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最大のしるし(2019.11.24)

宣教題 「最大のしるし」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章27~44節

 人は、いつの時代もしるしを求めたがります。そのことをご存知の主イエスは、全ての人に対する救いの最大のしるしとして、死から復活されました(マタイ12章38~40節)。この事実に対して、私たちはどう応答すればよいのでしょうか。

1.生ける復活の主イエスを信じる 
 ユダヤ教の指導者であったサドカイ派の人たちは、死者の復活を信じていませんでした。彼らは、死が究極のゴールだと思って、死に対する不安と恐れを抱く人間を代表するような生き方をしていました(27~33節)。
それに対して主イエスは、「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」によって、死者が復活することを明らかにされました(34~38節a)。
確かなことは、すでに主イエスが十字架に死んで復活されたことにより、死は征服されたのです。この生ける復活の主イエスを信じることが、新しい歩みのスタートをすることになるのです。

2.生ける神によって生きる 
 主イエスは、人としてはダビデの子孫でしたが、十字架において人の罪を赦し、死を打ち破って復活し、天に昇って神の右に座して全世界を治めておられる神です(41~44節)。
この主イエスは、「生きている者の神」です。この主イエスに対する信仰をもって、「神によって生きる」歩みをしていくのです(38節)。

主イエスは、一人ひとりに、何に生きているのか、どなたに対して生きているのかを問いかけておられます。十字架の死から復活され、今も生きておられ、永遠までも導かれる主イエスの前を歩み続けていくのです。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(10MB)

大いなる逆転(2016.3.27)

宣教題  「大いなる逆転」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1コリント15章50~58節

キリストの十字架と復活の出来事は、過去の歴史ではなく最新のニュースであり、今も生きて働いている福音です。従って、死者の復活は揺るぐことのない希望です。
そこでパウロは、復活されたキリストによってもたらされる勝利の叫びを上げています(57節)。さらに、生き方が変えられたことを明らかにしています。

  1. 死に勝利して生きる 50~56節
    ここには、死の力の前に無力を知らされるばかりの私たちに、決して死がすべての終わりではないことを告げています。地上の有り様は過ぎ去り、朽ちていきます。しかし、終わりの日すなわちキリストが再臨されるときには、「この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」との神の御業がなされるからです(52~53節)。このことを信仰の目でしっかりと見るようにと告げています(51節)。
    そして、死に対する勝利が宣言されています(54節b~56節)。死は罪の結果であり、その罪に対するさばきが死です。しかし、キリストの十字架と復活によって、罪と死は完全に滅ぼされ、「死は勝利にのみ込まれた」のです。この世の命に望みをおかず、復活信仰に生きるところに勝利があります。

2. 主の業に溢れて生きる  57~58節
さて、復活信仰に生きる者は、死に勝利させてくださった神に感謝する生涯へと変えられます(57節)。そして、「主の業」に常に励む歩みに繋がっていきます。それは、いかなる時も、いかなる状況にあっても、キリストの十字架と復活によって成し遂げられた福音をこの世に証しすることに溢れる生き方です。信仰によってキリストに結ばれている者には、その主の業がどれほどの苦労であったとしても、決して「無駄」にはならないのです。
キリストの復活のゆえに、私たちの信仰も宣教も「無駄」にはなりません(15章14節)。また、そのキリストの恵みに徹して生きる者は、神の恵みを「無駄」にはしません(15章10節)。復活信仰がもたらす大逆転に生きる群で在り続けたいものです。

大いなる慰め(2012.11.25)

宣教題  : 「大いなる慰め」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖   書  : 使徒言行録20章7節~12節
今の日本に必要なのは、偉大な慰めです。死んだ者が生き返ることは、最も幸いなことであり、大きな慰めです。そこには、あり得ないことがあり得たという慰めがあります。私たちは、この大いなる慰めに生かされているのです。

1.共有することによる慰め  7~8節
パウロたちは、フィリピから海路トロアスに来て、同労者たちと落ち合い、七日間を過ごすこととなりました(6節)。彼らは、キリストの復活を記念する「週の初めの日」にそこの教会の聖徒たちに集まってもらい、礼拝をささげました。その礼拝は、聖餐を意味する「パンを裂く」ことと、御言葉が話されるメッセ-ジとから成っていました。
聖餐式は、私たちがキリストの贖いの恵みに感謝する時であり、キリストの体にあずかるという主との交わりまた聖徒の交わりを持つ時であり、キリストの臨在に生かされ、キリストの再臨待望に生きることを確認する時です(1コリント11章23~26節)。また、メッセ-ジが語られる時には、私たちが御言葉に触れることによって、「忍耐と慰めの源である神が」希望と同じ思いとを持ち続けさせてくださるのです(ロ-マ15章4~6節)。このように私たちは、慰めの礼拝共同体に生かされているのです。

