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神の臨在に触れて(2017.1.8)

宣教題  「神の臨在に触れて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ6章1~13節

ここには、神の臨在に触れたイザヤが、預言者として立ち上がるに至った恵みと召命の経験が語られています。人は、神とどういう関わり方をしたかによって、その人の神を見る見方、その人の信仰の在り方と生涯を決めると言えるでしょう。
1.聖なる神を見る経験  1~4節
ウジヤ王が死んだために、民は悲嘆にくれ、南ユダ王国全体が不安定になって激動の時代を迎えようとしていました(7章1~2節)。そのような時に、イザヤが民を祝福するために神殿を訪れ、神との出会いを経験したのです。
それは、イザヤが神を見るという出会いでした。そこには生きておられる神の臨在がみなぎっており(1節、4節)、イザヤは「栄光の主」を見ています(3節)。さらに、超越しておられる「聖なる神」を見ています(3節)。そして、「王なる万軍の主」を見ていました(5節)。このような神が、私たちが信じるイエス・キリストであり、この方に私たちの存在の根拠を置いて、信仰の歩みをしていくのです。

2.聖なる神の恵みの御業を見る経験  5~13節
こうした神との出会いの経験は、自分の真相を見る経験となります。聖なる神の御前に「ああ、わたしは、もうだめだ」(5節、新改訳聖書)と告白する者となるのです。神が分かるということは、自分の罪と汚れが分かるということです。そのようなイザヤに、神は恵みによって「汚れた唇」がもたす罪と汚れをきよめられたのです(6~7節)。それは、罪と汚れの中にある者を主イエス・キリスト十字架の血と聖霊によって罪を赦しきよめてくださる恵みの御業を表しています。
続けて神は、罪と汚れのゆえに苦しみ、御言葉に聴き従おうとしない頑固な人たちに(9~13節)、イザヤと同様な神の恵みに与った者を遣わして用いてくださいます(8節)。「わたしを遣わしてください」との召しに応答する者とされましょう。

召され、信頼し、従う(2013.4.21)

宣教題   : 「召され、信頼し、従う」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ローマ 1章1~7節
御子に関する神の福音は、神の王国が世界に到来し、復活されたイエスがその王であると宣言している。この福音の宣教は何を私たちの上に起こすのか。

1.召命(1:7)
御子に関する福音は、イエスの復活の事実を告げているだけではない。「神の王国が到来し、イエスがその王となった。今、この王国に加わろう」と人々を神の王国へと招待する。これは、神ならぬものが支配し、罪と死の力が人々を苦しめている世界で、イエスこそ本当の王だと勇気をもって宣言する困難な選択を求める。同時に、御子をささげ、ご自身のすべてをささげるほどに私たちを愛しておられる神の招きでもある。

2.従順(1:5)
福音の招きを受けても、それを拒絶することもできる。この招きを受け入れる時、神の王国の民となり、王であるイエスの僕(1:1)となる。王であり、主人である方の声をしっかりと聞くのが僕である。そして、聞いたことばに従う。聞き、従うことを通して、福音の招きに応じた者は、イエスが王であることと神の王国の到来をその生き方を通して示す。

3.信頼(1:5)
王の声に従うのは、従わない者に与えられる罰を恐れているからではない。神が聖書の約束を忠実に守って下さったゆえに、忠実に従っていく。私たちの忠実さは、アブラハムが「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(4:18)た姿を模範とする。そして、アラム軍に囲まれたエリシャのように(列王下6:15−17)、王であるイエスに信頼し続ける。
神の福音によって召して下さる神の恵みへの応答は、信頼から生み出される従順である。そして、パウロが福音宣教へと召されたように(1:1)、召され、信頼し、従う私たちにも福音を告げ、神の招きを届ける使命が与えられている。

あなたが召されている(2008.7.13)

題   : 「あなたが召されている」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章13節~17節
主イエスが、最も大切にされ、情熱を傾けられたことは、「わたしが来たのは、正しい人を招くのではなく、罪人を招くためである」(17節)と呼びよせ召しておられることに尽きます。

1.召された罪人とは誰なのか
当時の徴税人は罪人と同じように数えられていました(15節)。彼らは、神に選ばれたユダヤ人でありながら、神のことばに背いて生きているという理由で、社会から疎外され、交わりを持つことを敬遠されていたのです。律法学者たちは、そういう罪人を退けて、自らは正しい者とした人々でした(16節)。
ところが主イエスは、全く違った視線で徴税人を見ておられます。そして、「わたしに従いなさい」と召しておられます(14節)。主イエスは、自分を正しい者として他者と区別して自己満足している偽善者ではなく、神の前に出ることもできないこころ貧しい者と自覚している罪人を大切にし、情熱を傾けて招いておられるのです。この召しは、主イエスの十字架に直結しています。
自分らしさを求め、自分らしく生きたいと願っても、自分の視点で見ていては解決はありません。主イエスの召しに応えて、主イエスが見られる視点で自らが罪人であることを分からせていただき、十字架による救いにあずかることが大切です。

2.召された罪人はどのように生きるのか
すでに主イエスの召しに応じた人々のように(1章16~20節)、徴税人レビも「立ち上がってイエスに従った」と、召しに応答しています(14節)。彼は、これまでの取り立てる生き方から、分かち合う生き方に変えられ、主イエスに招き入れられたことの喜びを経験しました。そして、レビ自身そのことを忘れることなく、自らも罪人を招く者と変えられ、「イエスのために」生きる者とされたのです(ルカ5章27~29節)。
私たちが神のものとされ、聖別され続けるという恵みは、それを受けたときと同じ「イエスに従った」という信仰と服従を持ち続けることによって持続されます。キリストに召されているという恵みを失わないようにしたいものです。

心が躍る経験(2008.5.4)

題   : 「心が躍る経験」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章14節~20節
情報時代に生きる私たちは、実に多くのことを知っています。しかし大切なことは、どれだけのことを知っているかよりも、何を知っているかです。
私たちは、キリストのすばらしさを知るという、心が躍る経験をしたいものです。

1.心が躍るキリストの福音  14~15節
旧約聖書の預言者たちを通して神が約束されていた「神の福音」が、イエス・キリストの到来によってもたらされました。それは「神の国」と言われる神の恵みのご支配が近づいたことを意味しています。今や私たちは、その神の国に入り込むだけなのです。そのためには、これまでの生き方を変えて、イエス・キリストの方に向きを変えて信じることが大切です。
このように、私たちが悔い改めて福音を信じるなら、新しい人生が始まります。しかし、この福音への招きは、キリスト者の全生涯が絶えず十字架と復活の主の方を向いているかを吟味させてくれるものです。私たちには、日ごとの悔い改めを通して、心躍る福音経験であるよう求められています。

2.心が躍るキリストの召し  16~20節
イエス・キリストは、神の福音を人々に届けるのに、祭司や学者たちでなく、ガリラヤ湖畔の漁師たちを弟子として用いられました。主イエスは、漁師たちを見極めるかのように深い愛のまなざしを注がれ、ご自身の方から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と召しておられます。彼らは、このキリストの召しを最優先して、神の国に導かれていない人々を見いだし、そこに導くための働き人になりました。
主の弟子たちは、欠点もあり、失敗もあり、失言もあったりしましたが、主イエスの後について行く中で、整えられ、造られていきました。キリストの召しには、このような力があるのです。
教会は、弟子たちと同じように、キリストの召しを聴く場所です。そして、キリストの後について従っていく新しい出発をする場所です。この心躍るキリストの召しを、心ふるえる思いで受けとめていきましょう。