月別アーカイブ: 2010年1月

御霊によって歩く人々(2010.1.31)

宣教題  : 「御霊によって歩く人々」   宣教:   横田 武幸  師
聖    書  : ガラテヤ 5章16節~26節

信仰生活においてしばしば「目から鱗」の体験をすることがあります。今朝のテキストもわたしにとって、心の目が開かれる御言葉です。「喜びの音信、福音」です。御霊によって歩く時、肉の欲の支配から解放されます。また御霊によって歩くものには、「御霊の実を結ぶ」ことができます。

御霊の実とは何でしょうか。信者の人格の中に起きる人格の変化です。それは一瞬に起きるものもありますが、徐々ではありますが確実な変化が起きるものであります。
それは人間の修養、努力、研鑽と言うものとは、全然別な出来事です。神の聖霊による人格の変化です。キリストの似姿への変化です。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

「御霊によって歩きなさい」とは何を意味するのでしょうか。
この言葉は、(1)継続、習慣、生活化を意味する現在命令形です。
(2)聖霊によってとは、聖霊に満たされ続けて、聖霊にコントロールされて、聖霊が心と体の「主、王」なのです。「恵みと愛で支配するお方様」に丸一日、丸々一週間主権を明け渡す生活です。
(3)まず初めの一歩が始まれば、次の一歩、もう次の一歩と歩みを続けます。確実に御霊の実を結びます。「初めには、芽が出ます。次に穂が出ます。そして穂の中に「実」が結ばれるのです。
逆の順序を考えていませんか。歩きかけた幼児は、躓きますし、倒れます。しかし立ち上がって歩きます。一回倒れたってあなたの生涯は終わったのではありません。いつの間にか走るものとなり、飛んだり、跳ねたりするようになります。

実を結ぶには、聖霊によって歩むことですが、もっと具体的な表現をすれば、
(1)「御言を聞いて悟る人」は、百倍、六十倍、三十倍の実を結びます。
(2)祈りを通して、主に繋がり、主の生命の内住活動を体験します。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」のです。
(3)ペトロは御顔を仰ぎつつ波の上を歩き、一歩一歩確実に進んでいきました。それは、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

御霊の導きに従う者(2010.1.31)

宣教題  : 「御霊の導きに従う者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ガラテヤ 5章16節~26節
私たちが救われ、救いに与かり続け、救いの完成に至るまで、神は恵みをもって導いておられます。この神の恵みを信仰をもって受け取り続ける者は、「(御)霊の導きに従って歩み・・・生き・・・前進」(16節、25節)するのです。御霊の導きに従うとは、どのような状態をいうのでしょうか。

1.御霊の実を結んでいる  16~23節
キリスト者には、二通りの生き方があります。まず、自分中心に歩む者の「肉」の働きは、その結果が明らかとなります。すなわち、堕落した本能をむき出しにして、神にも、人にも、社会にも敵対する罪となって現れます(19~21節)。肉は、このような罪を私たちの内に取りこんでしまうのです。
しかし御霊は、行いとか働きではなく品性の実を結ばせてくださいます。御霊の賜物は、各々その人に相応しく与えられますが、御霊の実は「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という9つ全てを一人の人に結ばせるのです。このように御霊は、常に内から外へと働いて、「御霊の導きに従って歩」む者を造り変え続けてくださるのです。

2.キリストのものである  24~25節
クリスチャンは、「キリスト・イエスのものとなった人たち」です。確かにキリストの十字架が、私たちをキリストのものとしてくださり、御霊の実を結ぶものとしてくださいました。しかし、自らがそうでない現実に気づく時、再び十字架を見上げるのです。その時十字架が、私たちの罪の身代りのためだけでなく、私たち自らがキリストと共に十字架につけられ(2章19~20節)、その「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけて」しまっていることを知るのです。
私たちは、この十字架の恵みを絶えず受け取り直して、御霊の導き従っていくなら、肉の働きは影をひそめていくのです。
キリストのものであり続けるためには、神第一の礼拝生活と信仰生活と教会生活を送ることが大切なのです。

何をしてほしいのか(2010.1.24)

宣教題  : 「何をしてほしいのか」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 10章46節~52節
主イエスが、「エリコの町に着いた。・・・エリコを出て行こうとされたとき」でした(ルカ18章35節~19章1節を参照)。道端で物乞いをしていた盲人バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と繰り返し叫んだのです。私たちは、このように叫び求める方を知っているでしょうか。

