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私たちの交わりは本物か(2009.10.11)

題   : 「私たちの交わりは本物か」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 5章12節~16節
教会は、いかなる時にも「心を一つにして」集まり(12節)、聖徒の交わりを培ってきました。その交わりは、同じ三位一体の神を信じ、同じ救いに与かり、共通の礼拝・御言葉・使命・栄光・倫理を共有しています。この点において、わたしたちの交わりは本物となっているでしょうか。

1.主に贖われた者の交わり
教会が、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」(13節)と証言されているように、そこには、キリスト者でなければ決して入っていくことのできない明確な性質がありました。それは、キリストの十字架の血によって贖われた者たちの持つ(1ヨハネ4章10節)、とてもこのままでは仲間にはなれないという潔さ、輝き、一致があったというのです。
誰でもがそのままで加われるとしたら、それは真の教会の交わりではないのです。

2.周囲から尊敬される交わり
民衆は、その交わりが自分たちとは違うと思うほどであったので、その交わりに加われなかったのです。同時に、「民衆は彼らを称賛していた」のです(13節)。
たとい私たちが、内部では固い結束を保っており、大きな活動をしたとしても、周囲の人々から尊敬されない、称賛されないとしたら、その交わりを反省してみなければならないでしょう。神よりも人を見る日本において、この点は特に大きな意味を持っています。

3.救われる男女が加えられる交わり
続いて、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」(14節)とあります。一人もそのままでは交わりに加われなかったのですが、罪を悔い改め、キリストを信じた人々は、結果的にはその交わりに加わるようになったのです。ここに、教会の交わりが本物であった証しがあります。
私たちの交わりは、皆が同じ方向に向かっている交わりです。それは、同じ神に向かって献げる礼拝と、同じ使命に生きる福音伝道に生きる交わりです。

教会、聖なるもの(2009.9.27)

題   : 「教会、聖なるもの」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 4章32節~5章11節
教会は、いかなる状況下に置かれても、福音宣教とそこに生み出される交わりに生きてきました(2章42節)。その教会の聖なる交わりは、どのようにつくられていくのでしょうか。

1.キリストを証しするための交わり  4章32~37節
「すべてを共有していた」(32節)とは、教会がこだわることの一つでした。具体的には、自発的に持ち物を共有するということでした(34~37節)。教会がそのように導かれたのには要因があります。一つには、「信じた人々の群れは心も思いも一つ」にされて、聖霊に導かれる一致があったからです。もう一つには、信じた者は、キリストの救いによって主なる神のものとされたので、一切のものを神の管理者として正しく用いるように任されていたからです。
こうした聖霊による信仰の一致と愛の配慮は、教会が聖なるものとされている姿を表わしています。しかし教会は、そうした交わりだけを目的とするのではなくて、必然的に宣教の原動力となる交わりなのです(33節)。キリストを証しする宣教に至らない「聖なるもの」はないのです。

2.聖なるものにする交わり  5章1~11節
教会は、こうした宣教の交わりが豊かになっていくと、サタンの挑戦を受けることがあり、手術するように痛みを乗り越えていく経験をするものです。
アナニヤとサフィア夫妻は、共謀して偽りと欺きの罪を犯しました(1~2節)。教会は、愛と赦しの恵みの中に生きつつ、その罪を排除するために断固とした処置をとりました(1ペトロ4章17節)。これほどの裁きを招いた重い罪とは何なのでしょうか。サタンに心を奪われて、聖霊を欺いた罪でした(3節)。また、神を欺いた罪でした(4節)。そして、キリストの体なる教会を欺いた罪でした。その結果、教会のこと、宣教のこと、他者のことが顧みられなくなったのです。
私たちは、どれだけ教会を「聖なるもの」と自覚して信仰生活をしているでしょうか。「聖なるもの」抜きの宣教はないのです(11節)。