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主はシオンに来られる(2017.2.12)

宣教題  「主はシオンに来られる」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ59章15b~21節 マルコ1章14~15節
神はこの世界を見られたら、どのように判断されるのだろうか。
主は捕囚から帰還した民の姿を見、そこで正しいさばきが行われていないのを見た(15節)。流血、虚偽、不正が満ち、平和などない。社会の問題の原因は、神の民自身にある(1~8節)。民も、自分たちが暗やみの中を歩んでおり、正義も、救いも、まこともない世界を作りあげてしまったことを自覚している(9~15節)。そんな神の民が神のわざをなすことなど、不可能である。

1. 正しいさばきのために介入される主
世界の現実を見られた神は、それを放置なさることはされない。主は、戦いに長けた勇士として、その世界に介入されて、そこに正しいさばきをもたらす。正義も救いもないところに、それをもたらす勇士として介入され、それぞれにそれぞれのわざにふさわしい報いをもたらすのである(16~18節)。世界を破壊するためではなく、修復するためにそれを行われる。そして、主の霊の働きのゆえに、世界中の者たちは、主の介入を認めるに至る(19節)。

2. 主はシオンに来られる
そして、主はシオンに来られる。問題だらけのシオンに、エジプトからイスラエルを救い出した「贖う者」(20節)として来られる。背く者には、それにふさわしい報復が与えられる。しかし、かたくなな心を解き、罪を悔いる者、つまり、主に立ち帰る者には、救いと再生を与えられる(20節)。シオンは造り変えられ、契約は更新され、神のなさる正しいさばきという介入を証しする者として世界へ遣わされる。神の聖霊とみことばが共に働いて、世界は彼らを通して修復されていくのである。
この世界を見られた主は、イエスを通してこの世界に介入され、世界を修復し、修復のわざを行う民を生み出された。イエスはイスラエルに来られ、シオンに来られ、私たちのところに来られた。罪を悔い、主に立ち帰るところから私たちのこの世界における働きは始まる。

神にあがなわれた民(2012.1.29)

宣教題  : 「神にあがなわれた民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト 6章2節~9節、コロサイ1章13~14節

エジプトで奴隷として重労働の下に置かれていたイスラエルの民がどれほど努力しても、自分たちを王パロの支配の下から救い出すことはできませんでした。しかし、主が彼らを救い出したことによって(6章6節)、彼らは主の民となりました(6章7節)。この主の働きを「贖(あがな)い」と呼んでいます。

1.イスラエルをあがなわれた主
旧約聖書においては、大家族のひとりが、他のメンバーの利益のために犠牲を払ってする行動を「贖い」と呼びます。家族の借金を支払いきったり(レビ25章)、兄弟の名前を残したりする行為です(ルツ記)。つまり、主は、イスラエルの父祖との契約によって彼らの「父・神」となられたからこそ、犠牲を払ってまでもエジプトの手からイスラエルを救われたのです(出エジプト6章4~5節)。
さらに、強制労働を課し、子どもを殺し、主を礼拝することをゆるさないエジプトに勝たれた主は、罪の力からイスラエルを解放しました(6章6節)。主の勝利は、イスラエル自身の罪に対してではなく、エジプトの罪に対するものです。そして、「あながわれた」イスラエルは、王である主の支配下に置かれました。

2.御子によるあがない
御子キリストの十字架によって神はあがないをなして下さいました(コロサイ1章14節)。ですから、十字架は、父である神がわたしたちのために払われた大きな犠牲です。さらに、闇の力である罪に勝利されることによって、その奴隷であったわたしたちをあらゆる点において解放し、御子の支配下へと移して下さいました(1章13節)。このようにして出エジプトをモデルとする、十字架による勝利のわざ、あがないを喜んで受け入れた私たちは、今度は主にならうべきです。闇の力の支配下にある人を解放する主のわざの一翼を担わせていただきましょう。

降る愛(2011.12.18)

宣教題  : 「降る愛」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一   4章9節~10節
クリスマスは、大いなる神が小さくなられて、幼子イエスとして、この地上に最も低く降ってくださった時です。私たちは、この出来事を「神は、独り子を世にお遣わしになりました。・・・ここに愛があります」と言い表していることに目を向け、そこに立ち帰り、そこから新たに出発するのです。

1.人を生かす愛  9節
神は、私たちに愛する価値があるから愛してくださったのではありません。神の愛は、神の方から示してくださったものであり、愛するに値するものを発見できなくても愛されるのであり、愛することによって価値あるものと造り変えてくださるのです。
それは、イエス・キリストによって私たちを生かす愛です。命の源である神と断絶して死んだような状態にあった者に、生きることの意味や目的や生きる力を与えられるのです。さらに、もうダメだと思われた人の生き方を変えて、その持ち味を生かして用いられるのです。そして、肉体の死で終わることなく、永遠にまで生かされるのです。
人は誰でも、自分を気遣ってくれて、自分の人生を肯定的に生かしてくれる人を求めます。イエス・キリストこそが、私たちにそれを成し遂げてくださるのです。

2.罪を贖う愛  10節
神に生かされることをとどめるのが、私たちの内にある「罪」です。罪は、神と人の本来の関係を破り、人と人との関係も人と自然との関係も破るもので、人間にとっての最大の問題です。それは、人間世界に悪や不義や不正や対立や争いとなって表れます。
愛の神は、この罪を放置しておくことができないので、ご自身の方から救いの手を差し伸べてくださったのです。それは、神の独り子が十字架にお架かりくださり、「罪を償ういけにえ」となってくださったことによって明らかにされました。このことを信じる者に与えられる罪の赦しは、私たちが勝ち取った赦しではなく、贈られた赦しです。罪を赦された者は、真に生きる者となるのです。
「ここに愛がある」とは、何という素晴らしい宣言でしょうか。ほんものの愛に必ず会える「ここ」と呼び得るところは、イエス・キリストです。