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2013年12月

祝福の時と場(2013.12.29)

宣教題  : 「祝福の時と場」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 1テモテ 1章12〜17節

パウロは、自らの信仰の歩みを振り返りつつ、主イエスの恵みに対して深い感謝をしています(12節a)。それは、主の憐れみによって、自分が造り変えられ、造り変えられ続けている祝福の時と場を感謝しているのです。祝福の時と場とは、私たちにとってどのようなことなのでしょうか。

1.憐れみに与った時と場
主イエスは、罪人を救うために、世にまで来てくださいました(15節a)。パウロは、キリスト教撲滅運動の中心人物で、キリスト教会を潰し回った罪人でした(13節a)。しかし、主はそんなパウロを「憐れみ」、ご自身の救いに与らせてくださいました。
神は、パウロが「信じていないときに知らずに行った」ということも、罪は罪として死によって罰せられます。しかし、そうした知らないで行ったことも、主イエスの十字架による贖いによって赦しを与えていてくださるのです(ルカ23章34節)。それこそが、確かな十字架経験です。何という主の憐れみでしょう。
私たちは、この主の憐れみに与った時と場を忘れないようにすることが大切です。

2.憐れみを深く知る時と場
パウロに対する主イエスの恵みは変わることなく、それに信仰と愛が加わって強い確信に至っています(14節)。しかも、彼は、忠実な主の仕え人として主の働きに加わるものとされました(12節b)。そうした中にあっても、彼は、「わたしは、罪人の中で最たる者」との深まりゆく罪意識がありました。彼は、そんな自分を主が「憐れみ」続けていてくださることを深く知る経験をしていったのです。そして、彼は、主の憐れみと忍耐のゆえに、永遠の命に与る者とされる見本であることを告白し続けています(16節)。
私たちは、その信仰の歩みや姿勢また奉仕において、徹底して主の憐れみの見本であることを知って、いつも感謝したいものです。私たちは、主の憐れみなくして生きられないゆえに、主を讃えるのです(17節)。

新しい歩み(2013.12.22)

宣教題  : 「新しい歩み」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テトス 3章4〜7節

クリスマスは、私たちが生みだしたのではなく、神の慈しみと人間に対する神の愛の現れとしての神の御業です(4節)。
そして、クリスマスは、聖霊による新しい命の奇跡的な誕生でした(マタイ1章18節、20節、ルカ1章35節)。聖霊による新しい奇跡的な御業は、私たちに新しい歩みを造り出してくださいます(5節)。

1.新しく生まれる
人は、過去の罪の支配から解き放たれ、現在の自分自身が新しくされ、将来において死を超えた新しい命に生きることを求めています。そのような私たちに、「聖霊によって新しく生まれる」救いの道が開かれています(5節、ヨハネ3章3節、5節)。それは、神の慈しみと憐れみと愛を源として、イエス・キリストの十字架と復活に現わされた神の救いの恵みを信じる信仰によって得られるものなのです。ここには、人を滅びの力、悪しき力、死の力のなすがままにさせない神の強い御意志が込められています。
クリスマスは、新しく生まれることを喜びをもって確認し、確信し、信仰による決断を強めていただく時なのです。

2.新たに造りかえられていく 
このように、新しく生まれた者は、聖霊によって「新たに造りかえ」られていくのです(5節)。それは、聖霊によって繰り返し新たに造りかえられていくことです。それは、私たちが主によって死を超えた永遠の命を受け継ぐまで続けられることです(6~7節)。
聖霊は、私たちにそのことを繰り返し呼び覚ましてくださいます。その時に、私たちは、神に祈りつつ、神からの語りかけを聴いて対話をし、神と格闘しつつ、神を信頼する中から、「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1章38節)と、神に自らを委ねることを繰り返すのです。
私たちは、繰り返し繰り返し新たに造りかえられていくことによって、日々クリスマスの御業に与っていくのです。

ちいさなちいさなクリスマス(2013.12.15)

宣教題  :「ちいさなちいさなクリスマス」    宣教:鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ルカ 2章10〜12節

「大山鳴動して鼠一匹」。日本のクリスマスはこのことわざに近いかも知れない。

1.クリスマスに起こった小さな出来事
クリスマスに関する出来事の中でも、主のみ使いの登場や博士たちの宝といったきらびやかなことばかりに目がとまる。けれども、クリスマスの中心は一人の男の子の誕生である。母親に授乳されなければ生きていけない一人の男の子の誕生である。大きな喜びだ、と言われた羊飼いたちが見出したのは、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」(2:12)にすぎない。どこにでも起こりそうな、小さな事しか起こらなかった。大きな喜び、といわれても現実感がない。だから、それに見向きをしようともしない。

2.小さな事が大きくなる
イエスは「からし種のたとえ」(13:18−19)を語っている。小さな種が、植えられ、育てられた時、鳥が枝に巣を作ることができるくらいの木に成長した、という話である。クリスマスの出来事はからし種のように小さいけれども、やがて、驚くほど大きな何かを生み出す。「民全体のためのすばらしい喜び」(2:10)を生み出す。クリスマスにこの種は植えられ、礼拝に集っているあなたのうちにもこの種は植えられている。

