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礼拝メッセージ

赦しを求めて(2015.11.8)

宣教題  「赦しを求めて」           宣教 高木 実 師
聖 書  ルカ23章26~43節

十字架を取り巻く三種類の人々は、人の罪深さの三つのタイプを示しています。
一つ目は、人の苦しみや痛みに対する無感覚、無関心な冷淡さです。十字架で苦しむイエス・キリストを前に、兵士達はイエスの着物をゲームで取り合っているのです(34節)。
二つ目は、自分の罪を認めない愚かさです。自分の罪のゆえ、同じく十字架につけられた強盗は、自分のことは柵に上げてイエス・キリストを罵っています(39節)。神の前に、自分の罪を認めることができない…これこそ最も根本的な罪だと聖書は教えています。
三つ目は、人の心に潜む残忍さです。祭司長、律法学者という宗教的な指導者たちまでもが、苦しむイエス・キリストに追い打ちをかけるように「あざ笑って」います(35節)。人の不幸や苦しみが、もっとひどくなればいいという残忍さを見ることができます。
一方のイエス・キリストは「彼らをお赦しください」(34節)と祈っています。このように十字架は醜い人間の罪の暗黒の真っ只中にこそ与えられた、神の赦しと和解をもたらす希望のメッセージなのです。
強盗の一人は自分の罪を認めました(41節)。「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章11~24節)の弟息子は放蕩三昧したのち、自分の罪に気付き父のもとに立ち返ります。その悔い改めた弟息子を待ち受けていたのは父親の熱烈歓迎でした。神は悔い改めて神のもとに立ち帰ってくるのを、いつも待っておられるお方なのです。この強盗の一人も、放蕩息子のように父なる神に受け入れられ、その胸に抱き締められていたと言えるでしょう。神が与えてくださる救いは、良い行いや正しく生きた人生の報いとして与えられるものではありません。救いとは、このように受けるに値しない者に与えられる、まさに恵みなのです。

日々、主とともに(2015.11.1)

宣教題  「日々、主とともに」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  詩編68編20~21節、ルカ9章18~27節

主が「日々、わたしたちを担」っていてくださるのですから(詩編68編20節)、私たちは「日々、自分の十字架を背負って」主イエスに従っていくのです(ルカ9章23節)。
私たちの信仰は、特別なこと、特別な日のためだけにあるのではなく、普通の日々、平凡な生活にあってこそ意味があるのです。

1.日々私たちを担ってくださる主
恵みの主が救い、導き、顧みていてくださることに、神の民は深い信頼を寄せています(詩編68編20~21節)。人が持つ最も重いに荷は、罪と死の重荷ですが、そのような重荷を担っている私自身はもっと重い荷といえるでしょう。
主イエスは、人の罪と死そのものを担ってくださいました。ご受難を受けられ、十字架において捨てられ、殺され、その死から復活されました(ルカ9章21~22節)。私たちは、この救い主イエスに対して、自分の口でまた自分の存在をもって信仰を言い表わすのです(同9章18~20節)。
主イエスは、時々思い出したようにではなく、あるいは気まぐれにではなく、日々に私たちを担っていてくださるのです。

2.日々十字架を負う私たち
私たちが自分を捨てて日々自分の十字架を負うことは、主イエスに従う者に与えられている喜びの証しです(ルカ9章23節)。私たちは、それを避けることもできますが、主イエスのために、福音のために背負わせていただくことにより、主の栄光を拝することができるのです。
そのようにして、日々の日常生活がつくられていくならば、他者を生かし、教会を生かし、結果としてその人自身も生かすことになるのです(同24~25節)。私たちは、自分の十字架を自分だけの頑張りで背負うのではなく、日々に私たちを担ってくださる主イエスにすべてを委ねながら歩むのです。

仰ぎ見て生きよ(2015.10.25)

宣教題  「仰ぎ見て生きよ」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章20~25節

私たちの本当の生き方は、この一日を生きるということから始まって、大きいことばかりでなく、小さいことにも、ありとあらゆることを主なる神に信頼し、信じ仰ぎ見て生きることです。それを忘れて生きるとしたら、それが罪なのです。信仰とは、仰ぎ見て生きることなのです。

