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霊的であるとは(2009.6.4)

題   : 「霊的であるとは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  2章14節~36節
聖霊に満たされた人々によって、神の福音が伝えられていきました。中でもペトロは、他の11人の使徒たちと共に、大胆に語りだしています。そのメッセ-ジは、聖霊によって開かれたもので、真に霊的であるとはどういうことかを教えています。

1.御言葉が開かれる
ペトロは、聖霊が注がれた「すべて人に」よって、神の御言葉が語られ、また神のビジョンが明らかにされると語っています。それは、旧約聖書の預言の成就であったと指摘しています(17~21節、ヨエル3章1~5節)。さらに、詩編を引用することにより(25~28節、34~35節)、ペトロが語ることはすべて聖書に基づくものであることを明らかにしました。
聖霊は、主イエスが語られたことを思い起こさせ(ヨハネ14章26節)、真理に導かれるお方です(同16章13節)。霊的であるとは、聖霊的であるということであり、御言葉が開かれることです(詩編119編130節)。そして、御言葉にともなう聖霊の導きを喜び、従い、神と人の前に謙虚で正直に生きることです。

2.イエス・キリストが見えている
続いてペトロは、「このイエス」の十字架と復活と昇天のゆえに(23節、24節、32節、36節)、聖霊が注がれたことを明らかにしています(33節)。このように、聖霊の注ぎと満たしは、主イエスの救いの事実に拠っています。私たちは、聖霊によって、キリストご自身に目が開かれるのです(1コリント12章3節)。そして、キリストの臨在の恵みに与かりつつ、キリストの証人とならせていただくのです(25~28節)。
私たちは、キリストの十字架と復活に固く結ばれているなら、何ものによっても支配されることはありません。そして、キリストを愛し、信じ、喜びに満ち溢れるのです(1ペトロ1章8~9節)。私たちは、イエス・キリストを主と仰ぎ見ることのできる霊的な存在です。そうした者の集まりである教会は、キリストを主とする霊的な生きものなのです。