1.キリストの憐みを求める  46~51節
バルティマイが「ダビデの子イエス」と呼びかけているのは、イエスこそ主であることを知っていたからです。彼は、イエスの憐みにすがることを妨害するものがあってもめげないで、また疑い迷わないで執拗に叫び続けました(詩編50編15節)。
この叫びを無視なさらない主イエスは、「安心しなさい。立ちなさい」とバルティマイを呼びよせられました。憐みの主に信頼していたバルティマイは、踊り上がるほど喜び、安心してイエスのところに来たのです。
そこで主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねられると、「見えるようになることです」と即座に答えるバルティマイでした。彼の目は見えるようになり、新しい歩みへと導かれて行きます。イエス・キリストは、人が抱えている悩みなどに答えてくださることを通して、最も大事な人の心と魂の目を開いてくださるお方です。

2.キリストの憐みを信じる  51~52節
主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねてくださったのは、愛以外の何の理由もありませんでした。この主の愛と憐みに対する信仰のあるところに、救いの御業がなされるのです。
バルティマイは、肉眼が見えるようになったことだけで終わらないで、「なお道を進まれるイエスに従」いました。それは、受難の道を進まれる後に従うことであり、十字架上のイエスを仰ぎ見ることだったのです。
私たちは十字架上での神の叫びを聴いて、それが自分のためであったと信じる時に(15章34節)、心と魂の目が開かれます。そしてイエス・キリストに従って行く時に、主の使命に生きる歩みがつくられていきます。

聖霊に満たされて(2010.1.17)

宣教題  : 「聖霊に満たされて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 6章8節~15節
主の弟子たちの中から選ばれた7人は、細やかな愛の奉仕を忠実に励む人たちでした。なかでもステファノは、キリストを証しすることと力ある業を行うことにも忠実でした。彼がそのように歩んだ秘訣は、「聖霊に満ちている」(3節、5節、10節)主の弟子だったからです。

1.健全な主の弟子である  8~10節
ステファノは、「恵みに満ち」ていました(8節)。彼は、救いの完成へと導く神の恵みを無駄にしたくないために、恵みによって主の業に励んだのです(1コリント15章10節)。また、「力に満ち」ていました(8節)。その力は、人をキリストとその救いに導くものでした(1章8節)。さらに、神を畏れ敬う「知恵に満ち」てキリストを証しし、弁明しました(3節、10節)。そして、主なる神に対する全き「信仰に満ちて」いました(5節)。聖霊に満たされるとき、主なる神を讃え、新しい言葉がつくられ、キリストの香りを放つ健全な主の弟子とされるのです(ヱフェソ5章18~20節)。
聖霊に満たされることは、信仰者が自由に選べる贅沢品ではありません。だれにとっても絶対に必要なものなのです。

2.輝いている主の弟子である  11~12節
素直に福音を受け入れられない人々は、ステファノに対して反対や妨害をしました。彼らの怒りは高まって、民衆がそれに加わるように動員され、偽証までさせています(11~14節)。ここに、自分の立場を守るためには手段をも選ばない人間の罪の姿が現れています。しかし、そのような中でもステファノの顔は、「さながら天使の顔のように見えた」のでした(15節)。これは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」との信仰に生きる者の輝きです(ガラテヤ2章19~20節)。
キリストの救いの恵みが届けられるために、神は人を用いられます。しかも、環境や状況や条件に支配されることなく、聖霊に満たされた輝く器を用いられるのです。

逆こそ真(2010.1.10)

宣教題  : 「逆こそ真」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 10章32節~45節
主イエスがご自身の受難と復活を予告された際に、ヤコブとヨハネは栄誉と報いを求めました。それに対して主イエスは、「仕える者になり・・・すべての人の僕」になることが、真に偉大な道であることを明らかにされました。仕えるとは、どういう在り方なのでしょうか。

1.キリストの愛に触れ続ける
私たちは、スキンシップや心の触れ合いによってお互いの感性が豊かにされます。聖書には、主イエスが人に触れられることによって御業をなされたり、人が主イエスに触れることによって癒されたりしている場面が多くあります。
ところで、主イエスが来臨された最大の目的は、「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」でした(45節)。それは、罪と死の虜になっている者を解き放つために、主イエス自らが十字架で血を流して身代金となってくださったのです。
私たちは、自分の決断によって、僕となって神と人に仕えることはできません。いつもキリストの十字架の愛に触れ続け、復活の命に触れ続けることによってのみ可能なことなのです。