1.わき見しないで、キリストを!
ペトロは、主イエスと対面して、前向きに向き合う人生を始めました(15~20節)。
ところが、「ペトロが振り向くと」、主イエスが愛しておられた弟子がついて来ていました。そして、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いかけています。 ここに、自分自身と他者にこだわり続けているペトロの姿があります。それは、罪を犯した途端に、主なる神の顔を避けて隠れた人の姿でもあります(創世記3章参照)。
私たちは、この罪を赦してくださるために十字架にお架かりくださった主イエスを仰ぎ見て生きるのです。そして、主イエスがペトロだけでなく主が愛しておられた弟子に「生きている」ことを望まれたように、主イエスとその御言葉と愛にとどまって生きる者とならせていただきましょう(15章5節、7節、9節)。

2.達成感よりも使命感を!
ペトロにとっては、主が愛しておられた弟子が気になる存在でした。それをご存知であった主イエスは、ペトロに対して「あなたは、わたしに従いなさい」との使命に生きるように招かれたのです。人は、この使命感がはっきりすると、それを成し遂げていく達成感や生きがいをもって生きていくことができます。
このように、私たちには、主の弟子として、主の証人として歩む共通の使命が与えられています(22節、24節)。私たちは、主イエスを仰ぎ見つつ、各々の持ち場に遣わされて生きる者となるのです。「わたしに従いなさい」との主イエスの招きに応答させていただきましょう。

力あるあかし(2015.10.18)

宣教題  「力あるあかし」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ3章1~7節

イエス・キリストの救いの福音は、私たちの生活と関係があり、その日常生活の中に現れてきます。ここでは、妻と夫のことが語られていますが、「同じように」(1節、7節)とあるように、あらゆる立場の信仰者に示されている生き方でもあります。信仰が生活化されているのを「見る」ことを通して、力強いあかしとなるのです。

1.感化力をもって  1~6節
妻が夫に従うことを通して、夫が信仰に導かれて救われる、また信仰が回復される場合のことを語っています。そのために、妻が無言の行ないと神を畏れる純真な生き方が用いられるというのです。このときペトロは、裏切る者を無言のうちに愛の眼ざして見つめられる主イエスを想い起こしつつ語ったことでしょう(2章22~24節)。
キリストに結ばれて新しくされた者は、外面の装いではなく、内面的な装いに価値を置いた生き方になります。ちょうど、旧約聖書に登場する婦人たちも時代を越えてそのことを証しし、良き感化を及ぼしました。
神への畏れをもって、妻が夫に従い、また夫と妻が仕え合っていることは(エフェソ5章21節)、神に望みを託した者の生き方なのです。

2.祝福力をもって  7節
夫たちの頭上には、二つの命令が響き渡っています。一つは、「生活を共にし」すべての営みを愛をもってすることです。二つは、妻をかけがえのない人格として「尊敬」することです。そうすることによって夫は、妻が自分より弱い器であることを認め、温かい理解と態度を示すことになります。また、永遠の「命の恵みを共に受け継ぐ者」として、その祝福が見える形で今実現していることを自覚して生きることになります。
このようなかけがえのない夫妻は、互いに愛と尊敬と思いやりをもって、共に祈る信仰の同労者です。同様に、神の家である教会につながるお互いは、愛と尊敬と思いやりをもって、祈りを尊ぶ同労者なのです。

すべての約束の実現(2015.10.11)

宣教題  「すべての約束の実現」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア23章1~16節 エフェソ6章10~12節

クリスチャンの戦いは、究極的には神の武具によって悪魔の策略に立ち向かうものである(エフェソ6章11~12)。しかし、人間が戦えそうもない相手、そして目の見えない相手とどのように戦うのだろうか。

1. すべての戦いは主の戦い
約束の地の征服のための戦いを終え、年老いたヨシュアは、その生涯を振り返りつつ、これまでの戦いは、すべてイスラエルの神である主が戦われたものであると述べた。イスラエル自身もそのことを見てきた(ヨシュア23章3節)。イスラエルは戦ってきたが、それはあくまでも主の戦いであった。わたしたちの悪魔の策略との戦いも、主の戦いである。

