱らせ、良心と理性にしたがって生きることを失わせます。ここに、父なる神を離れて生きる人の失われた姿があるのです。

2.人は本心に立ち返る必要がある  17節~20節a
そこで、弟息子は「我に返って」本心に立ち返り、「天」すなわち父なる神に対する罪と、「お父さん」すなわち共に生きる人に対する罪を告白しています。そして、すがる思いをもって「父親のもとに行った」のです。
ここに、父なる神のもとに立ち返る人の姿が表されています。そのまま、ありのまま、立ち上がって父なる神のもとに立ち返る決断をすることが必要なのです。

3.人は神の愛によって回復される  20節b~24節
そのように立ち返った弟息子に対して父親は、「見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。愛は見分ける力があり、走る力があり、無条件に受け入れる力があるからです。父親は、弟息子のそのままを覆い、息子であるしるしの指輪をはめさせ、新しい出発のための履物を履かせ、子牛を屠って迎え入れました。
ここに、独り子イエスを十字架にかけてくださった神の愛が表されています。愛の神は、自分の存在の価値と意味を見いだして、新たに生きる者を喜ばれるのです。

礼拝ご案内・行事予定(2017年3月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
5日(日) 第1聖日 礼拝「主は心を見られる」
ルカ11:37~44
最大の愛
ヨハネ15:12~17
鎌野 健一
12日(日) 第2聖日 礼拝「聖なる生活」
1テサロニケ4:1~12
祈りと証し
19日(日) 第3聖日 礼拝 「起きよ、光を放て」
イザヤ60:1-7, 19-22
洗足の恵み
ヨハネ13:1~15
大塚 章信
26日(日) 第4聖日 伝道礼拝「受け入れる愛」
ルカ19:1~10
キリストにある平安
ヨハネ14:27:31
真田 重治

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

3月行事予定

5日(第1聖日)礼拝 聖餐式 3月誕生者祝福 新任教師研修会1 Happy Sheep
12日(第2聖日)礼拝 新任教師研修会2 CS・JY合同行事   役員会
19日(第3聖日)礼拝 新任教師研修会3 協力牧師送別愛餐会
24‐26日 JYスプリングキャンプ
26日(第4聖日)伝道礼拝 新任教師研修会4

4月行事予定

2日(第1聖日) 礼拝 聖餐式 4月誕生者祝福 教師任職式 奉仕者任命式 歓迎愛餐会
教会学校教師研修会1 チラシ配布
9日(第2聖日) パームサンデー礼拝 エノク会例会 役員会
11-14日 受難週祈祷会
16日(第3聖日)  イースター感謝礼拝 洗礼式 召天者合同記念会 臨時役員会
23日(第4聖日)  礼拝
30日(第5聖日)  子ども礼拝  CS遠足

聖なるもの(2017.2.19)

教題  「聖なるもの」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  2テモテ2章14~26節
人は、確かな方に愛され、その方に結びついていたい、確かなことを成し遂げたいと切望しています。その確かな方が主イエス・キリストであることを知るならば、その主のお役に立ちたいと願い、「聖なるもの」とされ続けることを求めるのです。

1.貴いことに用いられることは当然である
主は、私たちが「貴いことに用いられる器」(21節)となり、「主の僕」(24 節)となって、神に用いられることを願っておられます。その主の器は、神の愛と恵みと聖霊に満たされ、それを保ち続け、それを他者と分かち合うために持ち運ばれる者です。
そのことを経験している主の器は、「恥じることのない」熟練した働き手となって、「真理の言葉を正しく伝え」分かち与えることができるようにされるのです(15節)。すなわち、教えることと、その人の生活が聖別されて分離していないということです。語ったように、教えたように生きているかとは絶えざる問いかけです。

2.「聖なるもの」となることを求めることは当然である
続く聖書箇所には、20にものぼる罪のリストが述べられていますが(3章1~9節)、自己愛や高慢や腐敗しているクリスチャンの心の状態が語られています。そうした罪の状態がきよめられて「聖なるもの」となることを求めることは、当然なことなのです。
まず、卑しいものから離れ去り、また避けることを決断し(16~19節)、「正義と信仰と愛と平和を追い求め」続けることが大切です(22~26節)。主ご自身は、そのような者をきよめ続けてくださって、主に役立つ者として用いてくださいます。それは、自分のためというよりは、主の働きのために、どうしても必要なことなのです。
主は、有能な器ではなく、主のために有用な器を用いてくださるのです。

あなたは私に何をしてほしいのか(2017.2.19)