2.キリストの謙遜に倣い続ける
主イエスは、「仕えられるためではなく仕えるために」来られました(45節)。私たちは、このキリストの謙遜に倣い続けることによって、僕となって神と人に仕えることができます。これこそが、「偉く」また大きくなることなのです。
この勧めは、ヤコブやヨハネなどの特別な人に対してだけなされたものではありません。「あなたがたの間で」(43節)と、今日の教会に対して勧められているのです。教会は、仕える人と仕えられる人と区分けしてしまう所ではありません。キリストが仕えていてくださることを知る者は、人からの些細なことにも仕えられる恵みに気づき、神と人とに仕える者とされるのです。
私たちは、互いに仕え合う喜びに生きてこそ、互いが大きくなり、真に偉くなるのです。

恵みに応答して(2010.1.3)

宣教題  : 「恵みに応答して」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 第二コリント 5章11節~21節
私たちを生かす原動力は、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(14節)というキリストの愛であり、神の恵みです。私たちは、それに対してどう応答するのでしょうか。

1.キリストにあって生きる  17節
私たちがキリストの愛の強い迫りを体験するのは、自らが罪人であるとの強い自覚を覚えた際に、贖い主イエス・キリストの十字架の救いを鮮やかに示された時です。
それは、神に義人と認められる恵みです(21節)。
この恵みは、だれでも、いつでも、キリストにあって、キリストに結ばれて新しく創造された者として生きることです。それは、キリストによらない自己中心の古い生き方ではなく、キリスト中心の新しい生き方をすることであり、この世のものの見方や価値観でキリストを見るのではなく、聖書が明らかにしている見方や価値観でキリストを見ることです(16~17節)。
私たちがキリストの十字架で新しく創造されるならば、「見よ、すべてが新しくなったのである」(口語訳聖書)との歓喜が溢れ出るのです。

2.キリストのために生きる  14節
駆り立てるキリストの愛は、私たちを縛って動けなくするのではなく、新たな方向へ向かわせ前進させます。すなわち、自分自身のために生きる生き方はキリストと共に十字架で死んだのですから、私たちは復活してくださったキリストのために生きるようになるのです(14~15節)。
さらに私たちは、キリストの十字架の贖いによって神との和解の恵みを体験したのですから、キリストの和解の務めに生きるのです。それは、「キリストに代わってお願いします」とのメッセ-ジを携えて遣わされる全権大使です(18~20節)。
私たちがキリストの愛に駆り立てられ、救いの恵みの喜びと感激に満たされ、困難な中でも使命に応えていくならば、それは徒労で終わることがありません。一人ひとり、神の召しに応答していきましょう。

御言葉に生きる(2010.1.1)

宣教題  : 「御言葉に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録20章32節
私たちにとって必要不可欠なものは、霊的洞察力です。これは、私たちが祈りと聖書の御言葉に聴くことに時間を費やし、それを自分のものにしていく中から備わっていきます。私たちは「聖霊に励まされ」つつ、「御言葉に生きる」ことを大切にしたいものです。

1.御言葉には力がある  32節b
神の御言葉は、神の御心・御計画・御業が証言されていて、生きており、力を発揮します。しかも御言葉は、永遠に不滅で不変の力があります(マタイ24章35節、1ペトロ1章25節)。この御言葉が発動されることによって、全てのものが造られ(創世記1章、ヨハネ1章3節)、保たれているのです(ヘブライ1章3節)。
さらに、イエス・キリスト御自身を証言する御言葉は(ヨハネ5章39節)、私たちを救う力があります。御言葉は、私たちの魂を救い(ヤコブ1章21節)、建て上げ、神の国と永遠の命を受け継がせる力があります(使徒言行録32節b)。
聖書の言葉は「神の言葉」であること、それはただの言葉ではなくて「御言葉」なのであることを覚えて、御言葉に対する敬意を持たせていただきましょう。

2.御言葉に委ねる  32節a
パウロは、御言葉の力に対する信仰があったので、自分自身と自らの信仰生活や奉仕を御言葉に委ねることを知っていました。「恵みの言葉」である御言葉が、彼に恵みをもたらし、恵みをもって導くことを経験していました(1コリント15章10節)。
ですから彼は、神の教会が内外からの危機的状況に置かれる中で(29~30節)、教会と聖徒たちとの別れに際しても、彼らを御言葉に委ねることができたのです。彼は、御言葉に対して絶対的な信頼を置いていたからです。
私たちは、絶えず静まって御言葉に聴き、キリストに出会い、キリストに触れ続けていくことが大切です。そうすることによって、神と御言葉に自らも他者も委ねていくことができるのです。