2. 過去の戦いから将来の戦いへ
約束の地での戦いはまだ続く。くじによって各部族に分け与えられた土地を獲得する戦いに向かう必要がある(4節)。主は、過去もそうであったように、これからも戦われると約束してくださっている(5節)。これまでヨシュア記で起こってきたことがこれからも続くからこそ、一人で千人を追い払うことができる(10節)。ところが、主の戦いであっても、イスラエルには、モーセの教えの書に従い、他の神に仕えず、主ののみ信頼することが求められている(6~8節)。彼らがこのようには歩まないとき(12節)、この土地から彼ら自身が滅び失せる危険性があるである(13節)。事実、士師記を見ると、約束の地でイスラエルは危機に瀕していた。

3. すべての約束は守られる
なぜ主はイスラエルの行動に基づいてご自身の戦いを戦われるのだろうか。それは、主がイスラエルを、そして私たちをこの世界におけるご自身のパートナーと見なしておられるからである。そして、パートナーである者たちと共に戦うために主が用意されたのが、主の約束である。主が約束された通り、すべてのよいことはこれまで行われてきたし(15節)、契約を破るならば約束通り、パートナーには滅びがおとずれる(16節)。すべての約束を守られる主だから、パートナーである私たちがどのように応答するかに応じて、主はご自身の戦いを進められる。
だから、「主に依り頼み、その偉大な力によって」強くされ、主に忠実でありつづけるように招かれている(エフェソ6章10節)。主は約束のすべてを守ってくださる方であるからこそ、主の約束を知り、それに忠実に生きていこうではないか。

あなたがた自身で(2015.10.4)

宣教題  「あなたがた自身で」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章10~17節

主イエスは、群衆を深い憐れみの御心をもって恵みの御業をなされました(11節、マルコ6章34節)。続いて主イエスは弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)と恵みの御業に加わるように招かれ、彼らを用いられました。それは、主イエスの憐れみと豊かな恵みに生かされている者が、共通して経験することです。

1.主イエスは仕える力を供給される
主イエスは、弟子たちが五千人の人たちに食べ物を与えることができないことを知っておられ、ご自身がなさろうとされることを腹の中にしまっておいて、弟子たちを試されました(ヨハネ6章5~9節)。このようにして主イエスは弟子たちに、自分たちでは何もできない者であることを、とことん教えようとされたのです。そして、主イエスが五千人に食べ物を供給しようとされていることを明らかにされたのです。
この出来事を通して、主イエスは、福音を伝え福音に仕える者をどのように用いられるかを教えておられます。それは、私たちの無力さを分からせていただき、主イエスの恵みによって砕かれ、恵みの器にさせていただくことなのです。恵みの供給と力は、主イエスからくるのです。

2.主イエスはささげるものを用いられる
何と主イエスは弟子に、「それをここに持って来なさい」と言われました(マタイ14章18節)。そして、五つのパンと二匹の魚は主イエスの手に渡され、祈りのうちに祝福されて、弟子たちを通して配られたのです。
私たちに託されているものが、どんなに小さなものであっても、それが主イエスに渡されると何倍にも祝福され、その結果私たちを通して用いられるのです。ですから、私たちは、主イエスが「あなたがた自身で」と言われるときに、その力は主イエスから来ることを知って、「わたしをささげます」と主イエスにお返しすることが求められているのです。

新しく始める人生(2015.9.27)

宣教題  「新しく始める人生」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章15~19節

復活された主イエスがペトロに三度、「わたしを愛しているか」と尋ねられたことに対して、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。ペトロが主イエスとの変わらない愛の出会いを繰り返すなかから、新しく始める人生を歩み出しています。

1.愛を呼び起こされる人生
主イエスとペトロの出会いは、神の愛の出会いでした。神の愛は、行動を伴なうもので、主イエスの十字架と復活に集約されています(ヨハネ3章16節)。ところでペトロは、主イエスのためならば命を捨てるとまで豪語したにもかかわらず、主イエスの十字架のご受難を前に、三度主イエスを否認しました。そのペトロが、復活された主イエスに自分の罪をお詫びしたとか、改めて主イエスに従っていくとの決意を表明したとは証言されていません。それどころか、主イエスに出会った以前の生活に戻っています。
しかし、復活された主イエスは、ご自身の方からペトロと出会ってくださり、彼の人生のやり直しをさせなさいました。救われるとは、主イエスがもう一度やり直させてくださり、限りない愛を呼び起こしてくださることなのです。

