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ヨハネ

しあわせはここに(2008.10.19)

題   : 「しあわせはここに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネ 5章1節~9節
聖書は全体を通して、人が神の前に真っ直ぐに歩むならば、その人生がどんな局面に遭遇したとしても、一切が神への感謝となり、神を讃えるさいわいな人生となることを明らかにしています。

1.自分のみじめさに気づかされる
「ベトザタ」と呼ばれた池の周囲にいた人々は、一様に人生の挫折を味わい、失望と空しさ、不安といらだちの中に置かれていました。38年間病気に苦しむ人も例外ではありませんでした。
彼には、自分の力ではどうすることもできないために、何とかならないか、とのあえぐ姿があります。「良くなりたいか」との主イエスの語りかけにも、助けてくれる人がいない、また一緒に苦しんでくれる人もいないと諦め、無力感を感じています(6~7節)。
今日のわたしたちも、心身の弱さだけでなく、自分の愚かさを悔いたり、取り返しのつかない失敗をしたりといったみじめさを経験します。それらは、誰しもが経験するのではありません。しかし、全ての人が共通して味わうのが、罪と死に対して神の救いにあずかっていない、というみじめさです。
何とかならないかとあえぎつつも、それを他の人に責任転嫁したり、誰もが同じだと諦めてしまう無力感を抱いたりする自分の姿に気づいていますか。

2.キリストの救いの力を経験する
「イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『良くなりたいか』と言われた」(6節)と、自分のみじめさを味わう人に愛のまなざし、愛の理解、愛の語りかけをしておられます。
その究極の現われが、私たちが罪と死の虜となっているところから解き放たれるために、主イエス・キリストが十字架で身代わりの死を遂げてくださり、死の壁を打ち破って復活された救いにあります。
今や私たちは、「起き上がりなさい・・・歩きなさい」(8節)との主イエスの招きに信頼して、このお方の救いの力によって立ち上がらせていただき、新たな歩みを始める必要があります。本気になって、「良くなりたいのか」との愛の招きに応ずる決断をしたいものです。

主を見て喜んだ(2008.3.23)

題   : 「主を見て喜んだ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : ヨハネによる福音書 20章19節~23節
イエス様が墓に葬られて三日目の朝、マグダラのマリアはイエス様がよみがえられて空っぽになったお墓を見て、ペトロともう一人の弟子に伝えました。彼らもお墓を見て、不思議に思いながら家に帰って行きました。しかし、マグダラのマリアは墓に留まっていました。このようなマリアにイエスはご自身を現して下さったのです。

1.心にかかる鍵
マリアは「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えました。しかし弟子たちは人を恐れて、家の鍵をかけて中に隠れていました。しかし、そんな家の中に復活のイエス様が入ってこられたのです。そして「あなた方に平和があるように(シャローム)」と言われました。
ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様を見捨てて逃げ出した弟子たちに、なんと優しく語りかけられたことでしょう。わたしたちがどんな困難や問題の中にあっても、心を固く閉ざしていても、心に来てくださるお方です。

2.主を見て喜んだ
イエス様は、弟子たちに手とわき腹を見せられました。そこには釘穴があり、わき腹には槍で突き刺された大きな傷がありました。紛れも無くイエス様です。
弟子たちは、この時初めて喜んだのです。この「喜んだ」には歓喜した、大喜びをしたという意味があります。わたしたちもどのような状態にあっても、死に勝利された復活のイエス様が共に居てくださるなら、神からの平和が与えられるのです。

3.使命に生かされる
主を見て喜んだ弟子たちに、もう一度「平和があるように」と語られました。そして続いて「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。
イエス様は弟子たちに最高に崇高な使命を与えられたのです。弟子たちにはこの使命を果たす力はありません。ましてわたしたちにはそのような力はありません。
しかし、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。弟子たちがその使命を達成するために必要なことをしてくださったのです。

不信仰で無力なわたしたちを用いるために、聖霊が今日も与えられています。復活のイエス様を喜び、愛し、愛する人々に福音を伝えさせて頂きましょう。