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Kobe Central Church

恵みによって、今の私に(2017.12.31)

宣教題 「恵みによって、今の私に」     宣教 今田好一牧師
聖 書 1コリント15章3~10節

 復活の主が人々の前に現れたリストの最後に、パウロは自分を挙げて、神の恵みを感謝しています。

1.今のわたしに導いた惠み
 パウロは自分を「月足らずで生れたようなわたし」と表現し、更に神の教会を迫害した張本人として描きます。しかし神は、そんなパウロに主の十字架による全き赦しを与え、復活の主イエスを宣べ伝える者として用いられます。神は、パウロが弱い時に強くし、迫害に遭った時に助け、心挫ける時に新しい力を与えて下さいました。

2.恵みによる多くの働き
 パウロは、自分の働きが誰にも負けなかったと告白をします。それは神の恵みが溢れているから、共にいて下さった神の恵みによって多くの働きができたと語ります。神の恵みを深く感じたパウロは、その恵みを決して受けっ放しにはしませんでした。

3.内側で働く神の恵み
 パウロは、神の恵みを感じ、一生懸命働く者になった自分が偉いのではなく、素晴らしいのは私の内で働かれる神の恵みなのだと語ります。すべてが神の恵みであり、その恵みの与え主だけが褒め称えられるべきなのです。神の愛が欲しくて奉仕するのではなく、神への感謝が自然の表れとしてなされる奉仕のみが貴いのです。
 今年、与えられた恵みに感謝し、来る年のためにも、主は更に優る恵みを私たち一人ひとりに備えておられることを信じて歩みましょう。そして、今のわたしがあるのは主の十字架のゆえであることを心に覚えましょう。

神の愛の冒険(2017.12.24)

宣教題 「神の愛の冒険」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネ3章16~21節

 クリスマス、それは神が愛ゆえに冒険をされて、私たち一人ひとりの所に来てくださった出来事です(16節)。

1.キリストが十字架に向かう冒険の道  16節a
 神の愛の対象は、まぎれもなく「世」です。それは、愛の神を受け入れない浮き世の世界であり、そこに生きる人の心と生活の罪ある有りさまです。神は、その「世」を無条件の絶対的な愛を持って愛していてくださるのです。
 さらに驚くべきことに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と神の愛の深さが現されました。愛するに価しない者に対して、キリストを十字架に架けるという、最高の価値ある御業を成してくださったのです。神の愛が集中したのは、キリストが十字架に向かうという冒険の道においてでした。

2.一人ひとりが信仰に生きる冒険の人生  16節b
 神の愛の冒険に対して、私たち一人ひとりもまた人生の冒険へと招かれています。その冒険とは、自分の殻に閉じこもって生きることから、神の愛を受け入れ、神に対する信仰に生きることです。それは、愛の神から失われた滅びのなかを生きるのではなく、キリストの復活にあずかって、神との永遠の交わりに生きることです。それゆえに、キリストが救いを成し遂げてくださった十字架を仰ぎ見るのです。神は私たち一人ひとりに、光を選ぶのか、闇を選ぶのかを問いかけておられます(17~21節)。
 「ヨハネによる福音書3章16節」は、私たち一人ひとりが生涯を通じて、日々に心の中に呼び起こして自らに語りかける御言葉です。それは、ただ信仰によってのみキリストに寄りすがり、健やかな愛の心に立ち直り続けることです。

主の天使が命じたとおり(2017.12.17)

宣教題 「主の天使が命じたとおり」    宣教 今田好一牧師
聖 書 マタイ1章18~25節
 神は、御子イエス・キリストを、神の愛の贈り物として与えてくださいました。

1.マリアの信仰による確信
 マリアは、その信仰によって神の贈り物として、イエスをわが身に受け入れました。しかし、神の贈り物は、マリアただ一人に贈られたものではなく、すべての人を罪から救うために贈られたのです。わたしたちに必要なのは、神の贈り物なる救い主イエス・キリストを心の中に受け入れ、それを喜びとすることなのです。