3.期待して待つ
もちろん、小さな種が大きな木になるまでには時間がかかる。イエスの生涯もそうである。クリスマスから30年ほど過ぎたときに、十字架と復活によってイエスの生涯はクライマックスを迎えた。そこで生み出されたのは、弟子たちの小さな群に過ぎなかった。しかし、そんな小さな変化がやがてうねりのような大きな変化となった。そして、神のご支配が世界中へと広がっていった。
イエスは私たちのうちにわざを始めて下さっている。それはあまりにも当たり前で、どこにでもあるようで、気づかないほどの小さな変化かもしれない。すぐに実現する、派手な出来事ばかりを追い求めているならば、そんなイエスのわざを見過ごしてしまう。しかし、小さな変化に気づき、私たちのうちでそれが大きくなるのを待つことが、クリスマスのほんとうの意義を知る者の生き方である。小さな種が大きな木になるのを期待して待つような信仰に生きる者たちに対して、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」のみことばは、真実となる。

時を生かし用いよ(2013.12.8)

宣教題  :「時を生かし用いよ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テモテへの手紙二 4章1~5節

私たちは、将来において、主イエスが「出現」される再臨を待ち望んでいます(1節)。この再臨待望信仰に生きる私たちに主が命じられていることは、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」です(2節)。私たちは、主の再臨に備えつつ、今の時を生かして用いることが大切なのです(エペソ5章16節)。

1.時を生かして  1~2節
「折」とは、ただ漠然と続いていく時というのではなくて、内容のある、人の人生において欠くことのできない危機的な時ということです。それは、神の救いがもたらされる恵みの時です。その時を買い占めるように自分のものとするかしないかによって、人の人生が決まってきます。
私たちは、再臨の主イエスを思いつつ、今の自分の在り方や生き方を捉え直して、進むべき道を確認し、また改める決断をしたいものです。それは、受胎告知を受けた主の母マリアが、神の御言葉どおりに神の御計画が自分の身に成るように、大胆に決断したことに通じるものです(ルカ1章38節)。彼女は、神の時を生かしたのです。

2.時を用いる  2~5節
主イエスの出現に思いを集中することから生まれてくるものは、「御言葉を宣べ伝えなさい」と命じられることに忠実であることです。御言葉とは、聖書に証言されている福音であり、その中味はイエス・キリストのことです。
御言葉を宣べ伝えるとは、御言葉によって養われて生かされている自分自身を(2テモテ3章16節)、そのまま他者に提供し差し出すときに、自分の内に生きている御言葉の力が他者にも伝わるということです。その時、御言葉は大きな実を結ぶのです。ただ、私たちは、「忍耐強く」寛容な心で、他者に向かうことが大切です。
あらゆる時を用いて、私たちが御言葉を宣べ伝えることを可能にしてくださるのは、神ご自身です(ルカ1章37節)。

大いなる救い(2013.12.1)

宣教題  : 「大いなる救い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テトスへの手紙 2章11~15節
教会では、待降節のことをアドベントと呼んでいます。アドベントには、神の独り子イエスの降誕の出来事を表す場合と、主イエスの再臨を表す場合とがあります。このことを、ここでは「現れ」と表現しています(11節、13節)。
私たちは、主イエスの初臨と再臨の間に生きる者として、日々に信仰の応答をしつつ生きることが求められています。

1.すべての人への神の恵み 11節
神の救いは、「すべての人に」等しく差し出されたのであり、それを受け取ることに一人の例外もありません。それは、人の世に存在する様々な相違をもたらすものとは違って、すべての人に届けられた神の恵みです。
世界で最初のクリスマスの喜びの知らせは、主の天使によって羊飼いたちにもたらされました(ルカ2章8~11節)。そこでは、「民全体に」「今日」「あなたがたのために」と告げられています。このメッセージは、今の私たち一人一人に対しても同様に告げられている神の恵みです。この神の恵みは、自分には必要ない、自分には関係ないと退けるならば、それは神の愛を拒絶することなのです。

2.完全な永遠の救い 12~14節
「救い」という言葉が、二度繰り返されています(11節、13節)。ここでいう救いとは、神と人との歪みや破れが回復される神の救いを語っています。すなわち、主イエスが十字架に死んで復活してくださったことによって、私たちを罪と汚れから「贖い出し」(14節)、聖別された神のものとしての歩みにしてくださるのです(12節)。そして、私たちが、主イエスが再臨される時にあずかる完全な永遠の救いを首を長くして待ち望みつつ、日々に「良い行いに熱心な民」(14節)にしていただくのです。
私たちの日常は、主イエスの再臨に備える日々であることが大切です。主イエスによって、永遠の滅びから永遠の救いに与っていることを感謝して、良い行いに熱心で、ささげる生き方をさせていただきましょう(マルコ14章6節)。