月別アーカイブ: 2010年2月

キリストを見る(2010.2.28)

宣教題  : 「キリストを見る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 7章54節~60節

キリストの福音に敵対する人々の罪を指摘したステファノに向かって、人々は激しい怒りを燃やし、憎悪をむき出しにしています。そのような時でもステファノは、死からよみがえって、いつも生きておられるキリストを仰ぎ見て生きていました(55~56節)。

1.キリストによって勝利者とされる
「天を見つめ」ているとは、いかなる時も主なる神を信じ仰いでいるということです。その結果、ステファノは父なる神の右に立っておられる復活のキリストを見たのでした。聖霊に満たされるならば、人の憎悪や問題の中にあっても、見なければならないキリストが見えてくるのです。
その時ステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)と、キリストを信頼して祈っています。彼は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)と叫ばれ、十字架上で救いを成し遂げて勝利されたキリストを見ていたのです。十字架のキリストを見る時、私たちの罪は赦されて滅びることはありません。復活されたキリストを見る時、死が私たちの終わりとなることはありません。キリストによる罪と死に対する勝利者とならせていただけるのです。

2.キリストに似る証人とされる
さらにステファノは、自分が見たものについて人々にも呼びかけ、証しをしています(56節)。それに
対して、人々は聞く耳をもたず、それを否定しようとしました(57~58節)。
そんな中でステファノは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)と執り成しの祈りをささげました。これは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と相通じる祈りです。赦すということには、実に大きな力がいります(コロサイ3章13節)。今も生きておられるキリストを見つづける者は、キリストの十字架によって赦していただいたゆえに、赦すことにおいてキリストのようにならせていただけるのです。

柔和を身に帯びて(2010.2.21)

宣教題  : 「柔和を身に帯びて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  11章1節~11節
主イエスは、十字架を目指してエルサレムに入城されました。人々は主イエスのそんな決意も知らないで、「ホサナ(どうかお救い下さい)」と、王を迎えるように歓呼しています。
この出来事について旧約聖書の預言者は、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(ゼカリヤ9章9節)と、柔和を身に帯びた平和の王の入城であったと語っています。

1.卑しめられた受難のキリスト
主イエスは、人々が期待するような地上に新しい権力を打ち立てる戦いの王ではなく、わざわざ「子ろば」に乗って、柔和で平和をもたらす救い主としてのお姿を表わしておられます。
ところで「柔和」という言葉には、高ぶらないで謙った、卑しめられたという意味が含まれています。主イエスが最も卑しめられたのは、受難のしもべとして十字架にお架かりくださった時でした。そこには、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(1ペトロ2章22~24節)と、愛のゆえに黙しておられるお姿があります。この主イエスの柔和が、私たちを罪と死と滅びから救い、生かす力となったのです。

2.こころ砕かれた謙遜なキリスト者
人々は、主イエスを王として迎え入れたのですが、キリストについての理解が欠けていたために、数日後には主イエスを裏切り、「十字架に架けろ」と叫んで豹変してしまいました。彼らは、自分が持っていた先入観でキリストを理解し、自分が納得できる範囲でキリストを受け入れたのですが、そうでない場合は切り捨てようとしたのです。ここに人間の罪の姿があります。
私たちは、自分の主張やわがままにしがみつかないで、聖書が証言しているキリストご自身をそのまま受け入れ、心砕かれて従っていきたいものです。柔和なキリストが私たちの全てを支配してくださるとき、私たちは謙遜で柔和な者に造られていくのです。

信仰の目覚め(2010.2.14)

宣教題  : 「信仰の目覚め」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記  28章10節~22節
ヤコブが、旅の途中の荒野で過ごした夜の出来事です。彼は父との死別の悲しみ、兄を裏切った心の痛み、いつも傍にいて守ってくれた母との別れの悲しみ、旅そのものの恐怖、見知らぬ土地への不安を秘めながら、石を枕にしての野宿をしました。
そのような中で、ヤコブは神と出会い、信仰に目覚めさせられるのです。

1.見上げよ!  10~15節
ヤコブは、この時まで神の話しは聞かされ、神の祝福に与かることに憧れていましたが、神ご自身を個人的に知ることはありませんでした。そんな彼が、神の御名を呼んで助けを求めて眠りについたのではないでしょうか。その夜彼は夢を見て、神を見上げる時を与えられたのです。
まず神ご自身が、ヤコブの暗い孤独な現実へ下ってこられたことを見ました(12節)。また、神ご自身がヤコブの傍らに立っておられるのを見ました(13節)。そして、神ご自身がヤコブと共にいてくださり、守り、見捨てることはないとの力強い約束を見聞きしました(15節)。
私たちは、いかなる時であっても、この神を見上げることを忘れてはなりません。

2.目覚めよ!  16~22節
ヤコブは、夜の眠りからの目覚めと同時に、信仰の目覚めを経験しました(16~17節)。そして、その場所を聖別し、信仰の記念としました(18節)。さらに、神のヤコブに対する約束に対して(20~21節)、ヤコブは神に誓願しています(22節)。その誓願は、神が約束されていることが実現すると堅く信じつつも、不安な気持ちの入れ混じったものでした。
ところでヤコブは、信仰を目覚めさせられた場所を「ベテル(神の家)」と名付けています(19節)。そこから信仰の歩みが始まったヤコブは、そこに戻ってきて礼拝をしました(35章3節)。このベテルこそ、今日の教会です。そしてイエス・キリストが、天に通じる唯一の階段となってくださいました(ヨハネ1章51節)。私たちは、神の臨在とその守りの中を御国を目指して歩んでいるのです。

教会に生きる(2010.2.7)

宣教題  : 「教会に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  20章17節~35節
キリストとの出会いがその人のキリスト観に、教会との出会いがその人の教会観に影響を与えます。さて、神が御自身の血をもって贖い「御自分のものとなさった神の教会」とは、どのような群れであり、また私たちはそこでどのように生きていくのでしょうか。

1.キリストを宣証する群れ  18~27節
パウロは、謙遜と愛と忍耐をもって、ひたすらキリストに仕えました。そのためには、どの人にも分け隔てなく、ありとあらゆる方法を用いて神の恵みの福音の全てを証しし宣べ伝えました。そして、その任務を果たすことで十分であると語っています。このように、パウロが謙遜かつ大胆になれたのは(19節、24節)、全ては神の憐みであり恵みであると自覚していたからです。(1テモテ1章12~17節)。
私たちが教会に生きるのは、このようにキリストを証しし宣べ伝えるためです。

2.聖霊によって牧される群れ  28~31節
教会は、キリストの血によって贖われ、神のものとされた人によって構成されています。ですから「神の教会」は、神のものなのです。聖霊は、教会を神のものとさせないようにする働きかけから守り、また牧する監督者を任命されます。そうするのは、群れの一人ひとりが神への礼拝と奉仕がささげられるようにするためなのです。
私たちが教会に生きるのは、聖霊によって牧される群れが建て上げられ、一人ひとりが整えられていくためです。

3.神の御言葉に立つ群れ  32~35節
神の御言葉は、信仰者を造り上げる力があり、教会の基礎を固めていきます(9章31節)。また、永遠の命の恵みを受け継ぐまで導く力があります。ですから信仰者は、神の御言葉を信頼して、自分も他者も御言葉に委ねるのです。パウロは、「受けるよりは与える方が幸いである」との神の御言葉に委ねる生き方を証ししています。 私たちが教会に生きるのは、神の御言葉に立って生きることの幸いを知り、学び、体得するためです。