2.ヨセフの正しさゆえの悩み
 ヨセフは、全く身に覚えのないマリアの妊娠を知り、怒り、悩み、苦しみます。しかし、天使からの「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」(22節)との言葉で苦しみは半減し、後はその神の言葉を信じることで、ヨセフの苦しみは消えました。ヨセフは、マリアの胎の子を神からの贈り物であると信じ、これを受け取ったのです。

3.主の天使が命じたとおり
 マリアとヨセフは、実に対照的な方法で神の贈り物であるイエスを受け取りました。マリアは天使の言葉で悩みつつも、「わたしは主のはしためです」(ルカ1章38節)と、それが神の恵みであるとの信仰の確信に立ち、そこに光が与えられ、ヨセフは天使の言葉で悩める心に光が与えられました。わたしたちも神の言葉を聞いて悩みの中にありつつも信仰の確信を得る時と悩みの中に光を得る時があります。そのどちらにしても、わたしたちが神の贈り物であるイエス様を受け取るための方法なのです。
 神は、わたしたちにもイエス様を与え、イエス様によって、いつもわたしたちのそばにいてくださるのです。神を信じ、御言葉に聞き従う歩みを始めましょう。

あなたを待っておられる主(2017.12.10)

宣教題 「あなたを待っておられる主」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネの黙示録3章14~22節

 私たちは、すでに来てくださった救い主イエスの救いを受け入れました。そして、再び来られる王なるイエスを待望しています。今は、私たちを待っておられる主イエスに対して、新たな思いで信仰の応答をさせていただく時です。

1.真実な愛の主であるから 
 ラオディキア教会に語りかけられた主は、いつも変らずに、約束されたことを必ず成し遂げられる真実を貫き通して(14節、2テモテ2章13節)、愛を現し続けておられます(19節)。この真実な愛の主が、クリスマスの主イエスであり、十字架の救いの道を歩んでくださったのです。
 今も語りかけ招かれる主イエスは、私たちが信仰の戸を開けることによって、交わりが待てることを待っておられます(20節)。

2.真実な愛の主に誠実な応答を 
 主イエスの真実な愛を知ったにもかかわらず、ラオディキア教会がそれに応答しない「なまぬるい」状態でした(15~16節)。彼らは、自分たちの本当の姿が「分かっていな」かったのです(17節)。それに対して、真実な悔い改めと、試みによるテスト済みの信仰をもってキリストを着るものとなり、霊の目を開いていただくよう勧めています(18~19節)。
 主イエスは、十字架に架かられた赦しの御手をもって、私たちの信仰の戸をたたき続けておられます。そして、それを拒むことのないように今なお招き続けておられます。私たちの全存在と全生涯の中に真実な愛の主を招き入れ、誠実な信仰の歩みを続ける勝利者とならせていただきましょう(20~22節)。

思いがけなく来られる神(2017.12.3)

宣教題 「思いがけなく来られる神」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 マラキ3章1~5節

 待降節(アドベント)は、クリスマスを迎える準備を日々に過ごすこととともに、再び来臨されるキリストを待望する備えをする時です。旧約の最後の預言者マラキは、そのことを語っています(1節)。「主は来られる」、それが私たちの信仰です。

1.不信仰が支配する中に 
 「主が来られる」ということが叫ばれる時は、いつも危機的な状況においてです。マラキが預言をした時は、神の民の信仰に深い失望感や無力感が支配していました(2章17 節、3章14~15節)。これは。今日の私たちを取り巻く状況と酷似しています。
 この時に、「主は突如、聖所に来られる」つまり思いがけなく主が来られる、それに先立って「道を備える」主の使者が送られてくると語ったのです(1節)。ここに、救い主イエス・キリストの来臨の事実と、その道備えをしたバプテスマのヨハネのことが預言されています。

