日別アーカイブ: 2013.08.25

無関心の正反対にあるもの(2013.8.25)

宣教題  : 「無関心の正反対にあるもの」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 1ヨハネ4章7~12節
なにごとにも無関心であった高校生が新しい世界に出会い、成長するドラマに人気が集まっている。事実、この主人公同様、無関心に満ちた世界に私たちは生きている。

1.神が愛である世界
ところが、聖書を読むとき、それとは全く対照的な世界に出会う。「神は愛」(4:8)という世界である。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」という有名なことばの通り、無関心な神ではなく、愛である神が生きて働いておられる世界である。この方は、人と世界を愛するその愛のゆえに、御子イエスをこの世界に送り、その十字架を通して、「神は愛」ということばが確かであることを示される神(4:9)である。

2.神への愛に目覚める
「神は愛」である世界という世界に私たちが生きている、と言われても実感できないだろう。私たちのまわりを見回しても、「神は愛」なんて現実的ではない。問題だけが目につくからだ。しかし、聖書に触れているとき、教会に集っているとき、突然、神の愛に気づくことがある。誰かに背中を押されて、海に飛び込んだように、神の愛に気づく。そして、神の愛に目覚めた私たちは神に対する無関心を棄てて、神を愛するようになる。

3.隣人への愛に目覚める
神の愛に気づき、神への愛に目覚めたとき、周りの人々や世界に無関心であった私たちが、隣人とこの世界への愛に目覚める(4:11)。そして、「神は愛」に対して全く無関心であった私たちを通して、「神は愛」の世界が広がっていく。
私たちは「神は愛」の世界にすこし気づいているのかもしれない。ひょっとしたらそれに目覚めているかもしれない。神への愛や隣人への愛に目覚めているのかもしれない。しかし、「神は愛」の世界に誰かから気づかされているだけにとどまっていてはいけない。御子を送られた神に自分から飛び込む時、つまり「信じる」時、私たちは「神は愛」の世界に生きる本当の住人、クリスチャンになっている。