月別アーカイブ: 2013年11月

史上最大のビッグ・ニュース

「クリスマスは、歴史上最低の出来事でした」と言った人がいます。
というのは、すべての人の救い主の誕生という史上最大のビック・ニュースが、社会的地位が最低に属するとされていた羊飼いに最初に告げられたという驚くべき出来事だったからです。
しかも、産み落とされた場所が、臭気ぷんぷんたる家畜小屋の飼葉おけの中だったというのはもっと大きな驚きです。
実は、臭気に満ちた醜悪ともいえる人間の心に、救い主イエス・キリストは宿ってくださるのです。そして、その場に讃美が響き渡り、神の栄光がその場を照 らしたように、私たちの汚れた心をも輝くものに変えてくださるのです。そこに、クリスマスのメッセージがあるのです。

神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

確かな道しるべ(2013.11.24)

宣教題  : 「確かな道しるべ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ 14章1~6節

私たちは、喜びや楽しみ、また憂いや悲しみや不安を経験します。しかし、主イエスは、如何なる時であっても、私たちの人生の「確かな道しるべ」となってくださる神であり、自らが「道」となってくださいました。

1.見失っている確かな道 
主イエスが、「心を騒がせるな」と弟子たちに語られたのは、死に直面しておられた時のことでした。それを予感していた弟子たちは、「主よ、どこへ行かれるのですか」(13章36節、14章5節)と不安な気持ちを述べています。
このように、心が騒ぎ不安になるのは、主の弟子たちだけではなく、私たちも同様です。その一番の原因は、揺るがない、確かな道を見失っているからです。この確かな道は、最初から私たちが持っているものではなく、人の知恵や努力で知ることができるものでもありません。ただ、神から知らされ、主イエスご自身が「道」となってくださったことによって得ることができるのです(6節)。

2.備えられている確かな道
私たちが最も不安を抱くのは、死に対してではないでしょうか。それは、私たちを八方塞がりにさせます。その行き詰まりを打ち破って、永遠に「住む所」を備えてくださっているのが、主イエスです。主イエスは、その所を「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)と言われているように、主の弟子たちだけではなく、私たちのためにも、すでに備えられているのです。
そして、主イエスは、そこに導かれるための道を備え、ご自身がその道そのものとなられたのです(3節、6節)。それは、主イエスが十字架に踏みつけられて死んでくださり、その死から復活されたことによって開かれた永遠の救いの道です。私たちがしなければならないことは、このイエスを信じ受け入れ(1節)、主イエスとその愛にとどまり続けることです(15章5節、9節)。

選ばれた人生を選ぶ(2013.11.17)

宣教題  : 「選ばれた人生を選ぶ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師

聖    書  : ルカ 6章12~19節
私たちは、主イエスの12弟子と同じように(13節)、主の弟子として選ばれ、生かされているのです(ヨハネ15章16節)。そのような選びの中に招かれているのですから、私たち自らが、それに応答して選び取っていく歩みをすることが必要です。

1.主イエスの祈りのうちに選ばれたのである 12~16節
主イエスは、ご自身の弟子たちを選ぶに際して、夜を徹して祈られました(12節)。主は、徹夜の祈りをすることを決心して祈られたのではなく、ひたすら祈りに打ち込んでおられたら夜が明けていたのでした。それほどに深い祈りをされたのです。ところで、主が、他に夜を徹して祈られた場面として、ゲツセマネの祈りがあります(ルカ22章39~46節)。この祈りが決定的で大切な祈りであったように、ご自身の弟子を選ばれる時も、祈らずにはおれない決定的で大切な時だったのです。
主イエスは、選ばれた弟子たちを「使徒と名付けられ」、主の十字架と復活の証人としての使命を委ねられました。同様に私たちは、主の十字架と復活の証人として選ばれているという歩みをするのです。たとえそれが試練の場であっても、そこに踏みとどまるならば祝福があるのです。

2.主イエスと一緒に歩むことを選ぶのである 17~19節
主イエスが山に登って行かれたのは、山から下りて来られるためでした。山の下は、主の教えを聞くことや主の救いの御業に与ることを願う大勢の人がいました。主は、弟子たちと一緒に山から下りてこられて、「平らな所にお立ちになった」のです。このように、主の弟子として選ばれるということは、主と一緒にこの世に遣わされるという歩みをすることを選ぶことなのです。
私たちの信仰の歩みは、悩み、苦悩、試練、戦いを避けてとおれません。その信仰の営みから逃げないで、主イエスと一緒に遣わされていくことを選ぶならば、人を生かし、教会を生かすという祝福をもたらすのです。