2.愛の証しに招かれる人生
愛を呼びこされた主イエスは、いきなり「わたしに従いなさい」と言われたのではありません。三度も愛の応答を求められています。しかも、その愛の確かさは、ペトロ自身のなかに確信があるというのではなく、「あなたがご存じです」と、どこまでも主イエスに対する信頼に満ちた愛の告白をしています。そして、彼の心を支え、愛する者とされたのです。
信仰とは、主イエスを愛することであり、愛する他者に対して心を砕き、労することです。しかも主イエスのお心に生きることを喜びとすることです(18~19節)。このような愛の生き方に招かれていることに、真剣に応答したいものです。

民をひとつにするもの(2015.9.20)

宣教題  「民をひとつにするもの」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア22章21~29節 エフェソ4章4~6節
クリスチャンは孤独ではない。神の恵みによって、神の民という「ひとつの民」に入れられた者である。しかし、そのことを頻繁に忘れてしまう。

1. 分裂の危機
神の約束された地の土地の分配が終わったので、ヨルダン東岸を所有地とする二部族半の人々は帰還した(9節)。途上、彼らはヨルダン川沿いにひとつの大きな祭壇を築いた(10節)。これを聞いたイスラエルの人々は、驚き、軍を送ろうとした。しかし、まず、祭司ピネハスらをこの二部族半の所有地へと送り(11~14節)、シロ以外にささげものをする祭壇を築くことは主への背信行為であると訴えさせた(15~21節)。一方で、二部族半の人々は、川の東西に別れていても将来にわたってイスラエルがひとつの民であることの証拠とするためにこの祭壇を建てたと語り、ピネハスらを納得させた(22~31節)。

2. 忘れる、思い出す
十二の部族からなるイスラエルが「ひとつの民」であることは、すべてのイスラエルの人々にとって重要であった。ピネハスは、二部族半が主への背信行為を行うとすべての民の上に主の怒りが下ると考えていた(18節)。二部族半の人々は、自分の子どもたちが「ひとつの神の民に属してはいない」と言われ、神の民から離れ、信仰を失うことを恐れていた(24~25節)。自分たちが「ひとつの民であること」を、相手側が忘れるのではないか、その結果、自分たちが主の祝福から離されるのではないか、と懸念した。そこで、「ひとつの民である」ことを忘れないように、ピネハスは失敗した歴史を思い出すように語り(17節, 20節)、二部族半の人々は主という同じ神を礼拝していることを祭壇を通して思い出すように求めた(28節)。
クリスチャンも、自分たちが神の恵みによってひとつの民とされていることをすぐに忘れてしまう。だから、現状がどうであろうとも自分たちはひとつの民であることを常に思い出す必要がある。そのために、聖書が物語る歴史、人の失敗と神のあわれみの歴史を思い出し、希望を共有すること(エフェソ4章4節)、そして、すべてのものの父である神を共に礼拝する、ひとつのバプテスマによって生み出された民であることを思い出し続けること(4章5~6節)が大切である。毎年、毎週、毎日、礼拝を通して、「ひとつの民であること」を心に刻みつけ続けることが私たちの霊的な歩みを強くする。

生涯のテーマ(2015.9.12)

宣教題  「生涯のテーマ」               宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章18~25節

私たちがキリスト者になるということには、二つの召しがあります。キリストのものとされたという納得と歓喜、キリストのようにならせていただけるという希望と渇きです。それは、キリストを模範として、その足跡に続く歩みをさせていただくという(21節)、卒業のない、生涯のテーマです。

