月別アーカイブ: 2016年2月

主を賛美するのはだれか(2016.2.28)

宣教題  「主を賛美するのはだれか」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ2章1~11節 ローマ15章9節a

1.ヨナの祈りと賛美
ヤッファへ、船へ、船底へ下って入ったヨナは、ついに海へと下っていった。そのまま海の藻くずとなるのかと思った時、主は魚を備えてヨナを救われた(1節)。ヨナはこれこそ自分の叫びへの主の答えであると思った(3節)。なぜなら、海の中、地の底まで下ったために、神に追放されたと思ったヨナは(4~7節a)、主を覚えて祈ったところ、主はその祈りに対して、聖なる神殿で聞き、答えられたからだ(7b~8節)。それゆえ、ヨナは感謝の声をあげ、いけにえをささげ、誓いを果たすと語る(9~10節)。主に頼る素晴らしい祈り、救いの主にふさわしい賛美である。

2. ヨナにふさわしくない賛美
けれども、ヨナの祈りと賛美は実に歯が浮くようなものだ。彼は追放されたのではなく、逃げた者である。聖なる神殿を見たい、と語りつつ、主から逃げようとした。主が聞かれたのは船乗りたちの祈りであり、いけにえをささげ、誓ったのも彼らだった。主への忠誠を捨てたのはヨナであり、主をおそれて賛美をささげたのは、偽りの神々に従っていた者たちだった。ヨナの賛美はどこかちぐはぐな印象を与える。ここまでのヨナの姿がこの賛美と調和していないからである。

3.主のあわれみ
ヨナは、異邦人の船乗りたちが歌うべき賛美を歌っていた。そして、愚かにも、自分の本当の姿のみならず、主をおそれるようになった異邦人たちの姿にも気づかなかった。しかし、船乗りたちのように、主のあわれみに気がついた異邦人たちは主を賛美するようになる(ローマ15章9節a)。主はそのことを願い、ヨナの気づかない所であらゆる民にあわれみを施し続けられた。
異邦人の祈りにさえ答えられる主は、いつくしみ(忠誠)に富んだ方であり、ご自身のあわれみに気がついたものを救出される方である。さらに、ヨナのように心かたくなで、悟らない者にさえ、そのあわれみのゆえにチャンスを与えられる(11節)。心が頑固な者にさえ忍耐強く関わり続けられる神こそが、私たちの唯一の希望である。

礼拝ご案内・行事予定(2016年3月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
6(日) 第1聖日 総会礼拝「受け入れる力」
ルカ9:46~56
身代わりの十字架 ルカ23:13~25
鎌野 健一
13(日) 第2聖日 礼拝「祈りへの集中」
1ペトロ4:7~11
祈りと証し
20日(日) 第3聖日 パームサンデー礼拝 「十字架が生み出す祝福」
ガラテヤ3:6~14
十字架による救い  ルカ23:39~43
増永  茂
27日(日) 第4聖日 イースター感謝礼拝 「大いなる逆転」
1コリント15:50~58
よみがえられたキリスト
ルカ24:1~12
大塚 章信

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

3月行事予定

6日(第1聖日)礼拝 聖餐式 3月誕生者祝福  新任教師研修会1  神学校新校舎建築の説明会  ファミリーコイノニア
13日(第2聖日)礼拝  役員会  新任教師研修会2    16,18日 Happy Sheepチラシ配り
20日(第3聖日)パームサンデー礼拝  Happy Sheep  新任教師研修会3
25-27日 JC&YCスプリングキャンプ
27日(第4聖日)イースター感謝礼拝 洗礼式  CSイースター合同礼拝  召天者合同記念会   新任教師研修会4

4月行事予定

3日(第1聖日)礼拝 聖餐式 4月誕生者祝福  奉仕者任命式  婦人会例会
10日(第2聖日)礼拝  役員会  エノク会例会
17日(第3聖日)礼拝  春の聖会
24日(第4聖日)伝道礼拝  教師研修会1

 

傷ついた葦を折ることなく(2016.2.21)

宣教題  「傷ついた葦を折ることなく」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  マタイ12章17~21節 1ヨハネ4章9節

人は、本来真っすぐに神に向かって生きるように造られたのですが、いつの間にかそうでない複雑な考え方をするようになりました。しかし、私たちは、今日開かれた聖書の御言葉に対して、真っすぐに応答するようにしたいものです。ここには、二つの問いかけがあります。

1.何を見ていますか。 18節a
「見よ、わたしの選んだ僕」との一言には、大切なメッセージがあります。
私たちの周囲には様々な宗教があります。それらの多くが、信仰の名のもとに何かをすることを求めたすることや、何か思いがけない不幸なことなどが起こると供養が足りないなどとの考え方をします。しかし、聖書は、私たちが何かをするのではなく、私たちに「見よ」と見上げることを求めています。それが信仰です。
そして、ただ漫然と見上げるのではなくて、「わたしの選んだ僕」を見よと言われます。この僕こそ、人の子として誕生してくださり、十字架の身代わりの死を遂げてくださり、復活されたイエス・キリストです。すなわち、信仰している私にではなく、イエス・キリストが大事であり、このお方に焦点を置くように招いておられるのです。