確かな神のことばに立つ(2013.11.10)

宣教題  :「確かな神のことばに立つ」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 40章1~11節
神の言葉を聞く者が、それを語る者へと変えられる。そのきっかけはなんだろうか。

1.語られ、慰められ、招かれる(40:1−5)
バビロン捕囚という悲劇の中にいた人々に神が慰めを語っている(1)。苦しみからの救いという慰めが主の具体的行動によって彼らの上に実現する。捕囚はイスラエルの罪ゆえに受けた罰であったが、その期間の終わりが心優しく神から語りかけられている(2)。
「わたしたちの神」が栄光をもって現れることによって新しい事がはじまる(5)。それは王である神の自分の都へと入城である。この入城に備えるように、苦しみの中にある者に語られる(3)。なぜならば、慰めの言葉を聞いた者は神の働きの参加者になるように招かれているのだ。彼らだけではない、すべての被造物が神の栄光の現れの備えに招かれている(4)。そして、神が語られたからこそ、このことは起こる(5)。

2.神の言葉の力を聞き、神の姿を伝える(40:6−11)
招かれても、人はすぐには参加しない。神の言葉を信じることは簡単ではないからだ。神は説得を続ける。人の誠実さは確かなものではない。草のように、枯れ、しぼむ(6)。しかし私たちを選んで下さった神の語る言葉は「とこしえに立つ」(8)。誠実に、語られたことは必ず実現する。その言葉の確かさが、慰めと希望と喜びの到来の保証である。
神の言葉を聞き、招かれた者は、王である神の行列の先頭に立って、良い知らせを世界中に告げる(9)。神の御腕は、困難を打ち砕き、時代を切り拓いていくという知らせを告げる。出エジプト同様に、時代を造りかえる力がある(10)。さらに、神の御腕は、優しく包む、羊飼いの手として、弱り果てた者を包み、癒し、慰める(11)。このようなすばらしい神の到来が告げられる。
私たちは神の言葉の確かさをすぐに疑う。それは、「聖書も神の力も知らない」から思い違いをしているのだ(マタイ22:29)。だからこそ、神の言葉の確かさを信じる者へと回心させて頂きたい。そして、神の言葉を聞き、それゆえに語るものとされたい。

心をあわせ、声をそろえて(2013.11.3)

宣教題  :「心をあわせ、声をそろえて」   宣教:  鎌野 直人 協力牧師
聖     書  : ローマ 15章1~13節
ローマ14-15章のテーマは、「心を合わせて声をそろえることの大切さ」である。これは、強い者が、強くない者の弱さを担い(15:1−2)、互いが相手を受け入れることによって(15:7)実現する。しかし、現実はそう簡単ではない。そのために、どのように進んで行けばいいのだろうか 。

1.イエスのように生きる 
パウロは、イエスのように生きるように招いている。他人の泥を自らかぶり、大損をされたイエスの姿に倣う生き方である(15:3[詩編69:9])。短期的な損得勘定で考えるとそんな歩みはできないが、死人の中からの復活を通してイエスに正しい裁きを神が下されたことを覚えるとどうだろうか。神のこの業をおぼえる時、私たちは忍耐と慰めを学び、希望を持ち続けることができる(15:4)。

2.イエスのおかげで生かされている
アブラハムの子孫を通じて異邦人を祝福するという神の約束(15:8−9、創世記12:1−3)は、ダビデの子孫であるメシアを通して実現した(15:12[イザヤ11:10])。
イエスの十字架を通して、全世界の民が神の民に加えられたからだ。このようにして、異邦人は受け入れられ、神の計画は完遂し、神の真実は明らかにされた。つまり、私たちはお互いを受け入れ合うこと(15:7)、全世界の民が一つとされて、ともに神をあがめるようになるために(15:9−11)、神はこの世界に働き続けられ、その計画を完成された。このようにして、イエスのおかげで私たちは神の民とされたことを覚える必要がある。
心をあわせ、声をそろえた礼拝での讃美を通して、私たちが一つの歌をもってひとりの神をほめたたえる一つの民であることを世界に示すことができる。さらに、あらゆることにおいて、聖霊に力をいただき、祈りつつ、具体的に心をあわせ、声をそろえて行動していこう。すばらしい音楽に人々が魅力を感じるように、「心をあわせ、声をそろえる」教会に人々は魅力を感じる。