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Kobe Central Church

真の平和の確立を(2017.10.1)

宣教題 「真の平和の確立を」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ12章49~59節

 これまで主イエスは、目を覚ましていなさいと語ってこられました。続けて、真の平和が確立されていくために、漫然として今の時を過ごすことがないように勧められています。

1.主の十字架のもとで  49~53節
 主イエスがご来臨された目的の一つが、「地上に火を投ずるため」でした。その火は、聖霊の火です(49節)。聖霊なる神は、主イエスの苦難のバプテスマである十字架による救いを明らかにされ、主イエスを信じさせてくださるお方です(50節)。
 この主イエスの前に頭を垂れて謙虚になるときに、真の平和が私たちの魂と心と体の全存在に臨むのです(マタイ9章2節、ヨハネ14章27節、20章19~21節)。
 ところが、主イエスが来られたのは「分裂」をもたらすためでもありました(51 ~53節)。しかしその分裂は、イエスを主と受け入れるか、拒絶するかによってもたらされるものです。私たちは、分裂に対しても心の備えをし、そうした状況にあっても真の平和が確立されていくことを祈り求めていくのです。

2.主が再び来られるまでに  54~59節
 主イエスは、二つの譬えをもって語られました。一つは、今の時を見分けることができないために、主イエスを信じる信仰の応答をしない人々に呼びかけています(54~56節)。二つは、その時が分かっていながら、ずるずると判断も決断もしないで最後まで主イエスを拒むことへの警告です(57~59節)。
 私たちは、聖餐の制定をされた主イエスを想起しつつ(1コリント11章23~26節)、確かな永遠の弁護者イエスとその贖いの十字架をいつも拠り所とし、主が再び来られる終わりの時を覚えて、聖霊の促しによる決断と導きをいただいて歩み続けるのです。そこに、真の平和がもたらす交わりが生まれるのです。

主イエスの癒しと救い(2017.9.24)

宣教題 「主イエスの癒しと救い」        宣教  今田好一牧師
聖 書 マルコ1章29~34節

わたしたちは、神の守りの中で歩んでいます。しかし、わたしたちは弱く小さな者です。ですから、イエス様に助けを求めなければならないのです。

1.主イエスのいやしと救い
イエス様はシモンの家に行きしゅうとめの病気をいやされます。このことは、今日教会に集ったわたしたちとわたしたちの家族にもイエス様の救いがなされるということを意味しています。『家族伝道は難しい』と言われていますが、それは、神の愛を言葉で伝えようとするからです。愛は、その人を愛することによってしか伝わらないのです。愛は、一緒に生活する中で伝えていくものです。今日わたしたちがイエス様の愛をしっかりと受け止めて、わたしたちも家族を愛し、家族に仕え、心を交わすことのできる者とならせていただきましょう。

2.主イエスの愛に応えて
安息日にはいやすことが禁じられていたため人々は日が沈み、安息日が終ってからイエス様の所に来ました。イエス様のいやしは今もわたしたちのうちに続けられています。イエス様はわたしたちに聖霊を与えてくださり、わたしたちの中にある神の御心に適わないあらゆる熱を冷まし、何が神の御心に適うことなのか、何のためにわたしたちが生かされているのかということをきちんと受け止めることができる者にしてくださるのです。
わたしたち一人ひとりが、主に愛され、罪赦された者として、その愛に応える者とならせていただき、ただ主を崇め、主に仕え、主に頼り、いやし主なるお方、救い主イエス・キリストと共に歩ませていただきましょう。

礼拝ご案内・行事予定(2017年10月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
1日(日) 第1聖日 世界聖餐日礼拝「真の平和の確立を」
ルカ12:49~59
ギデオンの召命
士師6:7~16
鎌野 健一
8日(日) 第2聖日 神学校デー礼拝「知恵を求めて」
ヤコブ1:5~11
祈りと証し
15日(日) 第3聖日 礼拝「主イエスの祈りと宣教」
マルコ1:35~39
岩を土台とする生涯
マタイ7:24~27
真田 重治
22日(日) 第4聖日 伝道礼拝「命にいたる悔い改め」
ルカ13:1~9
四つの種
マタイ13:1~9、18~23
増永  茂
29日(日) 第5聖日 宗教改革記念日礼拝「主の十字架と共に歩む」
マルコ1:40~45
七たびを七十倍するまで
マタイ18:21~35
大塚 章信

