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マルコ

心が躍る経験(2008.5.4)

題   : 「心が躍る経験」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章14節~20節
情報時代に生きる私たちは、実に多くのことを知っています。しかし大切なことは、どれだけのことを知っているかよりも、何を知っているかです。
私たちは、キリストのすばらしさを知るという、心が躍る経験をしたいものです。

1.心が躍るキリストの福音  14~15節
旧約聖書の預言者たちを通して神が約束されていた「神の福音」が、イエス・キリストの到来によってもたらされました。それは「神の国」と言われる神の恵みのご支配が近づいたことを意味しています。今や私たちは、その神の国に入り込むだけなのです。そのためには、これまでの生き方を変えて、イエス・キリストの方に向きを変えて信じることが大切です。
このように、私たちが悔い改めて福音を信じるなら、新しい人生が始まります。しかし、この福音への招きは、キリスト者の全生涯が絶えず十字架と復活の主の方を向いているかを吟味させてくれるものです。私たちには、日ごとの悔い改めを通して、心躍る福音経験であるよう求められています。

2.心が躍るキリストの召し  16~20節
イエス・キリストは、神の福音を人々に届けるのに、祭司や学者たちでなく、ガリラヤ湖畔の漁師たちを弟子として用いられました。主イエスは、漁師たちを見極めるかのように深い愛のまなざしを注がれ、ご自身の方から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と召しておられます。彼らは、このキリストの召しを最優先して、神の国に導かれていない人々を見いだし、そこに導くための働き人になりました。
主の弟子たちは、欠点もあり、失敗もあり、失言もあったりしましたが、主イエスの後について行く中で、整えられ、造られていきました。キリストの召しには、このような力があるのです。
教会は、弟子たちと同じように、キリストの召しを聴く場所です。そして、キリストの後について従っていく新しい出発をする場所です。この心躍るキリストの召しを、心ふるえる思いで受けとめていきましょう。

神による人生(2008.4.27)

題   : 「神による人生」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章9節~13節
イエス・キリストの公生涯の始まりは、山頂の歓喜の経験から谷底の試みの経験に至るものでした。そのキリストと結び合わされた者の歩みは、歓喜のときであれ、試みのときであれ、いつも「神による人生」となっていくのです。

1.山頂の歓喜の経験において  9~11節
主イエスは罪のないお方であり、本来ならば授けるべき立場であるにもかかわらず、ヨハネからバプテスマを受けられました。その理由は、主イエスが罪人と一緒になられて、その中にご自分の身を置くためでした。このように私たちと一体となってくださったところに、私たち自身の拠り所を見いだすことができるのです(ガラテヤ3章26~27節)。
この時主イエスは、ご自分に聖霊が注がれ、父なる神のみ声を聞かれました。主イエスこそ、父なる神の愛の交わりの中にあって、罪人の救いのみわざを成し遂げることを明らかにしておられるのです。キリストと結び合わされた私たちは、神に愛されて、神に対して生きる者とされていることを聖霊によって確認し続けていくことが大切です。
「神による人生」は、このような歓喜の経験から出発するのです。

2.谷底の試みの経験において  12~13節
続いて主イエスは、聖霊によって荒れ野に追いやられ、サタンの試みを受けられました。そんな中にも、神のみ子に仕えるみ使いによる確かな支えと助けがありました。マルコは、そのことを強調しています。
さて、私たちの信仰の歩みの中で、死の陰の谷のような試みや押しつぶされそうな重荷と戦わなければならないことがあります。そのような時にも、キリストに結び合わされているゆえに、私たちは支え助けられるのです。そこに、敵前の前の信仰者のゆとりがあります(詩編23編4~5節)。
自分の行き先が分からなくなるとき、孤独に思われるとき、無駄な労苦の日々と思えるとき、自信を失うとき、病むときに、キリストに結び合わされた「神による人生」が開かれていることを確認し続けたいものです。

まず福音を(2008.4.13)

題   : 「まず福音を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章1節~8節
暗く悲しいニュ-スが多い世界にあって、私たちはイエス・キリストの福音を聴き、受け取り、生かされ、伝えることが大切です。
マルコは、主イエスの目撃証人であったペトロの通訳者として用いられ、福音に生きることを切々と書き進めています。その福音は、どのようにもたらされるのでしょうか。

1.イエス・キリストによって  1~7節
神の子イエス・キリストの福音は、神の救いのご計画の最初からありました。そのことを実現させるために、先駆者ヨハネは『罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた』のでした。そして、イエス・キリストを指し示したのです。
私たちが悔い改めるとは、神に背を向けているところから、神に向きを変えて、神に立ち返ることです。そして、私たちがイエス・キリストを受け入れて、私たちの生活と行動のすべてをキリストに支配していただくのです。

2.聖霊によって  8節
イエス・キリストの救いは、イエスが地上におられたときだけで終りません。聖霊によって受け継がれていくのであり、今も続いています。
誰でも、聖霊によらなければ、罪について分かりませんし、悔い改めることもできません。そして、イエスを主と告白することもできず、罪が赦されたという信仰を持つこともできません。さらに、主イエス・キリストに全く任せきる歩みができません。そのような福音に生きることができるように、主イエス・キリストは『聖霊で洗礼をお授け』くださるのです。

マルコは、信仰の歩みの途上において、挫折し、失敗し、燃え尽きました(マルコ14章51~52節)。しかし、最後の最後に「マルコによる福音書」を書き、これが世界に広がり、今日まで祝福の源になってきました。彼は、聖霊の助けと導きにより、立ち返り、神に用いられたのでした。

教会は、私たち一人ひとりがイエス・キリストの福音に堅く立ち、聖霊によってキリストの惠みに浴することによって成り立つのです。