1.キリストのすばらしさにとらえられ続ける  22~25節
ペトロは、いつも弱い立場の人たちに寄り添い、彼らがキリスト者として祝福された生き方をするように勧めています。そして、彼らが、キリストの救いのすばらしい恵みを証しし、その恵みが押し広げられることを促がしています。
そのためには、キリストの苦しみを仰ぎ見続ける者となることです。なぜなら、キリストの十字架の身代わりの死のゆえに(22~23節)、私たちは罪に対して死に、神の前に真っすぐに生きる者とされたからです。そのお受けくださった傷によって、いやされたからです(24節)。しかも、神のもとを離れてさ迷っていた者を、キリストは「牧者」また「監督者」となって、ご自分のもとへと引き戻してくださったからです(25節)。
私たちは、この恵みの主キリストに立ち帰り続けていることが大切です。

2.キリストを模範とし続けて生きる  18~21節
弱い立場にある人たちが、人に仕えることにおいて従順であることと、不当な苦しみを受けても耐え忍び、与えられた使命を全うすることが「神の御心に適う」恵みであると伝えています(18~20節)。彼らが「召されたのはこのためだったのです」(21節)。
そのためには、正しくお裁きになる神にお任せになられたキリストを模範として、キリストの苦しみの足跡に従うことが大切です。私たちが日々に経験するあらゆることがらを全てご存知の神に任せることにより、信仰の領域を大いに広げていただくのです。
私たちは、任せる信仰を働かせる機会を逃さないようにしたいものです。人が一番若い日は、年齢の若さによるのではなく、キリストのように生きる日々です。

キリストと共に労する(2015.9.6)

宣教題  「キリストと共に労する」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章1~6節

私たちは、信仰の伝統から信仰のいのちを受け継ぎ、受け取り直し、再発見していくことが大切です。クリスチャンは、主イエスの弟子であるということもその一つです。主イエスの弟子は、いつも主イエスと一緒にいて(8章1節)、福音のために主イエスと共に労する者です。

1. 福音を委託されているから
主イエスは、弟子たちを遣わして「神の国を宣べ伝え」(2節)、「福音を告げ知らせ」(6節)なさいました。神の国の福音は、人が造り出すものではなく、主イエスご自身が差し出され、無代価で提供されたものです。それを委託された主の弟子たちは、「福音に共にあずかる」(1コリント9章23節)ことを切に望んだのです。
神の国は、ちょうど家屋の大黒柱のようなもので、主イエスの恵みの支配の中にあるならば、そのもとで支えられ、守られ、強められるという大いなる救いの中に保たれるのです。そこにおいては、人間の霊的な、精神的な、肉体的な弱さを覚えるときにも、救いの恵みに与らせていただけるのです。
主イエスは、私たち一人一人に、教会に、神の国の福音を託していて下さるのです。

2. 福音を伝える力が備えられているから
続いて主イエスは、「旅には何も持って行ってはならない」(3節)と言われました。神の国の福音を伝えるために必要なものは、神が備えていてくださるので、神を信じる信仰を持って行くように勧められたのです。ないものに目を留めるのではなく、その時その時に必要なものを備えてくださる神に目を留めて信頼することです。そのために、主イエスは、ご自身がお持ちの力と権威をもって、主イエスの弟子たちを教え、訓練し、造り上げてくださるのです(1節)。
主イエスの愛に駆り立てられ(1ヨハネ4章10節、2コリント5章14節)、福音を恥としないで(ローマ1章16節)、神の国の福音を語る力を与えられ、用いていただきましょう。

求める者は受ける(2015.8.30)

宣教題  「求める者は受ける」           宣教 岡本宗子師
聖 書  マタイ7章1~12節

1.神の祝福に生きるために
主は何の条件もつけず、ただ「裁くな」と命じておられます(1節)。生まれつきの罪人であるもの同士が神の祝福に生きていく道は、それ以外にないからです。
私たちは、自分の真相には全く気づかず、人の欠けにばかり目が向き、その悪いところを認めさせ正そうとするものを持っています。けれども決して、そのような方法で問題を解決することはできません。
解決のヒントは12節にあります。それは裁きではなくゆるしと祝福を与えるということです。人間は多様ですから、自分にしてもらいたいことが人にもいいとは限りません。けれども、例外なくすべての人間が必要としていることがあります。それはゆるされることであり、愛され受け入れられることです。
主イエスによる罪のゆるしの十字架を通して、私たちは神の愛を知り、罪を悔い改めることができました。主は私たちの罪や過ちをいちいちとがめることなく、すべてゆるし、きよめ続けて、祝福を受け継ぐ者とし祝福の器として立ててくださっています。この主にあって人の罪をゆるし、励ますことが、私たちのなすべき祝福のわざなのです。