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

 

10月行事予定

1日(第1聖日)世界聖餐日礼拝 聖餐式 10月誕生者祝福 エノク会例会
8日(第2聖日)神学校デー礼拝 避難訓練 救霊の動力の学び(3)9:15-  救霊の動力の学び(1)13:00- 役員会
15日(第3聖日)礼拝
22日(第4聖日)伝道礼拝 入会式   救霊の動力の学び(4) 9:15 Happy Sheep
29日(第5聖日)宗教改革記念日礼拝 第2回信徒会(仮)例会

11月行事予定

5日(第1聖日)聖徒の日記念礼拝 11月誕生者祝福 召天者合同記念会(9:15~) チラシ配布
12日(第2聖日)幼児成長祝福礼拝 聖餐式 役員会
19日(第3聖日)収穫感謝日礼拝 教会学校教師研修会(3)
26日(第4聖日)伝道礼拝 大掃除

 

試練の効用(2017.9.17)

宣教題 「試練の効用」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章1~4節
 
 キリストの復活の証人であり(1コリント15章7節)、ペンテコステ後のエルサレム教会の指導者の一人として奉仕した(使徒言行録15章13節)ヤコブは、迫害下にあった各地の教会の人々に手紙を送りました(1節)。この手紙には、キリスト信仰に生きる人々に心の在り方また生活や行いについて具体的に語られています。
Ⅰ.試練は一様ではない  2節
 迫害を受けるという困難にあった人々に、まず「試練」について筆を執っています。信仰を持てば、試練がなくなるというのではありません。聖書が教える信仰は、その信仰の結果として、「いろいろな試練に出会う」という経験をするのです。
 試練には、健康面で弱さを覚えたり、経済的に困難を覚えたり、人間関係で難儀することもあり、信仰の迫害にも会います。若いときの試みがあり、老年特有の戦いもあります。だれの目にも明らかな困難があるかと思えば、人知れず悩むこともあります。困難が重なることもあったりと、一様でない試練です。
Ⅱ.試練を喜びとする  2~4節
 人の生まれながらの性質からすれば、試練を喜ぶことはできません。ところが、その試練を「この上ない喜びと思いなさい」というのです。
 試練を通されることによって、信仰が本物に近づけられます。そのように「信仰が試される」者となる喜びです。その試練を通して「忍耐が生じ」、その忍耐という品性が与えられるゆえに、試練が喜びとなります。そして、あらゆることにおいて、神の御心を正しく捉え、それに全力を注いで歩む「完全で申し分」のない者とされていくという喜びが生まれます。
 試練、信仰の試し、忍耐、完全な者にされるのは、深められていく恵みです。

主との憩いの中で(2017.9.10)

宣教題 「主との憩いの中で」      宣教 今田好一牧師
聖 書 ゼカリヤ8章1~8節

わたしちがいくら歳を重ねても、その人の存在価値が変わることはありません。なぜならイエス・キリストの贖いによって私たちは神の子どもとされているからです。

1.神の恵みに満ちた平安
神は、ペルシアの王キュロスやダレイオスを用いてユダヤの人々に神殿を再建させます。神殿再建には若い人材が適しています。しかし、ゼカリヤは、「エルサレムの広場には再び老爺、老婆が座するようになる」と語ります。つまり、そこは人々の憩いの場であり、神の恵みに満ちた平安で覆われている場所だったのです。

2.憩いの場所としての教会
わたしたちの祈りの中に、子どもたちへの信仰継承があります。そして、家族や友人との憩いの場の提供の実現として、子どもからお年寄りの方々が集う教会という祈りも込められていると思います。まさにゼカリヤが語っていることです。子どもやお年寄りが神様からすっぽりと守られて生きている姿を通して、周囲の人々は自分のことのように心休まり、平安な気持ちになる。それが憩いの場所としての教会なのです。