2.信仰が回復されるために 
 このように主が来られるのは、主の審きの時でもありました(2節、5節)。この終わりの時が来たら、民は神の憐れみにより赦される以外に頼るものはないのです。そこでは、まず祭司たちが(2~4節)、続いてその民全体が聖別されるのです(5節)。
 今日の私たちに神の憐れみが現わされたのは、救い主イエス・キリストが来臨され、その十字架と復活によって救いの成し遂げられたことです。そして、再び来臨される主を待望しつつ歩んでいます。その間私たちは、主イエス・キリストによる救いの福音を、大胆にお伝えしていくことです(2テモテ4章1~2節)。
 クリスマスは、教会が、そして聖徒たちが新たに立ち上がる時です。

礼拝ご案内・行事予定(2017年12月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
3日(日) 第1聖日 第一待降節伝道礼拝「思いがけなく来られる神」
マラキ3:1~5
インマヌエルの福音
イザヤ7:1~17
鎌野 健一
10日(日) 第2聖日 第ニ待降節礼拝「あなたを待っておられる主」
ヨハネの黙示録3:17~20
救い主誕生の預言
イザヤ9:1~7
大塚 章信
17日(日) 第3聖日 第三待降節礼拝「主の天使が命じたとおり」
マタイ1:18~25
ヨセフへの告知
マタイ1:18~25
山崎 勝
24日(日) 第4聖日 クリスマス感謝礼拝「神の愛の冒険」
ヨハネ3:16~21
休会
31日(日) 第5聖日 年末感謝礼拝「恵によって、今の私に」
1コリント15:3~10
感謝の生活
コロサイ3:15~16
増永 茂

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

 

12月行事予定

3日(第1聖日)待降節礼拝 聖餐式 12月誕生者祝福  チラシ配布  役員会
10日(第2聖日)待降節礼拝
17日(第3聖日)待降節礼拝  各CSクリスマス祝会 Happy Sheep
23日 JYクリスマス祝会
24日(第4聖日)クリスマス感謝・伝道礼拝 洗礼式 クリスマス祝会 クリスマスイブ礼拝
27日 年末感謝祈祷会
31日(第5聖日)年末感謝礼拝

1月行事予定

1日(月) 元旦礼拝
7日(第1聖日)成人祝福礼拝 聖餐式 1月誕生者祝福 成人祝福式
14日(第2聖日)礼拝 ダイヤモンド婚・金婚式
21日(第3聖日)伝道礼拝 バルナバミッション祈祷会
28日(第4聖日)礼拝 質問受付会

背負ってくださる主(2017.11.26)

宣教題 「背負ってくださる主」       宣教  今田好一牧師
聖 書 イザヤ書46章1~4節 / マタイ11章28節

わたしたちにとって、老後のことはとても切実な問題です。でも、もし十分な備えができなくても神を信じる者にはすばらしい保証があります。それは神の約束です。

1.人それぞれが背負っているもの
 わたしたちには誰も代わることのできない、自分で負うしかない重荷があります。そして負いきれずに押しつぶされそうになることがあります。だからこそ、優しく寄り添ってくれる存在が必要なのです。それが、主イエス・キリストなのです。

2.人に背負われている神々
 バビロン捕囚となっていたイスラエルの民は、傷ついた心の中で、バビロンの神々が動物や人に背負われている勇壮で華々しい祭りを見ていました。しかしペルシアによるバビロニア帝国の崩壊の危機に際して、バビロンの守護神であるベルとネボは守護どころか、それを負う人々の重荷となり、ペルシアに仕えることになるのです。

3.人を背負ってくださる主
 主なる神は、イスラエルの民に、「あなたたちは生まれた時から負われ・・・老いる日まで白髪になるまで・・・わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3~4)と言われました。それはわたしたちの過去、現在、未来にかけてのすべてであり、わたしたちの歩みの最初から終わりまで神の守りの中にあるということなのです。

