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確かな神のことばに立つ(2013.11.10)

宣教題  :「確かな神のことばに立つ」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 40章1~11節
神の言葉を聞く者が、それを語る者へと変えられる。そのきっかけはなんだろうか。

1.語られ、慰められ、招かれる(40:1−5)
バビロン捕囚という悲劇の中にいた人々に神が慰めを語っている(1)。苦しみからの救いという慰めが主の具体的行動によって彼らの上に実現する。捕囚はイスラエルの罪ゆえに受けた罰であったが、その期間の終わりが心優しく神から語りかけられている(2)。
「わたしたちの神」が栄光をもって現れることによって新しい事がはじまる(5)。それは王である神の自分の都へと入城である。この入城に備えるように、苦しみの中にある者に語られる(3)。なぜならば、慰めの言葉を聞いた者は神の働きの参加者になるように招かれているのだ。彼らだけではない、すべての被造物が神の栄光の現れの備えに招かれている(4)。そして、神が語られたからこそ、このことは起こる(5)。

2.神の言葉の力を聞き、神の姿を伝える(40:6−11)
招かれても、人はすぐには参加しない。神の言葉を信じることは簡単ではないからだ。神は説得を続ける。人の誠実さは確かなものではない。草のように、枯れ、しぼむ(6)。しかし私たちを選んで下さった神の語る言葉は「とこしえに立つ」(8)。誠実に、語られたことは必ず実現する。その言葉の確かさが、慰めと希望と喜びの到来の保証である。
神の言葉を聞き、招かれた者は、王である神の行列の先頭に立って、良い知らせを世界中に告げる(9)。神の御腕は、困難を打ち砕き、時代を切り拓いていくという知らせを告げる。出エジプト同様に、時代を造りかえる力がある(10)。さらに、神の御腕は、優しく包む、羊飼いの手として、弱り果てた者を包み、癒し、慰める(11)。このようなすばらしい神の到来が告げられる。
私たちは神の言葉の確かさをすぐに疑う。それは、「聖書も神の力も知らない」から思い違いをしているのだ(マタイ22:29)。だからこそ、神の言葉の確かさを信じる者へと回心させて頂きたい。そして、神の言葉を聞き、それゆえに語るものとされたい。