3. キリスト者は生涯現役
歳を重ねるということは御国への引っ越しを始めることです。それが老いるということです。しかし、仕事を引退するということはあっても、人生を引退するということはありません。まして神の子どもであるわたしたちにとって、キリスト者を引退するということはないのです。だから、すべてのキリスト者は生涯現役だということなのです。
教会は、そこに集うすべての人々のエルサレムです。この神の恵みの中に生かされていることを覚え、主との憩いの中を歩ませて戴きましょう。

 

目を覚ましていなさい(2017.9.3)

宣教題 「目を覚ましていなさい」   宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ12章35~48節

教会の完成は、「人の子は思いがけない時に来る」(40節、46節)というその時です。ですから教会は、その時を意識しつつ、再臨される主キリストを待望しつつ、「目を覚まして」備えている歩みをするのです。

1.喜びに輝いて  35~40節
「神の国」の恵みに与り続けながら歩む信仰者は、やがて再臨される主によって完成されるのです。その再臨される主は、突然やって来られるので、それがいつであっても良いように備えている必要があります(36節、38~39節)。
まず、「腰の帯を締め」とあるように、主が喜んでくださるような日々の生活を送ることです。「ともし火をともしていなさい」とあるように、不必要なものを取り除いていただいて聖霊の火によって輝いていることです(35節、ローマ12章11節)。そのように「目を覚ましているのを見られる」者たちに対して、再臨の主が「給仕して」くださるように最高の祝福を与えてくださるのです(37節)。

2.忠実な心配りをもって  41~48節
真実な主は、信仰者が「忠実な賢い管理人」として歩むことによって、信仰が枯れてしまわないようにと願っておられます。それは、主の前に態度を変えないで、主を第一にして生きる忠実さと、思慮深くて細やかなことに気づく心をもった賢さをもつということです(42~43節)。もし、主の御心と御思いを知っていながら、自分が主となって自分の思うとおりに生きていこうとする「不忠実」さがあるなら、悔い改めたいものです(45~47節)。
主は忠実な者を信任され、多くのものを任されます(44節、48節)。ですから、再臨の主の前に立つ時まで、主に忠実であり続けることです(黙示録2章10節de)。

あなたは大切な人です(2017.8.27)

宣教題 「あなたは大切な人です」   宣教 尹 善鎬 師
聖 書 マタイ3章13~17節

神はイエスに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3章17節)と言われた。これはイエスに対する神からの最高の愛の言葉です。それは神にとってイエスが最も大切な独り子であり、かけがえのない存在だからです。

1.神は私たちに神の子となる資格をお与えになった(ヨハネ1章12節)
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1章12節)。イエスを信じる者は、神にとってイエスと同じく、大切な者、かけがえのない者とされます。なぜなら「ローマ8章15~17節」によると、私たちは「キリストと共同の相続人」だからです。私たちは、神にとって、キリストほど大切な人です。

2.神は独り子をお与えになったほどに、私たちを愛された(ヨハネ3章16節)
父なる神は、独り子をお与えになったほどに、世を愛されました。その愛はどんな愛でしょうか。死に渡されるほどの愛です。与えるほどの愛です。貸すのではありません。お与えになったのです。そのイエスは、独り子です。最も大切な方をおあたえになったというならば、私たちにはそれほどの値打ちがあるからです。100円を支払って買った物には100円の値打ちがあります。神の独り子の命という値打ちが支払われて贖われた私たちには、神の独り子ほどの値打ちのある者なのではないでしょうか。
私たちにはこれほどの値打ちがあるのです。しかもその値打ちは、私たちが何か素晴らしい事をしたから、つけられた値打ちではありません。父なる神は、私たちの存在そのものを愛しておられます。あなたは神にとって最も大切な人であることに気づいておられるのでしょうか。

礼拝ご案内・行事予定(2017年9月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
3日(日) 第1聖日 創立71周年記念感謝礼拝「目を覚ましていなさい」
ルカ12:35~48
5つのパンと2匹の魚
マタイ 14:13~21
鎌野 健一
10日(日) 第2聖日 長寿祝福礼拝「主との憩いの中で」
ゼカリヤ書8:1~8
祈りと証し
17日(日) 第3聖日 礼拝「試練の効用」
ヤコブ1:1~4
モーセの誕生
出エジプト2:1~10
増永 茂
24日(日) 第4聖日 伝道礼拝「主イエスの癒しと救い」
マルコ1:29~34
ヨシュアとエリコの町
ヨシュア6:1~20
大塚 章信