2.求める者は受ける
神を愛すること、隣人を自分のように愛することが、聖書がいう最も重要な掟です(マタイ22章37~40節)。しかし、このような愛は、私たち自身の中からは出てこず、聖霊によって神から受けるのでなければなりません。
ですから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われる主に、愛することができるように求めることです。そのためには、まず自分自身が悔い改めて、主の恵みと平安を新たに受けることができるように、十字架の前にへりくだりましょう。今日も、お互いが赦し愛し合って生きるために、聖霊によって豊かに注がれる神の愛を祈り求めましょう。

信仰の報酬(2015.8.23)

宣教題  「信仰の報酬」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア14章6~15節 ヘブライ11章1節

「信仰の報酬」は、終わりのさばきの時に、主からいただくものとは限らない。今、このとき、私たちに与えられるものでもある。
約束の地へと出発したイスラエルは、カデシュ・バルネアから十二人を探索のために送った。よい地という報告を彼らは携えてきたが、大きな町とアナク人の子孫がいるため敗北するだけだ、と十人が語り、民の心を挫いた。しかし、カレブとヨシュアは、主が与えてくださる、と進言した。民の不信の罪のため、主はイスラエルに40年の放浪を与え、カレブとヨシュアには約束の地での嗣業を約束した(民数記13〜14章、申命記1:19-46)。

1. カレブの信仰
45年が過ぎた。85歳になったカレブはヨシュアに嗣業の地を願った(ヨシュア14:6-12)。彼のことばに彼の信仰の姿を見る。まず、45年前、カデシュ・バルネアで主に従いとおした姿(14:7-8)。次に、主が約束通り、45年間、生きながらえさせてくださったと信じ続けている姿(14:10)。そして、これからも主が共にいてくださって、アナク人を主が追い払ってくださるという確信(14:12)。神への信頼と、神への信頼から生まれる神への忠実さに生きている。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11:1)そのものである。

2. カレブへの信仰の報酬
カレブに主は報酬を与えられた。45年経っても変わらないカレブの肉体的な力(14:11)や彼に与えられる嗣業の土地(14:13)。しかし、これらはだれに対してもそうである訳ではない。年をとれば、弱るし、望んでいたものが必ず与えられる保証はない。しかし、もう一つの主からの報酬があった。45年間、一貫して変わらない彼の信仰そのものである。45年間、主はカレブに信仰を与え続け、年老いてなお、その信仰に生かさせている。
自分の信仰がもっと強くなったら、と自分で自分の信仰を強くできるかのように語る。しかし、信仰は信仰の報酬として神から与えられるものである。与えられたものに生きる毎に、さらに与えられる。だからこそ、偉大な与え主である方を覚え続けたい。

主の愛の支え(2015.8.16)

宣教題  「主の愛の支え」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ26章69~75節 ルカ22章32節

主イエスとペトロの出会いは、後々までつながるものでした。主イエスの仲間とされていたペトロが、予告されたように(26章26~35節)、そこから離反してしまったのです。主イエスは、そんなペトロを愛をもって回復させ、支え続けられました。

1.人の弱さを知り尽くされる主イエス
ペトロが「そんな人は知らない」と主イエスを三度も否認したことは、彼にとっては消し去ってしまいたいと思うほどに恥ずかしいことでした。そのことを伝えているのは、主イエスの愛に対して、人は自らの力で誠実であることができない弱さをもっていることを語っているのです。
ペトロが、「わたしは決してつまずきません」(26章33節)と言ったのは、取りつくろってのことではありませんでした。しかし、主イエスが捕らえられたことに不安を覚えて、主イエスの仲間だと告発される度ごとに、その関係を誓ってまで否認したのです。
「そんな人は知らない」と言い切るような人の弱さ、身勝手さ、惨めさ、罪が、主イエスを十字架に架けたのです。

