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救いのみわざ

主こそ救い(2019.8.25)

宣教題 「主こそ救い」       宣 教  宮澤 清志師
聖 書 エレミヤ17章1~14節

 私たちは、「祝福される」すなわち「幸いな人」とは、周りの環境に恵まれ、何の苦労もなく生きている人であると考えます。しかし、この箇所においては、祝福された人にも暑さや干ばつが襲うとあります(8)。一見、呪われた人(5)と同じ境遇のように感じられます。
では「呪われた人」と「祝福された人」とは、いったい何が違うというのでしょう。

1.罪の中の人間の姿
 まず、ここでは神を失った人間の姿は、「人間」に信頼する生き方であると語ります(5)。自分を信頼し、自分が築き上げた「富」(11)を信頼し、結果、その人は「神を失った者」(11)となるというのです。
 また、そのような人は「荒れ地の裸の木」(6)にたとえられています。からからに乾ききった不毛の地、炎暑の地を住まいとする人のようだとこの箇所は語ります。
 そして聖書はそのような人の心を「とらえ難く病んでいる」(9)と語るのです。そのような心の現実に振り回され、心に傷を負い、自らを傷つけているのが人間の姿であるような気がします。

2.人間に対する神の愛
 そのような罪の中にいる人間に対して、預言者エレミヤは神に嘆きます。エレミヤは、人間の現実の姿にただ涙し、嘆いているのではなく、救われる道があると説くのです。それが、救い主である主のもとに帰ることなのです。

 「癒し主」であり「救い主」であるお方のもとに帰ることができますように。

聖書朗読(1.2MB)

メッセージ(12.3MB)

もっと強いお方(2016.10.16)

宣教題  「もっと強いお方」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章14~26節

洗礼を受けるということは、救われているということです。救われた人は、どのような生き方をするか、日常生活の中でどのような具体的な姿をとるのかが問われます。この聖書箇所からは、「もっと強い者」(22節)と言われている主イエスの救いとは何かを語っています。

1.神の恵みの中に取り戻される
主イエスは、悪霊のものとされて自由を奪われ、言葉を奪われ、交わりを持つことができない状態にいた人を神の恵みによる救いの中に取り戻され、神との交わり、人との交わりを回復されました(14節)。群衆は、それが神に敵対する悪霊の頭によってなされたと思っていましたので、主イエスは、そのような内輪もめによるのでないことを指摘されたのです(15~19節)。
悪霊は罪に捕らわれている人を告発し、神から引き離そうとしますが、主イエスはそこから神のものとするために取り戻してくださるのです(20~22節、黙示録12章9~11節)。悪霊よりも「もっと強い」主イエスの十字架の血のゆえに、人を告発する悪霊の武具は通用しなくなるのです。それゆえに、神の前に不安はないのです。

2.神の側に立ち続ける
主イエスは、全能の愛の力をもって、人を救いに入れてくださいました(20節)。ですから、その救いの中に留まり続けることが大切です。すなわち、悪霊の側に立つのでなく、神の側に立ち続けていることです。そこには、中間の状態また空白の状態はないのです(24~26節)。
主イエスに結ばれて神の側に立ち続ける者は、主イエスに味方し、主イエスと一緒に集める者です(23節)。私たちは、主イエスが流してくださいました十字架の血によって主のものとされていることを喜び、主イエスと一緒に神の民を集める伝道の働きに加えられて歩むのです。

人格から人格に(2009.7.26)

題   : 「人格から人格に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 3章1節~10節
主なる神は、ペトロのように弱い器を取り上げて、ご自身の栄光と福音の前進のために用いられます。ペトロは、キリストを「持っている」という明確な経験をしていましたので、聖霊によってキリストを「あげよう」と提供しました。これが、「人格から人格に」なされるキリストの救いの御業です。

1.自覚的なキリスト経験
施しを乞う男と二人の使徒との間には、関心を向けられることを必要とする男の視線と、その男の存在に関心を向け、その痛みに関わろうとする使徒たちの視線とが交差しています(3~5節)。それに続いてペトロは、キリストを信じる者は新たに自立する道を歩ませていただき、神を当てにする生き方に変えられることを語り導いています(6~8)。
キリストを「持っている」とは(ヘブライ4章14節)、キリストこそが私の救い主であり、私の主であることを自覚し、私の全てを支配しておられるのは内住のキリストであることを自覚していることを言います。そして、生きることがキリストであることを体験的に知っていることなのです。

2.自覚的な聖霊経験
使徒たちは、男にとって最も必要とされ、根本的な解決を与えるキリストの救いを「あげよう」と提供しました。彼らに、聖霊によって神の愛が注がれていたからです。キリストの救いとは、キリストに対する真実な悔い改めと主体的な信仰によって、男がキリストに結びつけられることでした(16節、19節)。この御業は、全て聖霊によることでした。
男は、このキリストの御業のゆえに歓喜し、神を賛美し、神に栄光を帰しています。そして、キリストの証人となったのです(8~9節)。
私たちは、主イエスからいただいて持っているものを他者に与えることができます。「わたしたちを見なさい」との聖霊の一致をもって、自覚的なキリスト経験、自覚的な聖霊経験をしていくのです。