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

 

9月行事予定

3日 (第1聖日)創立71周年記念感謝礼拝 聖餐式 洗礼式 9月誕生者祝福 救霊の動力の学び(9:15~) チラシ配布
10日 (第2聖日)長寿祝福礼拝 敬老感謝会 チラシ配布 役員会
17日 (第3聖日)礼拝 救霊の動力の学び(9:15~)
24日 (第4聖日)伝道礼拝 アンサンブル・シオン創立50周年記念定期演奏会

10月行事予定

1日(第1聖日)世界聖餐日礼拝 聖餐式 10月誕生者祝福 エノク会例会
8日(第2聖日)神学校デー礼拝 避難訓練 役員会
15日(第3聖日)礼拝
22日(第4聖日)伝道礼拝  Happy Sheep
29日(第5聖日)宗教改革記念日礼拝

 

小さな群れよ、恐れるな(2017.8.20)

宣教題  「小さな群れよ、恐れるな」   宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ12章32~34節
 
 「恐れるな」(ルカ12章4節、7節、32節)と繰り返し語られています。恐れるとは、逃げること、また大きくそれるという意味合いがあり、人間の弱さが最も正直に現れる場面です。では私たちは、なぜ恐れなくてよいのでしょうか。

1.神の恵みに生きる  32節
 「小さな群れ」には、福音のために選ばれて召された主の弟子たちが加わっていました。その神の恵みのご支配は、主イエスご自身だけにとどまることなく、主の弟子たちの間にも、続く教会にも継承され拡大していくために、父なる神が喜んで与えてくださったのです。そして、今日まで世界のあちらこちらに展開されているのです。
 私たちは、「小さな群れ」であると謙虚に自覚することから始める必要があります。そう自覚することは、決して恥ずかしいことでも、不安なことでもなく、主イエスの赦しによって立つ勇気を与えてくれます。小さな群れは、私たちの父なる神の恵みによって、大きな力となっていくからです。

2.恵みの神を覚えながら生きる  33~34節
 主イエスは、持ち物や富についての正しく賢い使い方として、「尽きることのない富を天に積みなさい」と勧められています。そうすることによって、富が神の賜物であり、それを備え与えてくださった「あなたの神、主を思い起こし」(申命記8章17~18節)、その主への感謝として「施し」をするからです。
人の心が一番関心を寄せているものが、その人の宝となっているものです。私たちは、主イエスと共に、「あなたがたの父」である神の御業に参加させていただくための元手を授けてくださった恵みの神を思い起こし、また覚えながら生きることが大切なのです。

権威ある新しい教え(2017.8.13)

宣教題  「権威ある新しい教え」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章21~28節
 
安息日の会堂に来られたイエス様が、そこで語られた権威ある新しい教えについて見ていきましょう。

1.権威ある者として
 当時は、礼拝の順序や役割が決まっておらず、多くは、律法学者が教えていました。そんな中、人々はイエス様の教えに非常に驚きます。何故なら、律法学者の権威は、人間的権威者の教えを引用して作られた権威であり、イエス様の権威は、人格に本来備わっていたものだったからです。つまり、言葉が人となられたのがイエス様です。権威ある者として語られたその証拠は、神の子、救い主であるという事実に基づいていたからなのです。

2.汚れた霊を追い出す
 イエス様は、言葉によってだけではなく、御業によってもご自身の権威を明らかに示されました。汚れた霊は、イエス様がだれであるかを、そして何をしに来られたのかを知っていました。ですから、彼らは「かまわないでくれ。」と叫んだのです。しかし、イエス様は汚れた霊の本来の目的をご存知であられたので、「黙れ。この人から出ていけ」と、言葉によって汚れた霊を叱られ、御業によって追い出されたのです。ここに御言葉と御業によるイエス様の神としての権威が表されているのです。
私たちがこのところから学ぶべきことは、この世の権威を恐れる必要はないということと、汚れた霊の業を見分けて、それを退けるということです。そのためには、イエス様の御言葉と御業の権威に対する、不動の信仰が、教会にとっても、私たち一人一人にとっても必要なのです。

シャローム(2018.8.6)