 全世界の多くの人々が老後の生活に不安を覚えている現代において、神の約束はいよいよ大きな力となります。そして、わたしたちが歳を重ねていく中で、主に背負われていることを素直に認め、「わたしは・・・背負って行こう」と言ってくださる主に人生をお委ねしましょう。きっと平安で満たされることでしょう。

解放される道(2017.11.19)

宣教題 「解放される道」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ13章10~17節

 ここに、ただ主イエスの憐れみにすがっている女性がいます。彼女は、十八年の間体がかがんだまま伸ばすことができない病気でしたが、主イエスによってそこから解放されたのでした(10~13節)。

1.主イエスは安息日の意味を回復された 
 会堂長は、主イエスが安息日に癒しの業をなされたことを非難しました(14節)。本来安息日は、神が世界の王であることを覚え、すべてのものが休み、すべての人
が神の前に公平とされ、神の約束を覚える日でした。ところが当時、そのことが歪曲
されていたため、主イエスは元に戻して神の愛を知る日とされたのです。主イエス
は、この時解放のメッセージを語られていたと思われます(ルカ4章16~20節)。
主イエスは「捕らわれている人に解放を」告げ知らせ(ルカ4章18節)、解放の御
業をなされるお方です。

2.主イエスは解放の御業をなされた 
 主イエスは、病気から解放された女性が大事な「アブラハムの娘」であるので、「サタンに縛られていた」ところから本来の姿に解放されたのでした(16節)。パウロも同様のことを証ししています(2コリント12章7~10節)。
 主イエスは、「罪と死との法則から」解放されることから始まって(ローマ8章1~2節)、人がもっている深い劣等感などの弱さから解放される道を開いてくださるお方です。ですから、私たちは主イエスを信頼し、主イエスに支えられて、真っ直ぐに立ち続けるのです。この主イエスに出会い、その憐れみに与るのが、私たちの安息日であるこの礼拝の時なのです。

子どもを祝福されるイエス様(2017.11.12)

宣教題 「子どもを祝福されるイエス様」   宣教 今田好一牧師
聖 書 マタイ19章13~15節

 子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されているイエス様の姿は、わたしたちの心を温かくしてくれる。しかし弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱った。

1.子どもたちを退ける
 当時のイスラエル社会では、律法を守ることが何よりも大切である。子どもたちは、律法を理解できず、守ることもできないため、完全な人間として受け入れられずにいた。だから弟子たちは、子どもを連れて来た人々を叱った。しかし、イエス様は子どもたちを前にして、「天の国はこのような者たちのものである」と言われた。

2.条件付きの世界と無条件の世界
 当時、多くの人々が律法を厳守し、「もし~ならば」という条件付きの世界を生きていた。わたしたちはもはや律法を厳守することはしないが、それに共通する姿勢でいることが多いのではないだろうか。しかし、イエス様が言われた「天の国」とは、無条件の世界を指しているのであり、その世界に生きることで、わたしたちは生きる力を得、再び立ち上がっていく力を得ることができるのである。

3.子どもたちを祝福される
 子どもたちにとって何よりも重要なのは、無条件で自分を受け入れてくれる存在であり、そこに信頼が育まれてこそ、子どもたちが活き活きと成長していけるのである。イエス様は子どもたちを、あるがままに受けとめ、祝福されたのである。
 イエス様が親たちに連れて来られた子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたように、わたしたちをその腕で抱き上げ、祝福しておられるのである。そして、『あなたが存在し、生きていてくれることが、何よりの価値である』と言われているのである。

思い違いをしないように(2017.11.5)

宣教題 「思い違いをしないように」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章12~18節

 主イエスを信じた者たちが「試練」の中に置かれることにより、それが「誘惑」となってしまうことがあります。その誘惑に対して「思い違いをしてはいけません」し(16節)、神がどのようなお方かを見通し、見極めることが大切です。

