月別アーカイブ: 2019年4月

イエスは知っておられる(2019.4.28)

宣教題 「イエスは知っておられる」  宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 ヨハネ6章1~15節

私たちは、生きている限り試練や艱難が来ます。そのとき、どうすれば良いのでしょうか。弟子達は今回の試練を通して学びました。

1.弟子はできないと思った
 男五千人を食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか(5節)。とイエスは言われました。フィリポとアンデレはそれぞれ、お金が足りない事、子供が持っていた食べ物では到底足りないことを理由に、できないと答えました。

2.主イエスにはできる
 弟子達が無理難題だと思っていたことも、それを言ったイエスは、御自分では何をしようとしているか知っておられました(6節)そして、アンデレが何の役にも立たないと言った、少年が持っていた大麦のパン五つと魚二匹を神に感謝して、人々に欲しい分だけ分け与えられました(11節)

3.イエスのところに持って行く
 私たちは、試練や艱難が来たとき、その問題の大きさに目を奪われ、自分の能力や今持っているものでは、出来ないと諦めてしまいます。しかし、私達には出来ないと思え、足りないと思えるときでも、イエスはどうしたら良いかを知っておられます。そして、私たちがそれをイエスのところに持って行くのを待っておられます。イエスは捧げられたものを幾倍にも増やして、分け与えた結果、パンはあり余りました(12~13節)。弟子達はこの試練を通して、イエスに持っていく事、イエスの言われた事に従うとどうなるかを学び、成長しました。

 イエスは今日も、私たちがイエスのところに持って行くことを待っておられます。今、イエスのところに持って行く事はなんでしょうか。

(聖書朗読 1MB)

(メッセージ 9.7MB)

主が私の愛を完成してくださる(2019.4.21)

宣教題 「主が私の愛を完成してくださる」 宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヨハネ21章15~19節 1ペトロ1章8節

 私たちは、復活されたキリストにお出会いしたペトロ同様に、本気でキリストの愛の中に生きているか、本気でキリストを愛しているかと問われています(15~17節)。ペトロは、この出会いを通して、新しい歩みを始めました。

1.愛を呼び起こされるキリスト 
 ペトロは、キリストとの一番最初の出合いから(ヨハネ1章41~42節)、事あるごとにキリストの愛の招きに応答することを求められました(同13章36~38節)。ところが、キリストの十字架を前にして三度否んだのです(同18章25~27節)。その敗北感に悲しむペトロは、やり直すすべを知りませんでした。
 復活されたキリストは、そんなペトロに「わたしを愛しているか」と三度も呼びかけ、愛を呼び起されました。そして、ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じてす」と応答して信仰の一歩を踏み出しました。彼は、この愛の根拠を自分におくのではなく、全くキリストにおいています。

2.愛の証人として招かれるキリスト 
 あわせてキリストは、「わたしの小羊を飼いなさい」と、愛する人々に心を砕いて労し、その愛の証しを立てるように三度招かれました。それは、ペトロが自分の思いのままにではなく、キリストを愛するゆえに、その御心に生きることを喜び従うことでした(18~19節)。こうして、彼の生き方は変革したのです。

 このキリストの愛の関わりは、ペトロだけが独占するものではありません。復活されたキリストに愛され、キリストを愛する私たちに対しても同じように関わられます(1ペトロ1章8~9節)。キリストが、愛を完成させてくださるのです。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(11.3MB)

成し遂げられた(2019.4.14)

宣教題 「成し遂げられた」        宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヨハネ19章28~30節

 主イエスは、十字架上で祈り、とりなし、叫ばれました。このお方の十字架の死を取り囲む周囲の出来事に目をやるのではなく、このお方の死そのものに現された救いの恵みを見ましょう。主イエスは、何を「成し遂げられた」のでしょうか。

1.人の罪の一切を受け取られた 
 主イエスは、肉体的な痛みに苦悶する叫びとしてでなく、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」、「渇く」と言われたのです。それによって、「聖書の言葉が実現し」(詩編69編22節)、人が神に捨てられるという魂の渇きを味わうことがないように、主イエスが身代わりとなって受け取ってくださったのです。それは、主イエスが酸いぶどう酒を受けられたことに表されているように、人の罪を飲み干そうとされる救い主の死だったのです
 このようにして、主イエスは、罪人の魂の渇きを受け取られたのです。

2.ご自身の命を自ら捨てられた 
 主イエスは、父なる神の御心である十字架の死を成し遂げてくださったのであり、それによって神の栄光を現されました(ヨハネ17章4節)。このようにして、十字架の死にいたるまで愛を貫き通されたのです(同13章1節)。
 そこで主イエスは、「頭を垂れる」ことにより、十字架において枕する所を得られました(マタイ8章20節)。そして、「息を引き取られた」と、主イエスご自身が命を捨てて、ささげ尽くしてくださったのです(ヨハネ10章18節)。

 主イエスの十字架において、神の救いは「成し遂げられた」のです。もはやそれを覆すものは何もありません。主イエスに結ばれた者として歩み続けるのみです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(13MB)

愛の働き(2019.4.7)

宣教題 「愛の働き」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヤコブ5章19~20節

 この手紙の締めくくりの御言葉は、信仰の確信に触れるような勧めと約束で閉じられています。そこには、真理から迷い出た者を連れ戻そうとする、ほとばしり出るような主の愛と兄弟愛が満ちています。

1.連れ戻そうとされる主の愛 
 ヤコブは、「わたしの兄弟たち」と、心よりの愛を募らせて呼びかけています。一度主イエスを信じて従う道を歩みだしたにもかかわらず、そこから迷い出た者がいたからです。主イエスは、そのような者に対してひときわ愛に燃えて、回復へと招かれます(マタイ18章10~14節、ヨハネ6章39節)。
 私たちは、主イエスとその真理の御言葉から迷い出る可能性があります。しかし、私たちは、迷い出た者を連れ戻してくださる主イエスの愛の招きにお応えすることによって、信仰の再発見をさせていただけるのです。

2.連れ戻す兄弟愛 
 迷い出た者を連れ戻すために、「だれかが」役に立つことができるのです。一人ひとりには、それをさせていただける可能性があります。
 それは実に、大きな愛の働きです。まず、「罪人の魂を死から救い出」すこと、すなわち人を永遠の死、永遠の滅びから救い出すことになるからです。また、「多くの罪を覆う」ことになるからです。もし人を連れ戻さなかったら、その人が多くの罪に堕ち込んでいくことになり、それによって周囲に罪が広がっていきます。

 大きなことをしようとする必要はありません。人が迷い出ていると気づいたら、主の愛の迫りをいただく中から祈り、愛の働きをさせていただくのです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(13.8MB)