宣教題  「シャローム」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  エフェソ2章11~22節
 
 イエス・キリストとの出会いには、別離はありません。キリストが私たち一人ひとりにもたらしてくださるのが「平安」で、人と人との間にもたらしてくださるのが「平和」であって「シャローム」と呼ばれています。「実に、キリストはわたしたちの平和」なのです(14節a)。あなたは、このシャロームの世界に生きていますか。

1.以前は遠く離れていたが  11~13節
 ここに、人がキリストに出会う前の姿が描かれています。神の救いから「遠く離れて」、内に腐敗したものを持ち合わせ、キリストを知らず、天に国籍を持たず、救いの約束にも縁遠く、永遠の希望がなく、神を知らない者でした。まさに、キリスト抜きの人生(マタイ14章22~33節参照)、罪の赦しを得ていない歩み(マタイ9章1~8節)、死に勝利していない人生でした(ヨハネ20章19~23節)。
 キリストの最大の遺産である「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14章27節)と招かれるキリストの救いから、どれほど遠く離れていることでしょうか。

2.今やキリストによって  13~22節
 ユダヤ人と異邦人には、「敵意という隔ての壁」(14節)がありました。この敵意は、人の心の中にある罪の性質です。しかし、今や「キリストにおいて、キリストの血によって」(13節)、「こうしてキリストは」(15節)「十字架によって」(16節)、「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊」されました(14節b)。
 このように、十字架上においてキリストの血が流されることによって神の義が貫かれ、その結果、キリストの平和(平安)がもたらされたのです。キリストは、神と私たち一人ひとりを神に近づけてキリストの平安で満たし、人と人との間をキリストの平和で織りなしてくださるのです(17~22節)。

礼拝ご案内・行事予定(2017年8月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
6日(日) 第1聖日 平和聖日・伝道礼拝「シャローム」
エフェソ2:11~22
イサクの井戸掘り
創世記26:12~22
鎌野 健一
13日(日) 第2聖日 聖餐礼拝「権威ある新しい教え」
マルコ1:21~28
祈りと証し
20日(日) 第3聖日 礼拝「小さな群れよ、恐れるな」
ルカ12:32~34
すべてを良きに変える神
創世記50:15~21
大塚 章信
27日(日) 第4聖日 振起日礼拝「心あなたは大切な人です」
マタイ3:13~17
罪の赦しの恵み
マタイ9:1~8
真田 重治

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

 

8月行事予定

6日(第1聖日)平和聖日・伝道礼拝 8月誕生者祝福
13日(第2聖日)礼拝 聖餐式  役員会
20日(第3聖日)礼拝 ギデオンラリー
27日(第4聖日)礼拝 振起日合同礼拝

9月行事予定

3日 (第1聖日)創立71周年記念感謝礼拝 聖餐式 洗礼式 9月誕生者祝福
10日 (第2聖日)長寿祝福礼拝 敬老感謝会 チラシ配布 役員会
17日 (第3聖日)礼拝
24日 (第4聖日)伝道礼拝 アンサンブル・シオン創立50周年記念定期演奏会

わたしについて来なさい(2017.7.30)

宣教題  「わたしについて来なさい」    宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章16~20節
 
 イエス様が、湖畔で網を打っていたシモンとアンデレを御覧になられたが、これは、ふと見かけた、というのではなく、じっと見つめておられたという意味です。

1.イエス様の招きによって
  神は、シモンやアンデレと同様に、神のご計画に基づいて私たちにも御言葉を与え、招いてくださいました。この神の招きによって私たちはキリスト者とされ、イエス・キリストを信じる者として主と共に歩んでいます。 そして、イエス様の「わたしについて来なさい。」という召しによって、最初の弟子が誕生したのです。

2.イエス様の召しに対する3つの疑問
 ここに三つの問いが生じます。なぜイエス様はこの四人に声をかけられたのか?なぜ弟子を求められたのか?なぜ彼ら四人は全てを捨てて、即座にイエス様に従うことができたのか? それは、彼らに弟子としての資質があったからではなく、神が愛し、選ばれ、すべての人がイエス様の弟子になるためです。そして、彼らが神の召しをしっかりと受け止めることができたからです。