1.神のさばきを見通すように  13~16節
 信仰者として歩んでいこうとすると、誘惑に遭うという経験をします。神が罪の誘惑をされるのではありません。ただし神は、信仰者が誘惑に遭うことを許してはおられます。ですから、誘惑を甘く見るといった思い違いをしてはなりません。
 というのも、誘惑へと誘う「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生」むからです。その死とは、神を離れた状態の霊的な死です。罪の結果である死をしっかり見通すとともに、神は義なるお方ですから、罪を正しくさばかれることを忘れてはなりません。罪と死に対して、人間の側からの解決はないからです。

2.神の賜物と御心を見極めるように  17~18節
 さばきの神を知ることで終わるならば、絶望に陥ります。しかし、そのような思い違いをしてはいけません。神の賜物は、それを贈る動機において不純でなく、良いものであり完全です。この創造者である神は真実であられ不変のお方です(17節)。その神の賜物中の賜物は、主イエスです。

 神は「御心のままに」、主イエスとその福音によって私たちを新たに生まれさせ、神の子としてくださり、神のものとしてくださいました。そのことが、神が造られた被造物の「初穂となさる」ためであったとは驚くべきことです(18節)。
私たちは、この神の賜物と御心をしっかりと見極めた信仰の歩みをするのです。

主の十字架と共に歩む(2017.10.29)

宣教題 「主の十字架と共に歩む」      宣教 今田好一牧師
聖 書 マルコ1章40~45節

 イエス様の愛の御業によって、重い皮膚病を患っている人がいやされたという記事から、わたしたちがどうあるべきかを見ていきたいと思います。

1.イエス様の御心ならば
 当時、重い皮膚病を患った人が置かれていた状況は悲惨で、自ら「汚れている者」と叫び、町の外でしか住めませんでした。その人イエス様の所に来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ます。それは彼が、この方なら自分の病をいやしてくださると確信したからです。ただ彼は、自分のような者をイエス様が憐れんでくださるかどうかが不安でした。

2.だれにも、何も話さないように
 そんな心配をよそに、イエス様は彼をいやされました。そして「だれにも、何も話さないように」と命じられました。しかし彼は、町に入り多くの人々に告げ、広めます。人々は、イエス様の告げられた悔い改めの福音ではなく、いやしの力を求めたのです。その結果、イエス様は町に入ることができなくなりました。

3.イエス様の犠牲によって
 彼は、自分の身に起きたいやしと清めの出来事を言い広めましたが、それはイエス様の十字架による犠牲抜きの証しだったのです。しかしわたしたちは、十字架抜きの救いも、十字架抜きのいやしも知りません。私たちが救われるのも、いやされるのも、ただイエス様の十字架による犠牲のみです。
 私たちも、この思い皮膚病よりも恐ろしい罪から救われたことを感謝し、多くの人々に証しし、主の十字架と主に歩む者とならせて戴きましょう。

礼拝ご案内・行事予定(2017年11月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
5日(日) 第1聖日 聖徒の日記念礼拝「思い違いをしないように」
ヤコブ1:12~18
婚宴への招き
マタイ22:1~14
鎌野 健一
12日(日) 第2聖日 幼児成長祝福聖餐礼拝「子どもを祝福されるイエス様」
マタイ19:13~15
祈りと証し
19日(日) 第3聖日 収穫感謝日礼拝「解放される道」
ルカ13:10~17
タラントのたとえ
マタイ25:14~30
真田 重治
26日(日) 第4聖日 伝道礼拝「背負ってくださる主」
イザヤ書46章1~4節 / マタイ11章28節
日々の糧を与える神
詩篇145:8~16
増永  茂

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

 

11月行事予定

5日(第1聖日)聖徒の日記念礼拝 11月誕生者祝福 召天者合同記念会(9:15~) チラシ配布
12日(第2聖日)幼児成長祝福礼拝 聖餐式 役員会
19日(第3聖日)収穫感謝日礼拝 教会学校教師研修会(3)
26日(第4聖日)伝道礼拝 大掃除

