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主のことばに従う勇気(2014.8.17)

宣教:鎌野直人 協力牧師
聖書: ヨシュア1章1~18節   ヨハネ16章33節

偉大なリーダーの死を迎えた時、どのような組織も危機を迎える。出エジプトを導いてきたモーセの死を迎えたイスラエルもそうであった(1~2)。モーセが 民とともにいたからこそ、主は民とともにおられ、荒野放浪の40年は導かれてきたからだ。しかし、モーセが死んだ今、約束の地を征服するという主の約束は 継続されるのだろうか。モーセの後継者として指名されたヨシュアはその働きを全うできるのだろうか。

1.イスラエルは前に進む
主はヨシュアに、モーセが死んだ今だからこそ、ヨルダン川を渡り、約束の地へ進むように命じた(2)。その際に、ヨシュアには、約束の地は、神が与えて くださるものなのか、それともイスラエルが自分たちで占領するものなのか、という問いが投げ掛けられた。まず、その地は、主がイスラエルに与えようとして いる土地であり(2)、もう与えた、と主が約束されている土地である(3)。しかし、何もしなくても与えられるものではない。「あなたたちの足の裏が踏む 所を・・・与える」(3)とあるように、その土地を自分たちの足で踏む、つまり戦うことが求められている。与えられているという確信に立ちつつ、準備し、 行動するとき、主の約束は継続され、実現していく(10-11)。

2.主のことばに従う勇気
ヨシュアは明らかにモーセとは違う。しかし、主は、モーセに約束されたように(出エジプト33:14)ヨシュアにも「あなたと共にいる」(ヨシュア 1:5)と語る。主がヨシュアとともにいるからこそ、主は民とともにいる。モーセの時と何一つ変わらない。ヨシュアはその使命を果たすことができる。この ときに、ヨシュアに求められていることは、モーセを通して主が命じられ律法を日々味わい、それを実行する勇気である(7?9)。モーセのような偉大な指導 者にならなくても、主のことばを味わい、それに生きるヨシュアとイスラエルの民を通して、神は世界に働き続けられる。モーセの時代になされたことと同じこ とを、ヨシュアの時代にも主はなさろうとしている(12~18)。

 教会はキリストのからだである。イスラエルの民と同じように、主が約束し、与えてくださっていることが、私たちのわざを通してこの世界で実現していく。 それは、すでに十字架と復活において勝利を取られたキリストが、私たちと共におられるからである。だからこそ、みことばを口ずさみ、整えられ、それに生き る勇気をもって、困難が多くあるこの時代に主に従っていこう。

それでも主は見捨てない(2013.9.29)

宣教題  : 「それでも主は見捨てない」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ホセア書1章1節~2章3節
必ず裏切ると分かっている人と結婚することができるだろうか。紀元前8世紀、繁栄に沸く北王国イスラエルに住むホセアに、主は「淫行の女をめとれ」(1:2)と命じた。妻から生まれる子どもたちを自分の子として受け入れるようにも命じている。それを実際に行ったホセアは、なんと愚かだろうか。どれほどの痛みを経験しただろうか。ホセアの愚かさと痛みは、イスラエルの神でありつづける主の愚かさと痛みである。イスラエルは、古代から幾度となく血が流されてきたイズレエルの地で、また流血を繰り返している(4)。主を捨て、武器や偶像を頼っている(2、5)。契約によって「淫行の民をめとっている」のは他でもない、イスラエルの神である主だ。

1.だから、主は責任を問われる
ホセアは、結婚という契約のゆえに、自分を裏切った妻にその責任を問える。主も、自分を裏切ったイスラエルの責任を問う。だから、一人目の子、イズレエルの名にちなみ、流血の罰をイスラエルに下す(4)。二人目の子、ロ・ルハマの名にちなみ、イスラエルにあわれみをかけることはせず、その罰をゆるさない(6)。三人目の子、ロ・アンミの名にちなみ、イスラエルはもはや主の民ではなくなり、主はイスラエルの神ではなくなる(9)。自分たちを生み出した主との関わりが切れ、イスラエルはすべてを失う。イスラエルの王家はその支配を終える(4)。すべてが止まる。

2.それでも、主は見捨てない
これほどひどいイスラエルなのに、それでも、主は見捨てない。すべてが止まったのは回復のためである。その後、イズレエルが栄光の日となり、イスラエルが主の民となり、その上に憐れみが注がれる(2:2-3)。それは、アブラハムとの契約のゆえ(創世記22:17)ダビデとの契約のゆえである(2サムエル7:16)。
ホセアとよく似た名前のイエスも、「淫行の女」、取税人、罪人、娼婦の所へ行かれた。そして、その出会いを通して、彼らは「アブラハムの子」(ルカ19:9)へと回復された。主は見捨てない。だから、裏切り者にも希望がある。