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よみがえる人生(2021.11.21)

聖 書

イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ11章25節)

礼拝音源(26.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 2コリント5章17節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編23編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ11章25〜26節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
証し
宣  教 「よみがえる人生」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
幼児成長祝福式 詩編71編5~6節
賛  美 57 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちは、さまざまに失うという経験をします。その中で最後に経験するのが、「命を失う」という死に直面することです。その時に、いつまでも残る信仰と希望と愛によって(1コリント13章13節)、よみがえる人生へと導かれたいものです。

1.死を覚えよ
マルタとマリアは、病気のラザロが癒やされることを願って「主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです」と、主が最善をしてくださることを期待して、お任せしようとしました(11章1~6節)。しかしその結果は、愛する者の死という悲しみに直面したのです(同7~16節)。それでもなお彼女たちは、主イエスに「終わりの日の復活の時に復活する」との将来に望みを置いています(同22~24節)。
私たちは、死の現実に対して自らの人生のはかなさを痛感します。その死を覚えつつ、主イエスに望みを置くのです。

2.主イエスを忘れるな
ところで、主イエスは「私は復活であり、命である」と語られたように、十字架において人の罪の問題を解決しくださり、復活されて死の問題に解決を与えてくださいました。この主イエスを信じる者は、死の不安の中にあっても復活の命を与えられ、復活の時によみがえるのです。そして、罪のゆえに永遠の死を恐れる者には、主イエスを信じる今この時に、永遠の命が与えられ、新しく生きるようにされるのです(同25~26節)。
主イエスを信じる私たちは、死から命へと移されたよみがえる人生の歩みをします。その信仰に生きる歩みは、継承されていきます。

神の御手によって(2012.9.9)

宣教題  : 「神の御手によって」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 申命記34章1~8節

モ-セの死は突然やってきました。彼の使命は、イスラエルの民の先頭に立って40年間荒れ野を旅し、約束の地カナンに民を導き入れることでした。ただし、モ-セ自身は、カナンを目の前にして、ピスガの山頂で天に召されたのでした。そこには、絶えることのない「神の御手」がありました(33章27節)。

1.神の御手にある生死  5節
モ-セは、死は神の命によるものであることを理解し(詩編90編3節)、自らの死も神の命によるものであることを受け止めていました。
私たちは、生きているのではなく、神によって生かされているのです。全ての人の生命は、神の御手の中にあるのです。従って、私たち一人ひとりの生死は、神の御手の中にあるのであり、神の御心に従うものなのです。

2.神の御手に導かれる使命  7節
驚くべきことに、モ-セは120歳になっても目がかすまず、活力も衰えていませんでした。そんな彼の死は、老衰などによるものではなく、使命が終わったからでした。
私たちには、それぞれの使命があります。それには、生かされているという使命と果たすべき使命があります。私たちが、その使命に真実かつ忠実であるならば、人々はそれを通して幸いを受けていきますし、その結果神が崇められるのです。一人ひとりの使命が終わったとき、それがその人の死なのです。

3.神の御手による御国への出発  6節
「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」とあります。これは、モ-セの死が彼のすべての終わりではなかったことを証ししています。彼は、神の御手によって、地上の生活から御国の生活に移されたのです。
私たちは、死によって地上の生活を終え、肉体は朽ちますが、その霊魂は永遠に生きる者とされているのです。主イエスの十字架による贖いと復活を信じ、罪から救われて永遠の命を与えられた者は、肉体の死は迎えますが、主の再臨の時に復活の体に化せられるのです(フィリピ3章20~21節)。それは、神の御手による御国への葬送です。