2.人への愛を貫かれる主イエス
主イエスは、ペトロによって否認されるという裏切りを知りながら、それを受けとめておられます(ヨハネ2章24~25節参照)。人は裏切られるという経験をすると、自分の愚かさを棚に上げて、相手を恨むことをします。しかし、主イエスは、どこまでも愛を貫かれました。裏切られてもなお愛する愛、それが神の愛です。その愛は、後々に至るまで貫かれました。
ペトロは、先に主イエスが語られた御言葉と(26章34節、75節)、慰めに満ちた励ましの祈りと御言葉を思い起こしたことでしょう(ルカ22章32節)。このように、主イエスは、愛をもって人を支え続けてくださるのです。この主イエス愛の前に立って、それを拒んだり、中間的な立場をとったりすることなく、主イエスの仲間であり続けましょう。

力尽きる時に(2015.8.9)

宣教題  「力尽きる時に」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章40~56節

ここでは、二つの話しが一つの物語として、引き離すことのできない共通の事柄が語られています。すなわち、自分たちの力は尽きたと思える病と死との戦いの連続の中にあって、なお、主イエスの御言葉を聴き、主イエスを信じ仰いでいます。信じるとは、どういうことなのでしょうか。

1.主イエスに任せる  40~42節、49~56節
人々にとって、主イエスの魅力は、このお方は必ず自分たちの願いを聴き届けてくださるお方であるということでした。会堂長ヤイロは、死にかけている一人娘を救いたいとの切実かつ緊急の必要から、「イエスの足もとにひれ伏した」のでした。その行為は、主イエスの権威にすべてを任せるとの信仰の表れでした。
ところが、主イエスが向かわれる途中で娘は死んだとの知らせが届きます。その報告を受けられた主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は救われる」と語られました。そして、生死の権威を手中に治めておられる主イエスは、娘を死の状態から解き放たれたのです。
わたしに任せなさい、と招かれる主イエスこそ、私たちの望みです。

2.主イエスを告白する  42~48節
12年間も出血が止まらなかった女性は、家庭や社会から隔離され、ユダヤ人の礼拝にも出席できませんでした。彼女の苦痛と悩みは、望みを失わせるものでした。
ところが、彼女が主イエスに近づき、「後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」のです。「わたしに触れたのはだれか」との主イエスの問いに、彼女は「震えながらひれ伏し」、事の次第を皆の前で言い表わしました。そして、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」との救いに与かる新たな信仰の歩みを始めました。
主イエスをひそかに信じているだけでなく、そのことを公に言い表すことが求められているのです。

主のために(2015.8.2)

宣教題  「主のために」                宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章13~17節

わたしたちは、この世では「旅人であり、仮住まいの身」(11節)として歩んでいます。だからと言って、この世に対して無関心であり、無責任であってよいのではありません。国家に対して、社会に対して、家族をはじめ他者に対して、積極的に愛をもって仕えていくのです。その生き方の大原則が、「主のために」生きることです。

1.わたしたちの服従  13~15節
神のものとされた者は、人がつくった社会のきまりや仕組みを軽んじることなく、為政者やその務めに従事する者を重んじて従うことが勧められています。それが「神の御心」だからです。神の愛をいただいて、良い業に励むことによって、キリストとキリスト者に対する批判の言葉は沈められます(15節)。しかし、神の御心に反してまで服従することは求められていません(使徒言行録4章19~20節)。
わたしたちが、服従することに難しさを覚えるときにこそ、キリストが服従された事柄を深く思い、「主のために」という視点をいただいて、この世におけるわたしたちの立ち位置、立ち振る舞いを選ばさせていただくのです(19~21節)。

2.わたしたちの自由  16~17節
さて、神のものとされた者の服従は、自発的なものであり、そこには喜びと自由が伴います。ですから、「自由な人として生活」するのです。しかし、その自由は、悪事を行なう言い訳や欲望からくる行いを正当化するために用いてはなりません。「主のために」用い、「神の僕として」の言動をするのです。
神の僕として仕えることが自由な生き方ですが、具体的にそれを貫く生き方があります。すべての人を敬い、重んじることです。教会の交わりにおいて、兄弟姉妹を愛することです。神を畏れる信仰を抱き続けることです。神が立てられた為政者を正当に評価し、神の御心に従った社会の秩序維持に努めることです。そのようにして、神に仕える自由を用いさせていただきましょう。