2.復活信仰に生きる慰め  9~12節
パウロは、夜明けまで説教し続けました。その間、エウティコという名の青年が、説教中眠りこけて、建物の三階から下に落ちて死んだのです。パウロは、愛と祈りをもって青年の上にかがみ込み、抱きかかえたところ、キリストの復活の命が青年を死からよみがえらせました。「騒ぐな。まだ生きている」とのパウロの力強い信仰の言葉は、その場の暗い沈んだ雰囲気を明るい喜びの雰囲気に変えました。
私たちは、このような非常事態が起こった時にこそ、死者を復活させてくださる神を信じて、冷静に祈り深く行動することが求められます。私たちは、死の現実、絶望的な現実に追いやられた時に、十字架と復活の信仰に生きることによって、慰めを受けるのです(1テサロニケ4章15~18節)。教会の使命は、復活信仰に生きる慰めを分かち合うことにあります。

わたしたちを生かす信仰(2011.9.25)

宣教題  : 「わたしたちを生かす信仰」   宣教:   中川 利行 師
聖    書  : マルコによる福音書 16章1節~8節
キリスト教信仰の中心は、イエス・キリストを神の御子、罪よりの贖い主、そしてこの方をわたしの個人的な救い主と信じる信仰です。そして福音とは、イエス・キリストの御生涯、彼が受けられた十字架による苦難、その死よりの復活を言います。

1.「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
マルコ16章1~8節は、主のご復活の記事です。この時の三人の婦人たちは、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という天使の声を聞いた時でさえ、持参した香料のことをすっかり忘れてしまうほどに、疑いの心、落胆しきった気持ち、絶望感を抱いたままでした。婦人たちは、ここに至るまで主イエスから何度も十字架の死と復活の予告を聞いてきたにもかかわらず、結局死んだらお終いだとの疑いの心に捕らわれていたのです。続いて婦人たちは、復活された主にガリラヤでお目にかかれると聞いても、震え上がり、正気を失って墓から逃げ去りました。戦慄を覚えたからです。
しかし、主イエスの復活は事実起こりました。主が復活された三つの証拠があります。(1)三人の婦人の証人=彼女たちは目撃者でした。(2)大きな証拠品=封印された大きな石が転がされていました。(3)天からの証し=天使が「あの方はよみがえられた」との伝言がありました。

2.復活されたイエス・キリストをいつも思う。
キリストの使徒となったパウロは若き伝道者テモテに、「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(2テモテ2章8節)と語っています。
主イエスは今日も復活されて生きておられます。私たちが信仰生活を続けていく上で特に記憶しなければならない事は、「死者の中から復活された」イエス・キリストの事を思うことです。パウロは「イエス・キリストをいつも思い起こす。これがわたしの福音である」と生き生きと表現しています。
私たちを生かす信仰は、十字架に死んで復活されたイエス・キリストを信じる信仰以外にありません。私たちは、この信仰に立つ者となりましょう。

復活からの道(2010.4.4)

宣教題   : 「復活からの道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 16章9節~18節
キリストの復活という喜びの知らせが(6節)、「ここにはおられない」という言葉だけが残った人々には恐れを生じさせました(8節)。そこで、キリストは弟子たちをはじめとする多くの人々に、ご自身を現わされました。それによって、キリストの復活が確かであることを明らかにされたのです。

1.信じなかった人たちによって証明された  9~14節
キリストは、マグダラのマリアを通して「イエスと一緒にいた人々」に、二人の弟子を通してエルサレムに留まっている「残りの人たちに」、「復活されたイエスを見た人々」を通して11弟子たちに復活の事実を知らせましたが、誰も「信じなかった」のです。このように、キリストの復活を容易に信じなかったことが、キリストの復活が彼らの思いこみでもなく、だまされたからでもなく、逆に確かな事実であることを証ししています。
こうした人々がキリストを信じなかったのは、信じようとしない心のかたくなさが原因でした。ですから、真実な証人の証言を通して、キリストの復活の事実を信じる信仰が求められるのです。
2.信じた人たちによって証言された  15~19節
キリストは、不信仰でかたくなな弟子たちに恵みを注がれ、「滅びの宣言」ではなく、キリストを信じることによって「救われる」ことを語られました。そして、「信じて洗礼を受ける者は救われる」と招かれました。
キリストは、必死になって、ご自身の救いの中に人間を引き戻そうとされるお方です。そのために、信じた主の弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命じて、彼らを用いて神の救いを進めてこられました。その時、キリストの名によって種々の不思議な御業がなされるとともに、何よりも救いと祝福と慰めの「新しい言葉」を語ることによってなされてきたのです。
キリストを信じた者の人生は、恐れで終わることなく、キリストによって神を讃え、神の救いの言葉を語る者に変えられるのです。