12月行事予定

3日(第1聖日)待降節礼拝 聖餐式 12月誕生者祝福  チラシ配布  役員会
10日(第2聖日)待降節礼拝
17日(第3聖日)待降節礼拝  各CSクリスマス祝会 Happy Sheep
23日 JYクリスマス祝会
24日(第4聖日)クリスマス感謝・伝道礼拝 洗礼式 クリスマス祝会 クリスマスイブ礼拝
27日  年末感謝祈祷会
31日(第5聖日)年末感謝礼拝

知恵を求めて(2017.10.8)

宣教題 「知恵を求めて」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章5~11節

 いろいろな試練に会うとき、信仰が試されることで忍耐を生じさせ、霊的に成長した者として造り上げられていきます(2~4節)。そのような試練に際して必要なのが、神からの賜物としての知恵です。それを切に祈り求めることが必要です。

1.神はどのようにして与えてくださるのか  5節
 神からの知恵は、信仰によって「だれにでも」与えられるもので、誰一人例外がありません。しかも神の賜物として「惜しみなく」、「とがめだてしないで」すなわち過去を挙げ連ねて、見下すようなことをなさらずにお与えになります。
 それに対して、信仰者は、神からの「知恵の欠けている」という自覚を持つことが必要です。パウロは、試練のただ中にあって死の宣告を受けた思いでいたことに対して、「人間の知恵によって」対処することなく「神の恵みの下に行動」してきたと証ししています(2コリント1章8~12節)。
私たちも信仰の試練に遭ったときに、神の賜物である知恵を願い求めるのです。

2.神にどのような信仰姿勢で願うのか  6~11節
 信仰者は、へりくだって「いささかも疑わず、信仰をもって」願い求めることが大切です。そこには、神への信頼と不信が同居していることはありません(6~8節)。
神に対する深い信頼があるならば、神からの知恵が与えられるのです。
 キリストは、全ての人のために十字架に死んで救いの道を開いてくださったゆえに、いかなる人も価値ある者として受け入れてくださったのです。従って、貧しい者はキリストにあって高くされ、富んでいる者はキリストによって低くされることを勝ち誇るほどの喜びとされるのです(9~10節)。
 ですから私たちは、謙虚にへりくだった信仰をもって、神に信頼して神からの知恵を受け取るのみです。

真の平和の確立を(2017.10.1)

宣教題 「真の平和の確立を」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ12章49~59節

 これまで主イエスは、目を覚ましていなさいと語ってこられました。続けて、真の平和が確立されていくために、漫然として今の時を過ごすことがないように勧められています。

1.主の十字架のもとで  49~53節
 主イエスがご来臨された目的の一つが、「地上に火を投ずるため」でした。その火は、聖霊の火です(49節)。聖霊なる神は、主イエスの苦難のバプテスマである十字架による救いを明らかにされ、主イエスを信じさせてくださるお方です(50節)。
 この主イエスの前に頭を垂れて謙虚になるときに、真の平和が私たちの魂と心と体の全存在に臨むのです(マタイ9章2節、ヨハネ14章27節、20章19~21節)。
 ところが、主イエスが来られたのは「分裂」をもたらすためでもありました(51 ~53節)。しかしその分裂は、イエスを主と受け入れるか、拒絶するかによってもたらされるものです。私たちは、分裂に対しても心の備えをし、そうした状況にあっても真の平和が確立されていくことを祈り求めていくのです。

2.主が再び来られるまでに  54~59節
 主イエスは、二つの譬えをもって語られました。一つは、今の時を見分けることができないために、主イエスを信じる信仰の応答をしない人々に呼びかけています(54~56節)。二つは、その時が分かっていながら、ずるずると判断も決断もしないで最後まで主イエスを拒むことへの警告です(57~59節)。
 私たちは、聖餐の制定をされた主イエスを想起しつつ(1コリント11章23~26節)、確かな永遠の弁護者イエスとその贖いの十字架をいつも拠り所とし、主が再び来られる終わりの時を覚えて、聖霊の促しによる決断と導きをいただいて歩み続けるのです。そこに、真の平和がもたらす交わりが生まれるのです。