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神の力によって(2023.6.4)

聖 書

私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。 (1コリント 2:4)

礼拝音源(34MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 箴言9章10〜11節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編36編
会衆祈祷 一  同
聖  書 コリントの信徒への手紙一 2章1〜9節
使徒信条 93-4 1A 一  同
牧会祈祷 仁科共子牧師
宣  教 「神の力によって」 仁科共子牧師
祈  祷
6月誕生者祝福 詩編91編4〜5節
賛  美 457 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 仁科共子牧師
後  奏

宣教要旨

神の知恵によって十字架にあらわされた神の力が救いの力であると語ったパウロは、続いて、この神の力は聖霊によって知ることができると教えていきます。

1. 神の霊と力によって伝える
パウロは、知恵や知識によって雄弁に語っても、聞いた人が信じることはできないということを経験して知りました。それで、コリントの人たちには知恵の言葉によらないで神の霊と力によって伝えた、と言っています。

2. 神の知恵によって語るもの
神の力によってキリストの十字架になされた救いの恵みをいただいた者には、聖霊によって神の知恵が開かれ、神の言葉と神のみわざを理解することができるとパウロは教えています。それは、「人の心に思い浮かびもしなかったこと」であり、神が「ご自分を愛する者たちに準備された」ものです。

3. 神の力による信仰
神の知恵によって、十字架にあらわされた神の恵みのわざは、神の霊と力によらなければ知ることができず、信じることができません。パウロは、神の聖霊と力によってキリストを伝え、聞いた人々が信じて、信仰に生きる者とされていると語ります。この世の知恵によってはできないことです。
私たちは、神の力によって神の恵みのわざを知り、信じることができるようにしていただき、信仰の生活を導いていただいています。神の力によって歩みましょう。

聖書と神の力(2010.7.11)

宣教題  : 「聖書と神の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  12章18節~27節
主イエスは、復活はないと理解していたサドカイ派の人々に対して、「あなたたちは大変な思い違いをしている」(24節、27節)と言われました。それは、単なる思い違い以上に、大いに誤っている、とんでもない所に迷い出ているという意味です。その理由は、「聖書も神の力も知らないから」でした。

1.神の力を知らない  25節
サドカイ派の人々は、モ-セ五書に明記されている御言葉だけに立つという立場でした。彼らは、家系と財産を保存するための規定を用いて(申命記25章5~10節)、復活はないと議論をしかけてきたのです(マルコ12章19~23節)。それに対し主イエスは、あらゆる領域において生きて働いておられる神の力を知らないから、聖書が語る教えに疑いが生じるのだと指摘されました(同24節)。
イエス・キリストの十字架と復活を信じる者は、「もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」との約束をいただいています(ルカ20章36節)。その復活のときには、結婚も死もない世界に生きるのです。

2.聖書を知らない  26~27節
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、サドカイ派の人々が重んじていた御言葉の一つでした(出エジプト3章6節)。その神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神であって、今の私たち一人ひとりに「わたしはあなたの神である」と語りかけていてくださるのです。私たちは、この語りかけを聴き取ることが大切です。
十字架上の二人の犯罪人は、最も主イエスの近くにいました。しかし、真に近くいたのは、悔い改めた者であり、そこに永遠の救いがあったのです(ルカ23章32~43節)。私たちも信仰によってイエス・キリストと結び合わされるならば、十字架と復活に現わされた神の力が「私の救い」となるのです。
御言葉と神の力に対する信仰があるならば、誤り、迷い出ることはありません。