2.何によって生かされていますか。  18節b~21節
イエス・キリストがお持ちの「正義」は、私たちの弱い心、はかなく見える魂を生かし用いてくださいます(18節c~20節)。それは、神の愛の現れであるイエス・キリストによって「わたしたちが生きるようになる」ことです(1ヨハネ4勝9節)。このようにして、人が自分で神から遠い者であると思い込んでいる者に希望を与えてくださるのです(21節)。
イエス・キリストは、神と断絶して死んでいた者を生かしてくださり、失敗した人生に対して見捨てることなく生かしてくださり、その人を有用な人として持ち味を生かしてくださり、永遠まで生かしてくださいます。私たち一人ひとりは、自分自身が「傷ついた葦」「くすぶる灯心」であることを自覚して、正義と愛に満ちて生かしてくださるイエス・キリストを信じ受け入れ、信頼することから始めさせていただきましょう。

心の武装を(2016.2.14)

宣教題  「心の武装を」             宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ペトロ4章1~6節

神の御心に喜んでお応えしていこうとする生き方を貫くためには(3章21節)、心の武装をして歩む必要があります。洗礼を受けてからの「残りの生涯」は、付け足しではなく、本番そのものです(2節)。その歩みは、どういうものなのでしょうか。

1.一筋の心を保ちながら  1~2節
「苦しみ」には孤独がつきものです。しかし、私たちには十字架の上に死に、復活されたキリストがおられます。このキリストに結ばれている者は、キリストの苦しみにあずかる特権をいただいているのです。それゆえに、「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と命じられているのです(1節)。同じ心構えとは、父なる神の御心に一切ゆだねきったキリストの柔和と忍耐と従順に倣うことです。
私たちは、神の御心に従うことにおいて、一筋の心を保つことができるのです。それは、私たちの心を裂き、思いを分断する「欲望」に従うことではありません(2節)。十字架の死に至るまで従順であられたキリストを小さく見くびることなく、神の御前に謙り続けるならば、神の御心に従って生きることができるのです。

2.一筋の道を走り抜く  3~6節
キリストに結ばれた者は、やがて生ける者と死ねる者とをさばかれる方を畏れる生き方をします(5節)。彼らがキリストの再臨を前に死を迎えて、それが罪の刑罰としての死のさばきを受けたように見えても、生きている間に福音を聴いて信じているゆえに、キリストにあって永遠に生きる者とされているのです(6節)。
今、キリストに結ばれた者は、「かつて」の自分に戻ることのないように造り変えられたのです(3節)。ですから、かつての乱行に加わるような生き方をするのでなく、新たな価値観をいただいてキリストと共に走り抜き、信仰の戦いをするようになったのです(4節、ヘブライ12章1~2節)。このような一筋の道を走り抜く生き方が、人の心を動かし、キリストを証しすることになるのです。

まっすぐに生きる(2016.2.7)

宣教題  「まっすぐに生きる」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  ルカ9章37~45節

主イエスが、山の上で変貌されるという高く引き上げられた世界から下りてこられると、途方にくれている群衆及び悪霊に取りつかれた子とその父親の苦しみと悲しみの中に生きる世界が待ち受けていました。主イエスは、そのような状態を「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われて、神の偉大な御業をなされました。主イエスは、どのような方なのでしょうか。

1.顧みられる主  37~40節
「よこしまな時代」とは、主イエスに対してまっすぐに生きていない曲がった時代です(41節)。罪や汚れそして弱さと言ったものを持っている人間は、神との関係が曲がって不信仰な状態にあるのです。そのような中から救われて、神との関係がまっすぐにされる必要があるのです(使徒言行録2章38~41節)。
主イエスは、「見てやってください」(38節)と懇願する父親に対して、「あなたの子供をここに連れて来なさい」(41節)と招かれました。このようになさる主イエスは、曲がった不信仰な状態にある者に目を留めてくださり(ルカ1章48節)、惜みなくそして限りなく顧みてくださる方です。

2.忍耐し担われる主  4Ⅰ~45節
さらに主イエスは、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました(41節)。これは、付き合ってはいられないと、投げ捨てておられるのではありません。忍耐して、支え、持ち運ばれるという意味で言われたのです。そのようにして、主イエスは子供を癒して回復させられたのです。それを見て驚く人々に、主イエスは再びご自身の受難の予告をされました(44節)。
主イエスは、十字架の身代わりの死によって曲がった時代を変え、そして人を担い、持ち運び救われる方です(イザヤ46章3~4節)。ですから、神の前に曲がった歩みをしている私たちは、まず主イエスの前に膝をかがめて砕かれ悔いるとき、まっすぐに生きる者とされるのです。そのように生きる者の群れが、教会です。