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キリストの孤独(2011.7.31)

宣教題  : 「キリストの孤独」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 15章33節~41節
主イエスが、十字架上で父なる神に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたことは、聖書中の最大の「なぜ」です。私たちは、この叫びを真剣に尋ねる必要があります。

1.キリストは孤独を経験された
父なる神は、主イエスに十字架上で容赦のない審きをされました。それは、主イエスが人間の罪そのものとなられて、身代わりに神から捨てられてくださったことを表しています。本来、罪を犯されなかった主イエスは、死ぬ必要がないどころか、父なる神に審かれることなどあり得なかったのです。
この時、一瞬とは言っても、主イエスは父なる神との交わりを断たれて孤独になられたのでした。しかし、「永遠の(聖)霊によって、御自分をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は・・・」(ヘブライ9章14 節)とあるように、聖霊は主イエスの贖いの御業を全うできるように支え続けられたのです。そこには、孤立された主イエスのお姿はありません。それゆえに、主イエスは、ご自分からその霊を父なる神に委託され、贖いの御業を完了したと勝利の宣言をされたのです(37節、ルカ23章46節、ヨハネ19章30節)。

2.信仰者は孤立することがない
私たちは、示されている罪がありながら、それを認めなかったり、悔い改めなかったりして、神との交わりから断たれて孤立していました。しかし、神は、主イエスの十字架によって、断たれた隔てを取り除き、交わりの道を回復してくださったのです(38節)。私たちが、百人隊長のように「イエスの方を向いて」信仰告白に導かれるならば(39節)、孤立することなく、神との交わりの中を生き続けることができるのです。
私たちは、主イエスの復活の勝利に立ちつつ、本来神から捨てられて当然であったにもかかわらず、捨てられずにしてくださった主イエスの十字架の贖いを忘れないで、それを重く受け止めていく信仰者となりましょう。

夜明けを望みつつ(2008.12.28)

題   : 「夜明けを望みつつ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 2章36節~38節
クリスマスの出来事は、シメオンやアンナに代表されるように、老いる者や死を間近に迎えている者に対しても届けられた喜びの知らせでした。特にアンナは、恐れと失望といったものに支配されて生きるのではなく、人生の夜明けを望みつつ積極的に神に生きる者でした。

1.神との交わりが深められる 36~37節
アンナは、若くして夫を失うという悲しみを経験し、楽しかった夫婦生活も突然断ち切られて、寄りかかって打ち明ける相手がいなくなるという淋しさと孤独の中を歩んでいたと思われます。そうした中で彼女は、過去にではなくて将来に目を向けて、神の約束の実現を待ち望んでいました。
その信仰の生き方は、時折、神の御前に立つというのではなく、「夜も昼も神に仕えていた」のでした。それは、礼拝する者の姿を表しています。絶えず神の御こころを聴きつつ、神に語りかけ、神からの答えや導きを受け取るという神との交わりを第一としていました。
神に生きる者は、神と交わりつつ老いていくのであり、その交わりは衰えることはありません。

2.神への感謝が拡大される 38節
幼子イエスを見たアンナは、「神を賛美し」、神に感謝をささげています。主イエスによって神の救いが現され、その救い主がここにおられるということを告白し続けるところに、神への賛美と感謝が溢れるのです。
神に向かって感謝をささげるなら、私たちの心は拡大していきます。その感謝は、私たちの心を謙らせるからです。その感謝は、私たちの心を高めるからです。その感謝は、私たちの心を周囲に拡げるからです。そして、このような感謝の専門家は、救い主を語り伝える者とされるのです。
神に生きる者は、夕日をあびる晩年であっても、日の出の勢いのような若い時であっても、その前に開かれた望みを抱きながら、神との深い交わり、神に感謝をささげる生活を全うさせていただきたいものです。