3.召しによる信仰から献身へ
 神の招きを受け、信仰が与えられ、キリスト者となります。この招きが信仰の原点です。そして召しは献身者を生みます。この献身する者の群れが神の民です。
献身とは、神の召しによって生まれる者であり、他者と比べることはできません。ただ、私たちに求められているのは、神の召しに忠実であるということです。

シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネは、主の召しに対して即座に従いました。これは、すべての人が主の召しに対して応答する時の模範です。私たちもイエス様の救いの御業に仕え、神の栄光のために仕える者として、神の召しに即座に応える献身者とならせていただきましょう。

心配無用(2017.7.23)

宣教題  「心配無用」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ12章22~31節

人間には、愛をもって配慮するといった必要な心配がありますが、心が乱れて「思い悩む」(22、25、26、29節)とある不必要な心配もあります。人間の必要のすべてをご存じの父なる神は、そのことに心を配って、備えていてくださいます。

1.必要のすべてに心を配られる神  22~30節
人は、命のために何を食べようか、体のために何を着ようかと、自分たちの生命や生活について心を配ることは大切です。誰よりも父なる神ご自身が、これらが必要であることを認め、心を配っておられます(30節)。すべての必要の供給者であられる神は、自然界の動植物を造られ保たれ育て養っていてくださるのですから、当然、神ご自身にかたどって造られた人間をお忘れになることなく、同じようにしていてくださいます(22~28節)。
私たちは、この父なる神を信頼して、このお方に集中した人生を歩んでいくことが大切なのです。

2.最も必要とする救いを与えてくださる神  28~30節
だがむしろ父なる神は、すべての人にとって最も必要である「神の国を求め」、そこに入れていただき、神の恵みのご支配の中に生きることが必要であることを訴えておられます(31節)。このことを見失って、さまざまなことに思い悩んでいる者たちの信仰はどこにあるのかと、問いかけておられます(28節)。
ところで、神の国の大敵は、罪の力、悪の力、さまざまな人間の存在をおびやかす力、そして死の力です。一人ひとりを心配される父なる神は、そのような力から救い出すために、救いの道を備えられたのでした。神の国の中心には、イエス・キリストが罪と悪と汚れと死を受け取って十字架で身代わりの死を遂げてくださり、それらに勝利して復活された救いがあります。今や、思い悩むことなく、心配することなく、神の国に入れていただき、神の国に対する信仰の領域を広げていただく時です。

福音を信じ、福音を守る(2017.7.15)

宣教題  「福音を信じ、福音を守る」     宣教 小岩裕一師
聖 書  ガラテヤ3章1~5節

1.「だれがあなたがたを惑わしたのか」
「物分かりの悪い」(1節、3節)と、パウロは半ば呆れ驚いています。それは、偽教師たちに惑わされたのです。律法を守ることが救いの条件としているユダヤ律法主義者たちです。なんとペトロさえも、福音に立たずにその偽善に引きずりこまれてしまいました。それをパウロは厳しく叱責しました(2章11~14節)。ガラテヤの信者だけではなく、現代のキリスト信者も、いつのまにか、惑わされる危険があるのです。
律法主義の問題は、①神ではなく、人ばかり見えてしまうことです。(1章6~10節)。②キリストが教えキリストの救いを示す聖霊の証ではなく、異なる霊現象に惑わされることです。(4章8~11節)。③ただ、キリストの十字架を信じることが物足りなく感じ、自分の善行を付け加えることです(3章2節)。使徒たちが伝え、新約聖書に記され、わたしたちに伝えられた古い福音に堅く立つべきです。

2.「一つだけ確かめたい」
「一つだけ」に答えてほしいとのパウロの詰問です。「“霊”を受けたのは」(キリストの救いに与ったこと)は、「律法を行ったからですか」、「福音を聞いて信じたからですか」と、二者択一を迫っています。
ガラテヤの教会も、キリスト教の歴史においても、現代のキリスト教会も、いろいろな信仰的な問題を抱えています。原因追求や解決案の提示も必要でしょう。しかし、パウロは、ただ、この一つだけ、問うています。この一つだけには、妥協、曖昧さはないのです。
「福音を聞いて信じる」とは、「十字架につけられたキリスト」を、ただ信じて、義とされたことです。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(6章14節)。「福音を信じ、福音を守る」ことに、パウロは命をかけていました。