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栄光の王の入城(2014.4.13)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: 詩編24編1~10節 ヨハネによる福音書1章11~12節

パームサンデーはイエスがエルサレムに入城されたことを記念する主日である。あえてエルサレムに上っていかれたのは、そこに神殿があったからだ。

1.エルサレムの神殿
「主の家」(詩編23:6)とはエルサレムに建てられた神殿のことである。この神殿を主が特別に選ばれた(聖別)(24:3)。だから、イスラエルの民 は、神に会い、ささげものをし、礼拝するために神殿に上っていった。そして、この神殿を、世界の所有者であり(1)、世界の創造者であり(2)、それを確 かに支えておられる神、天と海と地の王である方が自らの住まいとされた。

2.エルサレムに住むべき人
世界の王である主が住んでおられるエルサレムの神殿に上り、この方に会うことができるのは、どのような人だろうか。人の血を流すことのない「潔白な手と 清い心」をもつ人であり、人を欺く、むなしい偶像を慕わない人である(4)。むしろ、この神殿を住まいとされる主にだけあらゆる求めを祈り求め(6)、力 に満ちた、雄々しい主を自分の王として喜んで迎え入れる人(7−10)こそ、エルサレムの神殿に上るにふさわしい。栄光の王のそばにいて、その祝福と恵み を一杯に受けることができる(5)。

3.イエスが向かわれたエルサレム
イエスはエルサレムに入城され、人々はイエスを王として歓迎した。ところが、エルサレムはいまや流血の町であり、ローマ兵、さらにはユダヤ人によっても 偶像崇拝が行われている町であり、イエスを喜んで迎え入れず、いつ殺そうかと企てていた町であった。そして、イエスを王として迎え入れず、彼を十字架に架 けた。自分の民の所に来たのに、民はこの方を拒絶した(ヨハネ1:11)。王であるイエスはそのような場所に進んでいかれた。
しかし、王であり、主である方を拒絶したエルサレムが栄光に輝く場所となった。拒絶の象徴である十字架が、栄光の王の王座となったからである。だからこ そ、この受難週、私たちが拒絶しても、そこでイエスが神の栄光を表されることを覚え、十字架を通して、神の祝福が神を拒絶する私たちの真ん中に差し込んで いることを覚えたい。この神の恵みがあるからこそ、イエスを王として受け入れるという応答が生まれてくるのだから(1:12)。

豊かに実を結ぶ(2014.1.19)

宣教:仁科 共子姉
聖書:ヨハネ15章1~12節

イエスさまは、ご自分をぶどうの木に、父なる神さまを農夫にたとえて、父なる神さまやイエスさまと私たちの関係、私たちの使命について教えておられます。

1.枝としてつながっていること
私たちは、木であるイエスさまに枝としてつながっている存在です。
つながっている関係は、本当に近い関係です。新改訳聖書は、「とどまりなさい」と訳しています。それは、一体となっている本当に親密な関係です。枝とし てしっかりイエスさまにつながり、その命によって生かされているとき、実が結ばれていくのです。それは、枝の努力によるものではありません。

2.実を結ぶ
実はその木によって生るものですが、実を結ぶことは、枝の果たすべき役割です。実を結ぶためには、木につながっていればよいのです。そうすれば、豊かに実を結ぶことができます。
枝だけでは実を結ぶことができないように、イエスさまから離れていては、私たちは何もできません(5節)。枝のようにイエスさまという木につながって生きていくとき、実を豊かに結ぶ生活を送ることができるのです。

3.父なる神さまが栄光をお受けになる
農夫が手入れし、世話をしたぶどうの木が豊かに実を結ぶとき、農夫の功績が讃えられます。そのように、イエスさまの枝である私たちに豊かな実が結ばれるとき、父なる神さまが栄光をお受けになるのです。
私たちが、枝として実を結ぶことが最終目標ではありません。豊かに結ばれた実によって、それを世話した農夫である父なる神さまの素晴らしさが現され、あがめられることです。
イエスさまにしっかりとつながり、豊かに実を結ばせていただいて、神さまが栄光をお受けになるような枝として日々歩ませていただきましょう。