宣教題 「あなたは私に何をしてほしいのか」 宣教 スティーブ・ブレディ師
聖 書  ルカ18章 35~43節
答えがはっきりしている質問を投げかける人がいる。主イエスが盲人の物乞いに、何が必要なのかと尋ねたとき、主イエスの投げかけられた質問はそのようなものであったのだろうか。同じように、主イエスは、われらの必要についての質問をわれらに投げかけられたのだろうか。

1.あなたは主イエスに何をしてほしいのか
何もしてほしくないのか。何かしてほしいのか。すべてをしてほしいのか。

2.どれだけ本気にそうしてほしいのか
バルティマイは、本当にそうして欲しいと切願していたし、自分の必要が何であるか、明確に分かっていた。われらもそうあるべきだ。

3.それらが与えられたとき、あなたは何をするのか
与えられたとき、バルティマイは主イエスに従った。あなたはその意志があるか。あなたはそうするか。

主はシオンに来られる(2017.2.12)

宣教題  「主はシオンに来られる」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ59章15b~21節 マルコ1章14~15節
神はこの世界を見られたら、どのように判断されるのだろうか。
主は捕囚から帰還した民の姿を見、そこで正しいさばきが行われていないのを見た(15節)。流血、虚偽、不正が満ち、平和などない。社会の問題の原因は、神の民自身にある(1~8節)。民も、自分たちが暗やみの中を歩んでおり、正義も、救いも、まこともない世界を作りあげてしまったことを自覚している(9~15節)。そんな神の民が神のわざをなすことなど、不可能である。

1. 正しいさばきのために介入される主
世界の現実を見られた神は、それを放置なさることはされない。主は、戦いに長けた勇士として、その世界に介入されて、そこに正しいさばきをもたらす。正義も救いもないところに、それをもたらす勇士として介入され、それぞれにそれぞれのわざにふさわしい報いをもたらすのである(16~18節)。世界を破壊するためではなく、修復するためにそれを行われる。そして、主の霊の働きのゆえに、世界中の者たちは、主の介入を認めるに至る(19節)。

2. 主はシオンに来られる
そして、主はシオンに来られる。問題だらけのシオンに、エジプトからイスラエルを救い出した「贖う者」(20節)として来られる。背く者には、それにふさわしい報復が与えられる。しかし、かたくなな心を解き、罪を悔いる者、つまり、主に立ち帰る者には、救いと再生を与えられる(20節)。シオンは造り変えられ、契約は更新され、神のなさる正しいさばきという介入を証しする者として世界へ遣わされる。神の聖霊とみことばが共に働いて、世界は彼らを通して修復されていくのである。
この世界を見られた主は、イエスを通してこの世界に介入され、世界を修復し、修復のわざを行う民を生み出された。イエスはイスラエルに来られ、シオンに来られ、私たちのところに来られた。罪を悔い、主に立ち帰るところから私たちのこの世界における働きは始まる。

拡がる祈り(2017.2.5)

宣教題  「拡がる祈り」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ3章10~13節
教会に生きる私たちは、熱心に祈る仲間です(使徒言行録2章42節参照)。ここに、テサロニケの信徒たちへの愛と配慮にあふれて祈り続けるパウロがいます(10節)。その祈りは、「どうか」と繰り返されてこだましています。

1.熱烈な祈り  10~11節
テサロニケの信徒の「信仰と愛について、うれしい知らせ」を聞いたパウロは(6節)、喜びと感謝にあふれました(9節)。しかし彼は、彼らの信仰とその歩みが盤石なものとなることを願って、「信仰に必要なものを補いたい」と継続した熱心な祈りをしています(10節)。
そこでパウロは、これまでテサロニケへの再訪を妨げられてきたために(2章18節)、神であられる主イエスが「道を開いてくださるように」と祈っています(11節)。ただ、それが実現したかどうかを聖書は明らかにしていません。
ともあれ、主なる神が開かれる道を歩むことが、信仰者の信仰者たる歩みです。

2.成熟を求めての祈り  12~13節
テサロニケの信徒の信仰に必要なものを補うためにというパウロの祈りは、深まっていきました。苦難の中にあっても信仰者相互の愛が深められ、迫害する人たちだけでなく福音を必要とする「すべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈っています(詩編23編5節参照)。それはパウロ自身がテサロニケの信徒を愛することにおいても同じであり、それらの愛の源は常に主なる神ご自身です(12節)。そして、主の再臨の時に備えて、聖なる者として整えられていく歩みであるようにと祈っています(13節)。
主の再臨待望の信仰に生きることは、愛と聖さに生きることであり、今も変わることのない教会の大切な祈りです。