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ニコデモ

信仰の一歩を(2014.8.24)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ19章38~42節 、ローマ10章9節

ここに登場する「アリマタヤ出身のヨセフ」と「ニコデモ」は、ユダヤの社会において指導的な立場の人たちでした。二人に共通することは、これまで「イエス の弟子」であることを公然明白にしてこなかったことでした。そんな彼らが、主イエスが十字架に死なれて葬られることに立ちあった際に、大きく変えられたの でした。

1.人を恐れないで
「ユダヤ人を恐れて」とあるように、人は他人の顔や評判に恐れやすいものです(箴言29章25節)。こうした恐れは、単に弱いからという以上に、その心 の向きがゆがんでいるところから生じるものです(ヨハネ12章42~43節)。そこには、神からの誉れをいただこうと追い求めるよりは、人からの誉れを愛し追い求める心があるのです。それは、神を信頼していないことでもあるのです。
こうした人が恐れる姿は、神の御言葉に背いて、神からその身を隠した人類の最初の人アダムとエバにも見られるものでした(創世記3章10節)。慈しみ深 い神は、そのような人に対して、「あなたは何をしたのか」と問われないで、「あなたはどこにいるのか」と御自身との交わりの回復へと招いておられます(同 9節)。

2.大胆にキリストを信じよう
主イエスは、何と慈しみと慰めに満ちておられるお方でしょうか。弟子たちを最後まで愛し抜いて(ヨハネ13章1節)、彼らを守られました(同18章19節以下)。
ひそかな主の弟子であったヨセフとニコデモは、主イエスが十字架に死んで葬られるに際して公然と主の弟子であることを言い表わしました。彼らは、主イエ スの教えや数々の奇跡によってではなく、十字架の死を通して主イエスに引き寄せられ、用いられることになったのです。
宗教心は信じる態度を大事にしますが、信仰心は信じる対象を大事にします。聖書は、主イエスを信じ、信頼する信仰心をはっきりと持ち、それを公に言い表 すように促がしています(ローマ10章9節)。そうすることによって、人々に影響力を持ち、神の祝福を及ぼすことができるようになるのです。

イエスを訪ね続けたニコデモ(2010.8.8)

宣教題  : 「イエスを訪ね続けたニコデモ」   宣教:   西原 孝至 師
聖    書  : ヨハネ 19章38節~42節
人がキリストを訪ね続けていると造り変えられ、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できる人になります。

1.以前、ニコデモは主イエスの教えを聞くために、夜、人目をはばかって、イエスを訪問したことがありました(ヨハネ3:1-11)。しかし、その頃のニコデモは、自分の努力で律法を守って正しい生活をし、そのことを神に喜んでもらおうとする世界に生きていたので、主イエスを信じて罪赦され、聖霊によって造り変えられるという世界を理解することは、どうしてもできませんでした。

2.その後、7章では「律法を知らない群衆は呪われている」と言うファリサイ派の人々に対して、ニコデモは「イエスがまちがっていると頭ごなしに言ってはならない。その言葉に耳を傾け、御業をよく見てから判断すべきだ」と勇気をもって語りました(50~51)。

3.やがて19章では、十字架で死なれたイエス・キリストが私たちの身代りであることを知ったニコデモは、キリストの愛に押し出されて、主イエスの死体を墓に収めるという愛のわざを、昼間堂々と人目を恐れないで行ったのでした。

誰でも始めは、キリストの言葉の意味がわかりません。しかし、ニコデモのようにイエスを訪ね続けるなら、必ず天からの助けが与えられ、造り変えられるのです。礼拝に出席し、聖書を読み、祈りを通してイエスを訪ね続けましょう。